週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

特攻司令官の戦後回想から:プロパガンダとしての特攻

菅原道大という陸軍軍人(中将)がいました。沖縄特攻を指揮した陸軍第六航空軍司令官です。ちなみに、1983年に亡くなったときの訃報記事によれば、名前は「みちおお」と読むようです。

偕行社発行の雑誌『偕行』で彼の日記が公開されているのですが、今回紹介するのは、防衛研究所戦史研究センター史料室に保管された戦後回想文です(文庫-依託-485「特攻作戦の指揮に任じたる軍司令官としての回想 昭和44.8.7」)。「天号航空作戦における陸軍航空特攻の大部分を指揮統率した第6航空軍司令官として、腹蔵ない苦悩、所見、感想等を率直に述べておられる」と、史料に付けられた受入担当者のメモにあります。

その一部を抜粋します。その1。(「〓」は不読箇所)

そもそも特攻作戦の特長は戦術的に物的威力を発揮するのでなく、敵の意表を衝き挙隊急襲する気迫即ち精神的効果を狙ふところにある、元来特攻は普通の観念での戦法ではなく〓ちやな斬り込みで、敵が呆気に捕へらるる度が高ければ高いほどよいのである

その2。

予は国民精神に消長はあるが、その真髄は不知不識の裡に継承され、戦争と云ふような国家の非常時局に際して爆発するものだと信じてる、これがいわゆる伝統の継承である。

その3。

此の際は涙を呑んで彼等に死地を得しめることが真の親心であり、軍の統率者としては後世国民に遺さねばならぬ大きな宝であると信じた

その4。

どうせ特攻をやっても勝てないことはわかって居るのに何も特攻などやらんでもよいではないかといふ程度の意と解さるるがよく受ける質問である。特攻は戦法ではなく国家興廃の危機に際する国民の愛国思情の勃発の戦力化である

これを読んで、どう感じましたか。ムチャクチャだと思いましたか。

でも、当時の国民は、特攻、つまり、体当たり戦法に対し、少なくとも当初は沸いていました。「体当たりなど、けしからん!」ということには、なっていないのです。もし、当時の国民が、特攻に拒否感、嫌悪感、憎悪感といったものを抱いていたら、軍は積極的に特攻をアピールなどしなかったはずです。

つまり、当時の日本国民は、特攻を欲していたのです。それこそ、けしからん話ではありませんか?

ここで菅原道大が言っていることは、要するに、特攻とは、「国民を奮い起こす」という国内向けのプロパガンダであると同時に、敵の戦闘心を萎えさせる敵国向けのプロパガンダでもあったということだと思います。

一ノ瀬俊也氏『飛行機の戦争1914-1945─総力戦体制への道』(講談社現在新書、2017年)の主張もふまえつつ、プロパガンダとしての特攻という考えをすすめていくと、それは、軍の問題というよりも国民の問題に行き着きます。

あるいは、若者に自己犠牲を強いる「タテ社会の人間関係」(中根千枝)の日本社会そのものの問題に行き着くのかもしれません。

ただし、戦場での自殺的な攻撃が国民を沸かせるのは、日本だけの話ではありません。おそらくそれは、万国共通の事象です。

はたして日本人は敗戦をしっかり胸に刻みこんだのか?

失敗は成功のもと」といいます。それは、失敗を反省し、失敗した原因から学んで、改めて再出発をすることで、二度と同じ過ちを繰り返すことなく、成功へと歩んでいくことを意味しています。

さて、昭和20年の終戦において、日本人は、はたして、敗北感をしっかりと胸に刻みこんだのでしょうか。

ぼくは以前、民意がなぜ、改憲再軍備を望まなかったか、について、

それは、敗戦という体験を共有した国民が、戦争に懲りた、それも、ひどく懲りたためではないかと考えています。戦争末期から戦後占領期にいたる数年間のあまりの過酷さが、日本人に、「もう、こんな思いをするのはたくさんだ、戦争なんて二度とイヤだ」という強い気持ちを持たせたのだと思います。
NHK・BSプレミアム「華族 最後の戦い」と、昭和天皇の退位問題

