吉見直人の近現代史ブログ

史料で日本の近現代史の再構築を。

航空燃料国産化と日米開戦:国立公文書館所蔵の知られざる聴取書群から

あまり知られていないことですが、昭和31年からおこなわれた、旧陸海軍人を中心としたヒアリングの記録が国立公文書館に保管されており、誰でも閲覧することができます。その史料について、拙著『終戦史』では、こう紹介しています。

元海軍大佐の豊田隅雄(法務省司法法制調査部参与)らが実施した聴取は、1956年(昭和31年)12月11日の石川信吾を皮切りに1967年(昭和42年)1月25日まで約10年の間、確認できたものでは旧陸海軍軍人を中心として60名以上、聴取件数では100件以上の大がかりなものである。〔略〕聴取書は現在、「戦争犯罪裁判関係資料」の一部として国立公文書館で保管、公開されている。まとまった簿冊としては、「聴取書綴(A級戦犯者ほか)」(平11法務06475100)、「聴取書綴」(平11法務06477100)がある。また豊田らの聴取活動については豊田隅雄『戦争裁判余録』(泰生社、1986年)に詳しい。~拙著『終戦史』p22

聴取の全体像については改めて記すとして、今回はそのなかから、軍令部第四課長だった栗原悦蔵・元海軍少将からの聴取書の一部を紹介します(昭和36年6月2日、平11法務06449100-4)。

昭和16年9月頃の海軍の手持ち燃料は650万トン程度、さらに、陸軍民間のものを合計すれば800万トン乃至900万トン程度で、戦争になった場合も最初の1年半や2年は何とか賄える見込みもあったが、それ以後は南方からの補給による以外には方法はなかった。
しかも、オクタン価の高い航空燃料は、4エッチ鉛が国産が出来ず専らドイツからの輸入に仰いでいたのだが、6月独ソ戦勃発後はその輸入も困難になって、航空機の高性能発揮上、由々しき問題であった。そこで何としてもこの4エッチ鉛の国産化をやらねばとの切羽詰った要求から、その生産を長野県の日本曹達と郡山の保土ヶ谷曹達に命じたが、幸その全巾の協力と必死の努力によって比較的短時日の間に生産可能となり愁眉を開いた。この問題も戦争への踏切の一つの大きな山であった。
〔略〕
布哇作戦につぐ馬来沖海戦でもまたも海軍航空隊が英東洋艦隊主力、プリンス・オブ・ウェルス、レパルスの両戦艦を撃滅したとの情報に接したとき、会議中であった永野総長は椅子からスッと立ち上がって「参内」と云われた。
陛下は総長の奏上を大変よろこばれ、軍令部に鴨40羽を下賜になった。軍令部副官鹿目善輔氏の世話で宮内庁から鍋を借り、鴨のすき焼き会で祝宴を催した。席上富岡一課長等意気当たるべからず、有頂天になっているのを見て、私は、「この大戦果の陰の功労者に恩を致さねばならぬ、それらの人の為に乾杯しよう」と提議した。永野総長は「それは一体誰だ」と反問されたので、私は「それは4エッチ鉛の国産に成功した日曹や保土ヶ谷曹達、浅深度魚雷発射等の技術陣である」旨答えた。お蔭で私は、前記の両会社に市村氏とともに御礼に行かされたが、会社側は非常に喜ばれた。

 1941年12月8日から始まった太平洋戦争。そこに至る経緯をいろんな角度から、つぶさに追っていくと、その開戦は、さまざまな出来事が折り重なった先に起こった偶然だったように思うことがあります。この航空燃料国産化の話も、そのひとつです。

日本曹達の社史(70年史、1992年)には、このように書かれています。

二本木工場(新潟県上越市、同社最大の主力工場)では、航空燃料高オクタン価添加剤の四エチル鉛の製造を主体とするようになっていた。四エチル鉛の研究は、海軍の要請で昭和11年から行っていた。海軍燃料廠の加納大佐が創業者でもある中野友禮社長(昭和15年退陣)とともに二本木工場を訪れ、技術陣に航空燃料の重要性を説き熱心に協力を要請。その熱意に動かされ、“お国のため”に研究を引き受けることになった。
日曹技術者、大我勝躬の著作『墨蹟』によれば、加納大佐は次のように言ったという。
「現代の戦争は航空機の戦争である。〔略〕問題は航空機燃料である。〔略〕最近の航空機用エンジンは圧縮比が大きくなっておりそれだけオクタン価の高いものを必要とする。それにはアンチノック剤(耐爆剤)が必要であるが、残念ながら日本では製造していない。この耐爆剤である四エチル鉛がなければ戦争することはできない。是非軍に協力して、四エチル鉛の製造研究をやってもらいたい」

 日本曹達では、昭和14年に製造工場を建設、昭和16年3月に完成、4月に操業開始。日本初の四エチル鉛の自給態勢を築きます。軍はこの四エチル鉛国産化を高く評価、陸軍航空本部土肥原大将の名で感謝状が贈られ、海軍省軍需局長御宿中将が毎月1回、二本木工場を訪ねて従業員の労をねぎらった、とのことです。

大陸を戦場とした日中戦争とは異なり、太平洋を戦場として、アメリカやイギリスと戦った太平洋戦争は、基本的に海軍の戦争です。開戦前、海軍内の一部に強硬な意見があったことはよく知られたことですが、この技術革新がなかったら、はたしてどうだったでしょう。燃料の問題は、船舶の損耗予測とならんで、開戦の判断に大きな影響を与えた要素だったはずです。

さまざまな人が、さまざまな場所で、さまざまな尽力を積み重ねることで、僕らの歴史は形作られていきます。僕らは決して、破滅に向かって努力しているのではなく、明るい未来を夢見て、いまを懸命に生きています。それは当時も、いまも、まったく変わらないはずです。

科学技術の進展はすばらしいことで、それに尽くした努力はすばらしいものですが、それが結果的には、1945年の「終戦」、日本国はじまって以来の敗戦という、大変な国難につながっていったという歴史は、皮肉なものです。

(それにしても、有頂天になった軍令部の「鴨のすき焼き会」とは…)

吉田自由党:幻の「憲法改正→1955年に再軍備」案

65年前の1952(昭和27)年、憲法を改正したうえで再軍備を行うという政策案を、当時の与党・自由党が準備していました。自由党、といっても、現在の小沢一郎のではなく、自由民主党の前身、吉田茂率いる自由党のことです。

その自由党が、サンフランシスコ講和条約が発効した時、つまり、日本が独立を回復した時に、「再軍備を1955(昭和30)年と予定して憲法改正を行う」との政策案を発表しようとしていたところ、吉田茂首相の命令によって、その案がボツになったという話を、先日の投稿に書きましたが、今回の総選挙では憲法改正が争点のひとつとなっているので、続報を書きます。

読売新聞1952年4月11日朝刊「憲法改正再軍備 自由党政調会で取上ぐ」によると、

自由党では講和発効を機会に発表する党の新政策案を立案中であるが、その検討が進むにつれて「自衛力漸増か、憲法改正再軍備か」の問題が、すべての政策に先立つ先決問題として焦点的に浮かびあがり、近く党としてこの問題に対する明確な態度を決定しなければならない情勢に迫られてきた。
憲法改正再軍備に対しては吉田首相はじめ党幹部はこれまで自衛力漸増という言葉によって否定的な態度に終始して来たが、党内には最近の情勢から党としても最早や正式に再軍備を認め、さらに進んではそのための憲法改正についても真剣な検討に着手すべき段階に来ているという議論が高まり、七、八両日の政調首脳会議(秘密会議)では水田政調会長、田中副会長は『何等かの形で憲法改正を検討すべき段階に来ている』と主張し、愛知、西村両副会長は『ここ二、三年はあくまで自衛力漸増の線で行き憲法改正はさけるべきだ』と主張して完全な対立をみせた。
〔略〕党としては党内の意向を首相に具申して、いわゆる自衛力漸増から再軍備への切換えをいついかなる形で国民の前に明確にするかについて首相の真意を打診することになろう。

憲法改正に反対する派も、その主張は『ここ二、三年は憲法改正は避けるべき』となっています。「自衛力漸増から再軍備への切換え」は既定路線で、その時期に関して対立しているように読めます。