と書きました。でも、いまは、国民は戦争にはさんざん懲りたものの、みずからの失敗を深く反省して再出発をしたのだろうか、という疑問を持っています。つまり、このままいけば、また、同じ過ちを繰り返すのではなかろうかと。

理由のひとつは、「戦後日本人の思考回路を作った? アメリカ「対日宣伝工作」の真実(賀茂 道子) | 現代ビジネス | 講談社」に指摘されているような、アメリカの対日占領政策です。

国民の多くにとっては、占領政策は歓迎すべきものであった。なぜなら、占領改革は権力者ではなく、国民の大半を占める、農民、女性、労働者に向けられていたからである。そして、それを支えたのが、対日心理作戦で培われた日本人研究であり、対日心理作戦から続く、軍国主義者と国民・天皇を分断する方針であった。

アメリカは、みずからの占領政策を円滑に進めるために、国民・天皇と、軍を切り離しました。戦後の「すべては軍部が悪かった」とする歴史観は、それによって決定的なものとなります。ただ、戦時中も後半から軍の権威は失墜、さらに終戦時のどさくさで軍が醜い実態をさらし出した(軍需品の私物化が横行)ことがその前にあるので、すべてをアメリカの占領政策のせいにはできませんが。

さらに、上記に指摘されているとおり、アメリカの占領政策は、農地改革をはじめ、多くの貧しい国民にとっては嬉しいものでした。

つまり、「すべては軍部は悪かったのだから、自分は悪くない」と考えることができた上、戦時中よりも待遇改善が進められたために、多くの国民は、心底懲りなかったのではないか。

また、占領当初のGHQは、日本に対し、非常に厳しい賠償方針をとっていました。その方針のままであったなら、その後の高度経済成長はありえず、それどころか、貧しい農業国となっていたかもしれません。もしそうなっていたら、それはそれは、国民は懲りたことでしょうが、実際には、暮らしが年々豊かになるウハウハな高度経済成長で、深く反省することはありませんでした。

吉田茂は、晩年の昭和39年、大磯の私邸を訪ねた松谷誠(拙著『終戦史』に登場する、元陸軍軍人)に、こんなことを語っています。

しかしそれにつけても憂慮に耐えないのは国民の態度である。いわゆる小成に安んじて遠大の志望を欠き、大和民族なるものは人類盛衰の原則以外に立っている一種特別の人種のごとく心得て、他国の正当なる権利と利益を無視して傍若無人の行為に出るならば、国を誤るのは火を見るよりも明らかである。
古{いにしえ}より驕る者は久しからずとは個人についてのみならず、国家に対してもまた動かすべからざる真理である。
〔略〕
誰も終戦当時は予想し得なかったことだが、第二次世界大戦後わずかの年月で、敗戦国日本が国力──特に経済力を驚異的に回復充実し、国民は大いに自信を取り戻すようになった。今後日本が独り歩きせねばならぬ段階となって、とかく国民が調子に乗って慢心を起こさぬよう、この忠告を十分かみしめてかからねばなるまい。

アメリカの占領政策によって日本人が敗戦から深く学ぶ機会が奪われてしまったのだとすれば、日本はアメリカによって国家の根幹を奪われた、と言えるかもしれません。あるいはまた、それほど日本が戦争によって犯した罪は大きかった、と言えるかもしれません。

日本国にこの先待ち受ける運命や、いかに。

歴史は鉄板ネタじゃないし飲み屋で披露する十八番ネタでもない。

今回は、閑話休題的雑談です。

日本の近現代史については、研究者、専門家の最新の知見と、一般の認識との間に、ずいぶんと落差があることは、少しかじってみた人なら、わかっていることと思います。

その落差を少しでも埋めることが、僕らにとって大事なことだと思うから、当ブログもその一助となるべく、一般にあまり知られていないことを中心に、できるかぎり資料にあたって、正確な記述を心がけているのですが。

しかしその落差は、研究者、専門家の努力不足というよりも、一般の人たちが、ファクトベースの歴史ではなく、自分たちが望む歴史をいまだに望みつづけているからなのではないかと、ちょっと最近、絶望感もこめて、そう思うようになってきました。もともと当ブログはマスに向けて書いていないので、絶望しなくてもいいような気もするのですが、しかし、それにしてもと。