同月22日、吉田茂は田島宮内庁長官と「重要会談」を行っています(毎日新聞1952年4月22日夕刊か)。おそらくここで吉田は田島に、「お言葉の中で陛下が独立日本の国民と苦労を分たれる決意を示されるよう強く助言」をしています。要は、天皇退位説の打ち消しです(朝日新聞1952年5月4日朝刊一面)。

その2日後(4月24日)、吉田茂は皇居を訪問。昭和天皇に「講和発効後の諸問題、独立記念式典の行事などについて御説明」をしています(読売新聞1952年4月24日夕刊)。「戦禍の反省と憲法尊重を念願される陛下の御希望」(朝日新聞5月4日朝刊一面)は、ここで昭和天皇から吉田に伝えられたのかもしれません。だとすれば、昭和天皇憲法尊重の意向は、やはり、自由党内での憲法改正再軍備の議論に釘を刺したものと考えられます。

翌日(4月25日)、吉田茂自由党幹事長の増田甲子七と「三十五分にわたり要談」をします。そこで吉田が「基本政策の中の憲法改正問題に消極的な態度を示したため」、政調会が立案した独立後の基本政策を4月28日に発表すること自体がとりやめになります。会談後、増田は吉田の意向として、「憲法改正については世論の要求があれば我々もこれを採り上げるが、現在は未だその段階に至っていない」などと語りました(読売新聞・毎日新聞1952年4月25日夕刊)。

後日、この日の会談は、吉田が増田に対し、「戦禍の反省と憲法尊重を念願される陛下の御希望に副うため」「自由党が講和発効に際して発表しようと政調会で立案中の同党新政策案から再軍備を昭和三十年と予定して憲法改正を行うとの項の削除を命じた」ものだったと伝えられます(朝日新聞1952年5月4日朝刊一面)。じっさいには、「項の削除」だけではなくて、それも含めた基本政策の発表自体がボツになったわけですが。

さて4月28日。講和条約が発効、日本が主権を回復して独立国となった日です。朝日新聞の夕刊一面に、午前11時に発表された吉田茂の談話を掲載しています。そこには、

われわれは国情と国力の増進に順応してわが国自らの防衛力を作り上げ、進んで他の自由諸国と共に世界の平和と自由を援護する決意をなすべきである。

と書かれています。また、同じく一面に、吉田の「独立後初の記者会見」の一問一答を掲載。見出しには「憲法改正せず」とあります。再軍備についての質問に対する答。

再軍備うんぬんは簡単なようであるが、簡単なことではない。よく国力を整えて日本の独立安全を守るに足るだけの国力の養われた後において起る問題でそれ以前には軍備は置かない。〔略〕日本の国力が充実し、たえ得るような事態にならなければ再軍備はできない。徒に再軍備といえば、かえって国の内外に不安を生ずる。再軍備の考えは持っていない。したがって憲法改正はしない。日本を日本自ら守るとすれば、いつかは置かなければならないが、それはすべての手段を尽した後においてやるべきことである。

再軍備の考えは持っていない。したがって憲法改正はしない」と言っておきながら、内実は、「今は」改憲再軍備はしない、であり、いずれ国力がついた暁には、改憲再軍備をする、と言っているように読めます。じっさい、読売新聞は同日夕刊一面で「国力充実後に軍備」と見出しに書き、リードに「首相がこの会見で特に「国力充実後に軍備する方針」との決意を強調したことは注目される」としていますし、毎日新聞も同日夕刊一面で「再軍備、国力回復後」と見出しに書いています。

「首相、再軍備に慎重 お言葉へ特に進言 自由党新政策、憲法改正の項削る」(朝日新聞1952年5月4日朝刊一面)の記事内容はさきに書いた通りですが、省略した箇所を以下に記しておきます。

新日本発足のときをえらんで陛下のお言葉を懇請し、終戦以来、各方面に取りざたされた天皇退位説を打消して象徴としての天皇の地位を確立し、陛下の新たな御決意を願おうというのが吉田首相のここ数ヶ月にわたる念願であった。今回のお言葉はこの首相の願望をきっかけとし、陛下の御意向を体した田島宮内庁長官が首相と連絡して起草に当ったが、御決意を懇願する首相の念願にもかかわらず戦禍の責任を御一身に負われようとする陛下の御祈念は深く、また民主憲法の精神はあくまで尊重すべきだとの御意向であったと伝えられている。