すごいぞニッポン、ひでーぞ中韓、政府も軍部もくそったれ、俺たちはだまされた、ルーズベルトにハメられた…云々という歴史観って、結局、都合がいいんだよね。自分たちは悪くないエクスキューズ。自分たちでない誰かが悪い。誰かのせいだ。ってことで、そう言ってれば溜飲が下がるっていうか、溜飲が下がるだけっていうか。これまでと何も変わらない日常を今後も歩んでいければ、それでもいいのかもしれないけど、しかしそんな無責任な思考アウトソーシングで、これからやっていけるんかな、と僕は思うので。

歴史は、鉄板ネタじゃないです。鉄板ネタにしてはならないと思います。新しい史料が出てこれば変わっていくし、視点を変えれば違うストーリーになるし。そこが面白いところなので。飲み屋で披露する十八番ネタみたいに、何度も何度も話しているうちに事実と違う物語が出来上がりって、個人史ならそれでもいいのでしょうけど、歴史は私物化していいものではないし。

…と、いくらここで書いたところで、伝わらない人には伝わらないし、大きな石はびくともしないし、どうしようかなこれから、ってな感じです。おしまい。

あきらめるのは良いことです:「絶対に諦めない」と「一億玉砕」

朝日新聞「声」の欄に、「「あきらめる」のは悪いこと?」と題した一文が載っていました。投稿したのは、千葉県在住の高校生、矢板祐樹さん。

たいていの日本人は、あきらめることが苦手だと思う。「あきらめずに頑張る」のが良いこと、美しいことだと幼い頃から教えられ、頭に植え付けられている。そんな感覚が僕の中にもある。しかし逆に、あきらめるのは大切なことだと僕は思う。
「あきらめる」と「投げ出す」は、大きく違うと思っている。投げ出すのは、物事を途中で放り出すこと。あきらめるのは、物事に全力で取り組む中で自分の限界を見つけて区切りをつけること。これなら、そんなに悪いことではない、と思えないだろうか。
あきらめずに頑張って、達成感や幸福感を得られる場合もあるだろう。しかし、「絶対あきらめない」と自分を追い込み、不幸な結果を招いてしまう人もいる。その前に、気持ちに区切りをつけることも必要なはずだ。
朝日新聞2018年2月23日16面)

だいたい、その通りです。ただし、冒頭の「たいていの日本人は、あきらめることが苦手」というのは、違います。

たいていの日本人は、逆に、あきらめやすく、実は頑張るのが苦手なのだと、僕は思います。ぶっちゃけ、自分の周りを見渡してみて、「絶対あきらめない」と猛烈ファイトをかましてる、暑苦しい人は思い当たりません。だいたいみんな、あきらめて生きてます。そうですよね?

じゃなきゃ、人気職業ランキング上位のサッカー選手だとかお菓子屋さんだとか何だか知りませんがそういう職につけなかった人たちがそれでもあきらめずに高齢になっても挑戦し続けてるはずですけど。

あきらめの悪いやつは、いるでしょう。ふられた女をしつこく追いかけるだとか、過ぎた失敗をぐちぐちいい続けるとか。でもそれは、「あきらめずに頑張る」姿ではありません。「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった」とかにも書きましたが、ぼくら日本人はもともと、「あっさりしたこと、潔いことを好む」のであって、あきらめの悪いのをカッコ悪いと思っているのです。

ではなぜ、「あきらめずに頑張る」のが美徳とされているのでしょう。

それは、それが日本社会の大前提的な建前だからです。日本は「あきらめずに頑張る」価値観がすみずみにまで行き渡った社会であるとの「フリ」を、みんなでしているからです。

「絶対にあきらめない」だとか、「最後まで頑張る」だとかの勇ましいフレーズを、額面通りに受け取ってはいけません。ブラックな職場では日常用語かもしれませんが。

これと似たような言葉が、昭和20年の終戦前にも、日本国内でしきりに叫ばれていたことをご存知ですか?「一億玉砕」ってやつです。これを、「一億玉砕はありえた」などと、もっともらしく語る人もいるのですが、ありえません。どうやったら一億人が玉砕できるのですか?指揮命令系統はどうするんですか?最後はぐちゃぐちゃの大混乱に陥って戦争どころじゃなくなってしまいます。国家崩壊です。

当時の「一億玉砕」というのは、一種の「気合スローガン」でありまして、「一億玉砕のつもりで」とか「一億玉砕の覚悟で」とかって感じに、いわゆる「不退転の心構え」をあらわしたものです。

「絶対に諦めない」とか「最後まで頑張る」とかも、それと同様で、ほんとうに最後まで諦めずに頑張るということではなく、あくまでもそうした決意、心構えをあらわしたもの。諦めるときは諦めます。ですよね?