昭和天皇憲法尊重の意向に沿い、吉田茂が「世論がハッキリした方向を示すまでは再軍備をいわず、憲法はいずれ改正するにしてもその“精神を発揮する”との陛下のお言葉を尊重する」と、この記事はみています。それにしたがえば、やはり、改憲再軍備に強く反対をしていたのは、吉田茂ではなく、昭和天皇であったことになります。

では、「さらにうがった見方をすれば、吉田が天皇に退位の断念を迫り、それと引き換えに、天皇が吉田に改憲再軍備の断念を迫った結果、双方が折り合う形で、天皇の留位と、改憲再軍備の先送りが実現した、ようにも思えます」という僕の推測は、どうでしょうか。

先日放送のドキュメンタリードラマ「華族 最後の戦い」(NHK・BSプレミアム)佐野史郎さんが演じた、元内大臣木戸幸一は、この前年の1951年10月17日、は、巣鴨プリズンに面会に来た次男の孝彦を通じ、次のような要旨を天皇側近の松平康昌に伝言するように依頼しています。

陛下に御別れ申上げたる際にも言上し置きたるが、今度の敗戦については何としても陛下に御責任あることなれば、ポツダム宣言を完全に御履行になりたる時、換言すれば講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとり被遊、御退位被遊が至当なりと思ふ。(『東京裁判資料・木戸幸一尋問調書』初刷p559)

これは木戸の持論で、巣鴨プリズンへ出頭する直前、1945年12月10日に、昭和天皇に別れの晩餐に招かれた際にも、ポツダム宣言の完全履行後の退位を直接訴えていました。講和条約の発効を控えた昭和天皇の脳裏には、木戸のこの主張が浮かんでいたことと思います。

ですが、当時、政治外交分野の米最高責任者だったウィリアム・J・シーボルトの10月24日の日記には、

条約が実施されたら、天皇は退位するという噂は本当か松平康昌に尋ねた。松平は、退位は一時検討されたが、天皇は自分の感情よりも国の安定の方が重要だと考え、退位はしないという決断に達したそうだ。

とあります。また、田島宮内庁長官の残した文書では、翌月11月9日の拝謁の際、昭和天皇が「退位論につき、留意の弁」を述べており、田島は昭和天皇の在位の意向をふまえて「お言葉」案を練っていたといいます(茶谷誠一象徴天皇制の成立』p240)。

いっぽう、このとき昭和天皇の侍従だった徳川義寛は、のちに朝日新聞社の岩井克己氏に対し、退位問題に最終的に決着がついたのは、1952年3月だったと思うと語っています(徳川義寛侍従長の遺言──昭和天皇との50年』p170)。

これらをみるに、その決着プロセスの詳細は不明ながらも、おそらくは徐々に固まっていき、4月の段階ではほぼ確定的となっていたのでしょう。

そう考えていくと、吉田茂昭和天皇に迫ったのは「退位の断念」というより、「在位の表明」と考えるべきかもしれません。

あるいは、吉田茂昭和天皇との間ではすでに在位論で固まっていたとしても、それを増田幹事長らが知らなかったと仮定すれば、吉田が増田に対し、昭和天皇の退位をもちらつかせて、自由党内にあった憲法改正再軍備論をつぶしにかかった、ということなのかもしれません。

自由党再軍備を予定していた昭和30年といえば、高度経済成長が始まった年です。幻の自由党案の通り、じっさいにこの年に再軍備が行われていたら、日本はずいぶんと違った国になっていたことでしょう。

それにしても、国力回復後に再軍備って、なにか隔世の感があります。

さて、こうして当時の議論を追っていくと、吉田茂の4月28日の発言、「再軍備の考えは持っていない。したがって憲法改正はしない」に代表されるように、憲法改正再軍備がセットで捉えられていたことがわかります。

再軍備のための憲法改正であり、憲法改正とはすなわち再軍備のためでした。

あれから65年。日本国は一度の憲法改正再軍備もせずに、ここまできました。その是非はともかく、僕は、日本国憲法を、鉄の掟、金科玉条にはしないほうがいいと思っています。鉄の掟は思考停止を生み、戦前戦中のいわゆる軍国主義日本と同じ状況を作り出しかねないからです。

漫画家のこうの史代さんは、こう語っています。

核兵器がいまだになくならないのは、持っていればみんなが一目を置き、黙って言うことを聞くと思われているからでしょう。でも、広島や長崎についてもっと知る機会があれば、決して、そんな考えにならないと思います。こんな兵器を使う者のことは、誰もが、恐れても、心の中では信用しないからです。(朝日新聞2017年10月7日朝刊17面)

いま、軍事力が日本の平和を守る有効な手立てになるとは、僕は思いません。それより、世界じゅうに信用される国になることが、結果的に日本を守ってくれることになると思います。

自衛隊も要りません。

自衛隊を、「国際救助隊」にしてしまえばいいと思います。そう、1960年代のイギリスで放送された、あの人形劇。トレーシー一家とスーパーメカが活躍する「サンダーバード」のように。

災害救助を中心として、世界のあらゆる国に、要請に応じてすぐさま駆けつけ、人命救助にあたる専門の組織を、日本の国家予算を注ぎ込んで作り上げるのです。すでに自衛隊東日本大震災をはじめ、国内外の災害救助で実績を積み上げていますし、日本は世界最先端の科学技術も有しています。できるはずです。

国際救助隊をもつ国を、誰が攻撃できるでしょう。

詳細はまた改めて述べますが、対米戦争に至るまでの、かつての日本を振り返ってみると、そこには、「一等国」への憧れといったものがありました。世界から一目置かれる国家になりたい、との思いです。結果的にはそれがどんどんと間違った方向に進んでしまったわけですが、敗戦・占領を経て独立を果たした後の日本は、高度経済成長によってGNP世界第二位(1969年6月10日に経済企画庁が発表した国民所得統計(速報)で明らかに)となり、「経済大国」となります。それは、かつての日本が憧れた「一等国」の座を、違う形で実現したものともいえます。

僕ら日本人は、何故だかわかりませんが、世界から一目置かれる存在でいたいのだと思います。「スゴイデスネー、ニッポン!」と、言われ続けたいのです。「すごい国ニッポン」の究極の姿が、国際救助隊を持つ国ニッポン、なのではないでしょうか。

戦後の日本外交の基本線は、権謀術数ではなく、誠実さにあったと僕は思っています。外交と軍事は国家の両輪です。誠実な外交にふさわしい、誠実な軍事とは、軍事力を「黙って言うことを聞く」ために使うのではなく、相手国の信用を得るために使うことで、実現できるのではないでしょうか。

日米開戦の反省もふまえて、国際救助隊の創設を、まじめに主張します。憲法改正をするなら、是非ともそこに、国際救助隊の明記を。

東條“親切”内閣

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「国民に対し親切第一」と東條英機が内閣首脳への初訓示で語ったという、朝日新聞記事(昭16.10.22夕刊)。

特にお願いしたいことは「親切」ということである。ご承知の通り国民の多数が戦地において死を賭して幾多の辛苦を重ね、銃後の国民はまた一億一心、滅私奉公を重ねているのである、かかる際においては行政官吏たるものは常に国民一般の立場に立って考えることを忘れることなく、人に接すること懇切に、部内互いに相和し、事務の遂行に当たらんことを望む次第である。

訓示には「事務」という言葉が何度も出てきて、とてもこの時期の首相のものとは思えず、やはり東條は優秀な「事務方」だったのだろうなと思います。支那からの撤兵を強く拒み、結果、対米戦に突入してしまった彼の本心は、この「親切第一」だったのではないかと。
一国のリーダーとしては、やはり、「親切」よりも「決断」をしてくれてたらと思います。

ところで、当時の日本は、いまの北朝鮮と同様に、アメリカとの対立を深め、経済封鎖を受けていました。世界で孤立し、「ならず者国家」とみられていたことも、いまの北朝鮮と似ています。というか、北朝鮮が当時の日本をモデルにふるまっているようにも見えます。その日本の指導者、横暴な軍部を率いる独裁者というイメージで世界から見られていたであろう東条英機が「親切第一」を説いていたという事実。いまの北朝鮮にも案外、こんな実情があるのかもしれません。それにしても当時の日米関係、疑心暗鬼の探り合いより、誠実に腹を割った話し合いがあれば、史実とは違った展開をみせたのかもしれないと僕は思います。

 

※後日、加筆修正します。

日本は本当にソ連参戦を知らなかったのか:その1.海軍編

2013年に僕が刊行した『終戦史 なぜ決断できなかったのか』は、その一年前に放送したNHKスペシャル「終戦」の出版化という体裁をとりながらも、放送には盛り込めなかった内容や、その後の追加取材で得られた知見、僕なりの独自解釈なども盛り込んだ内容となりました。

欲張って「てんこ盛り」にしてしまい、ややわかりづらいものとなってしまった反省もありまして、当ブログでは拙著のなかから、いくつかのトピックを時々とりあげ、できるだけわかりやすく書いていきたいと思います。

1945(昭和20)年の日本の終戦経緯について、一般的に、次のように捉えられているものと思います。

陸軍、もしくは軍部の見当違いの構想に引きずられた政府と外務省は、こともあろうにヤルタで対日参戦の密約を交わしたソ連に望みを託して英米との和平交渉の斡旋を頼み、アメリカの原爆投下に続くソ連の参戦でその甘く愚かな幻想はうち砕かれ、最後は昭和天皇の聖断によってポツダム宣言を受諾。最後まで徹底抗戦を主張し続けた陸軍は実力行使を企てたものの、クーデターはすんでのところで抑えられ、8月15日の玉音放送で国民は敗戦を知った。~拙著『終戦史』p10

拙著では、こうした通説のいくつかの部分についての修正を試みているわけですが、今回は、ソ連参戦についてとりあげます。

当時の日本は、ソ連が「まさか」対日参戦するとは夢にも思わなかった、ソ連が米英との間で対日参戦の密約を交わしたヤルタ会談の内容も知らなかった、そして、

ソ連仲介による和平工作ほど愚かな政策はなかった」(半藤一利編『日本のいちばん長い夏』(文春新書、2007年)p175、拙著『終戦史』p224)

というのは、本当でしょうか?

当時のイギリスが傍受・解読をした、日本軍の電報の抜粋をいくつか紹介していきます。これは、ヨーロッパに駐在していた武官たちが日本に送った電報で、彼らがさまざまな情報源から入手した情報が伝えられています。

まずは海軍武官電。いずれも、スイスの首都ベルンからのものです。
昭和20年5月24日。

「フランスの報告によると、ヤルタ会談において、ロシアは極東における戦闘について期日を設定したという。この期限が切れる前に日本が降伏しなければ、対日戦争において、英国および米国に加勢する、というのである」~拙著『終戦史』p36

昭和20年6月某日(たぶん5日)。

「複数の報告によれば、ヤルタ会談において、ロシアは、欧州における戦争終結後も対日戦争が長引くようであれば、積極的に参戦したいとの意向を言明した、そして、ルーズベルトは、死ぬまでロシアとの友好を唱え、その信条に徹底して拘り、ロシア軍が活動を開始すべき凡その期日を8月後半とすることに概ね合意した」~拙著『終戦史』p38

昭和20年6月某日(たぶん11日)。

「以下の理由から、最後の瞬間にソ連が対日参戦することは十分ありえることである:
(1) 外交面。 ヤルタ会談で合意された期日(本年7月末と云われる)までに、英国および米国の対日戦争が終わらなければ、ソ連は参戦する」~拙著『終戦史』p40

また、これらの解読文とほぼ一致する内容が、海軍が当時作成したレポートに記され、内部で配布をされていたことも、日本国内の史料からわかっています。

すなわち、少なくとも海軍にはヤルタ密約情報が伝わっていた。参戦時期の予想についてはややブレがあるが、ヤルタ密約で取り決めたのが「ドイツ降伏後2、3ヶ月」、実際のドイツが降伏したのが5月8日だから、おおむね正確な予想を、ドイツ降伏後一ヶ月の段階で得ていたことになる。~拙著『終戦史』p41

少なくとも海軍は当時、ソ連が対日参戦をする可能性を、じゅうぶんに知っていたことになります。

NHK・BSプレミアム「華族 最後の戦い」と、昭和天皇の退位問題

リサーチャーとして、制作にかかわった番組のお知らせです。

ドキュメンタリードラマ「華族 最後の戦い」(NHK・BSプレミアム)

www.nhk.or.jp

番組では、木戸幸一近衛文麿、そして松平康昌という3人の「華族」の、戦中・戦後を、ドキュメンタリードラマという手法で描きます。軸になるのは、内大臣という要職にあった木戸幸一が遺した日記や証言。その木戸幸一を、佐野史郎さんがリアリティたっぷりに演じます。
戦争の時代を描くのに、軍人がほとんど登場しないという、特異な番組でもあります。

本放送は先月だったのですが、今週末に再放送があります。
2017年9月23日(土) 午後3時00分~4時59分
2時間という長尺の番組ですが、興味のある方は是非、ご覧ください。

木戸、近衛、康昌(周辺に松平姓が複数いるので、名前で書きます)の三人はそれぞれの考えで、皇室を守るために動きます。その詳細については番組をご覧いただくとしまして、この番組がフォーカスする、天皇の退位という問題。掘り下げていくと、じつは、改憲再軍備の問題とも密接にかかわってきます。天皇個人の問題にとどまらず、日本という国家の根幹にかかわる、現代に生きる僕らにとっても、きわめて重要な問題なのです。

昭和天皇の生前譲位によって退位が実現する可能性、その機会は、戦後、何度かありました。そのひとつが、講和条約が発効し、日本が独立を回復した頃です。研究者の冨永望によれば、このときの退位論は、ひとつには、旧軍人たちによって唱えられたものだったといいます。 

「少なからぬ旧軍人が戦争責任を問われて断罪された中で、保身に成功した昭和天皇を、もはや最高統帥者として仰ぐことはできないという声が彼らの中から起ったのである。逆にいうと、このとき天皇の退位が実現すれば、新しい天皇を最高統帥者にいただく形で改憲再軍備が行われたかもしれない」~冨永望『昭和天皇退位論のゆくえ』(吉川弘文館、2014年)p10

その後、日本は高度経済成長の時代を迎えます(1955~1973年)。もし、1952年の独立回復とともに、昭和天皇がケジメをつけて退位していたら、日本はどうなっていたでしょう。これだけの経済成長は、なかったのではないでしょうか。

「この時期の退位論の背後に再軍備があることが、退位論を噂のレベルに留めたのではないかと筆者は考える。つまり、退位は確かに戦争責任の清算につながるだろうが、その先には新天皇を最高司令官とする再軍備が待っている。昭和天皇が在位する限り、それは実現しない。天皇の戦争責任を問う声よりも、天皇を戴く軍隊を望まないという声の方が強かったために、退位論は広がりを欠いたのではないだろうか。〔略〕昭和天皇が留位したことにより、天皇を最高司令官に戴く改憲再軍備は不可能となった」~同前p160

戦争責任という「過去の清算」をうやむやにしてでも、改憲再軍備にフタをした、となるでしょうか。

手元に、朝日新聞の1952年5月3日付夕刊があります。この日の講和条約発効記念式典で昭和天皇が「お言葉」を述べたのを受け、一面の見出しには「『退位論』に終止符 御決意を表明」とあります。退位論に終止符が打たれたのを、歓迎するトーンです。

さらに、翌日の朝刊一面トップでは、それに関連して「首相、再軍備に慎重 お言葉へ特に進言 自由党新政策、憲法改正の項削る」とあります。ちょっと長いのですが、途中を省略して紹介します。

再軍備の問題とからんで憲法改正論議が行われているとき、天皇陛下は三日の独立記念式典のお言葉の中で戦争犠牲者を追悼され、過ちを再びくり返さぬようにとの御信念をのべられたのち「新憲法の精神を発揮し」といわれたが、このお言葉は終戦以来の陛下の御希望を、吉田首相の助言による御決意の表明とあわせてのべられたものと伝えられ、この間のいきさつから首相は憲法の改正に極めて慎重な態度をとるだろうとの観測が生れている。〔略〕首相は先月下旬、田島宮内庁長官を外相官邸に招き、お言葉の中で陛下が独立日本の国民と苦労を分たれる決意を示されるよう強く助言申しあげる反面、戦禍の反省と憲法尊重を念願される陛下の御希望に副うため同二十五日、増田自由党幹事長を招いて、自由党が講和発効に際して発表しようと政調会で立案中の同党新政策案から再軍備を昭和三十年と予定して憲法改正を行うとの項の削除を命じた。このようないきさつから首相は国民の世論がハッキリした方向を示すまでは再軍備をいわず、憲法はいずれ改正するにしてもその“精神を発揮する”との陛下のお言葉を尊重するものとみられる。

ここから、3つのことがいえると思います。
1.当時、改憲再軍備が議論されていたこと。
2.昭和天皇は、お言葉を通じてその議論に釘を刺したこと。
3.それを受けて、「再軍備を昭和三十年と予定して憲法改正を行う」との自由党案が消えたこと。

この記事を読むかぎり、当時、改憲再軍備に反対していたのは、吉田茂首相ではなく、昭和天皇であったと思われますし、さらにうがった見方をすれば、吉田が天皇に退位の断念を迫り、それと引き換えに、天皇が吉田に改憲再軍備の断念を迫った結果、双方が折り合う形で、天皇の留位と、改憲再軍備の先送りが実現した、ようにも思えます。

このあたり、関連する史料や証言がないか探ってみるとともに、研究者の見解をうかがってみたいところではあります。

※追記:「吉田自由党:幻の「憲法改正→1955年に再軍備」案」に続報を書きました。

さて、これにも関連する、冨永望の記述をもう1つ。

日本国憲法大日本帝国憲法の影を落とすことになった昭和天皇の存在は、皮肉な話ではあるが、日本国憲法の改正を封じる最大の要因でもあった。このねじれを解消する方法は、昭和天皇が退位し、新天皇が即位して仕切り直す以外になかったと思われる」~同前p202

ざっくり言ってしまえば、昭和天皇が長く在位したあいだ、すなわち、昭和が終わるまで、改憲再軍備も、ずっとフタをされ続けていた、という解釈です。

さらにいえば、大日本帝国憲法下で大元帥だった昭和天皇が、新憲法のもとで象徴天皇として在位し続けたことによって、この国は、憲法を改正することなく、もちろん再軍備への道を進むこともなく、高度経済成長、世界有数の経済大国への道を、まっしぐらに進んだ、と考えられるでしょうか。

それが、意図したことだったかどうかはともかく(誰が?)。

当時、たとえば吉田茂が首相を務めていた期間、改憲再軍備が進まなかった最大の要因は、おそらく、民意がそれを望まなかったという点にあるのではないかと僕は考えています。一般的には、吉田茂の「軽武装・経済復興優先」路線、いわゆる「吉田ドクトリン」をその要因に挙げる向きもあろうかと思いますが、すでに一部の研究者が指摘しているように、吉田茂はたんに現実的に対応しただけであり、民意がそれを望めば、改憲再軍備という選択肢もありえたでしょう。

なぜ、民意はそれを望まなかったか。

それは、敗戦という体験を共有した国民が、戦争に懲りた、それも、ひどく懲りたためではないかと考えています。戦争末期から戦後占領期にいたる数年間のあまりの過酷さが、日本人に、「もう、こんな思いをするのはたくさんだ、戦争なんて二度とイヤだ」という強い気持ちを持たせたのだと思います。

戦後しばらく経ち、高度経済成長で自信を取り戻しつつあった日本人の間には、根性だとか、なせば成るだとか、かつての軍隊式精神論が復活するのですが、そのあとも、民意は、改憲再軍備には向かいませんでした。

豊かに。もっと豊かに。高度経済成長のもとで、そしてそれが終わってもなお、人びとは豊かな暮らしを求めて邁進していきます。

そして昭和が終わり、バブルが崩壊します。

 …という、「その後の日本の姿」などを念頭に、このドキュメンタリードラマを見ていただくのも、良いかもしれません。

 日本の近現代史は、日本で生まれて日本で生きる僕たちの、日々の生活からアイデンティティにまで、深いかかわりを持っている。…それが僕が、近現代史に向き合う最大の理由です。