「一億玉砕(のつもり)の精神」は、いまも形を変えて、この日本社会に、根強く残り続けています。

「あきらめる」のは、良いことです。為末大氏の『諦める力』には、全力を尽くして全うするという考え方が強い日本人に対し、欧米では「引退が非常に軽い」ことが書かれています(p75とか)。今後、グローバル化が進むとともに、こうした日本独自のガラパゴス的な価値観はどんどん消えていくでしょう。若い人たちは、そんな古臭い価値観にとらわれることなく、どんどんあきらめていってください。

※これは、この前の「1970年代試論:「みんなガンバレ」の時代」に追記した文章をもとに書き直しました。

1970年代試論:幻想としての「みんなガンバレ」の時代

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ」を書いて以来、1970年代が気になっています。

たとえば、(少なくともタテマエとしての)平等社会について。

「頑張れば夢が叶う」的な言説に、「誰でも」という要素がデフォルトで内包されていることは、議論の余地はないものと思います。そして、1970年代に出現した「平等社会」が、「頑張る」促進、そして、「頑張り圧」定着の、大きなファクターになったのではないか、との仮説について。

天沼香は、『日本人はなぜ頑張るのか』(2004年、第三書館)の、「頑張り」を育む「努力差」重視社会」(p97~)と題した節において、『タテ社会の人間関係─単一社会の理論』(中根千枝、1967)の、

伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目する。が、「誰でもやればできるんだ」という能力平等感を非常に根強く有している。

との記述を引用。二宮金次郎野口英世のような、貧しいなかで努力を重ねた、日本で尊敬される人物像を挙げたうえで、

結果はどうあれ(たとえ失敗に帰したにせよ、上々の成果が得られなかったにせよ)、そこに至る過程で「努力した」ことや「頑張った」こと自体が一定の評価を得ることになる。

として、

日本人が「頑張る」背景には、「能力差」よりも「努力差」のほうが称揚されるという社会規範が横たわっているのである。

としています。

天沼氏は、「「頑張る」は日本人に固有の民族性ではなく戦時中の刷り込みです」で、すでに述べたように、「頑張る」の歴史的推移を考慮に入れておらず、「頑張る」を日本民族のコア・パーソナリティとしていますが、ぼくは、こうした社会規範が日本社会に固有のものだとは考えていません。

また、天沼氏は「戦後長らく、経済効率万能的思考のもと、モーレツ社員や企業戦士が身を粉にして「頑張って」きた結果、日本は驚異的な経済成長を遂げた」(同上、p146)としていますが、それにも同意できません。

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ」に書いたとおり、「モーレツ」(および、モーレツ的価値観)が日本社会に出現したのは、1964年の東京オリンピックのあと。つまり、1955年から1973年までの高度経済成長の、後半期。「根性」が流行し、「四十年不況」を境にして産業界に少数精鋭主義がうまれ、「猛烈社員」への称賛が生まれて以後のことです。

高度経済成長の前半期、つまり、「三丁目の夕日」が舞台になった時代、「スーダラ節」が流行した時代は、当時のサラリーマンのあいだで「遅れず・休まず・働かず」といった「三ズ主義」が流行っていたように、日本人は、さほど頑張ってはいませんでした。高度経済成長中、一貫して、日本人がモーレツに頑張って働いてきたというのは、勘違いです。

さらに、『日本人はいつから働きすぎになったのか─〈勤勉〉の誕生』(礫川全次平凡社新書、2014年、p214)では、こんな指摘がされています。

1951年(昭和26)3月に公開された映画『我が家は楽し』(松竹)は、その当時の(1950年代はじめの)サラリーマン一家の生活を描いている。
映画は、父親(笠智衆)が、会社から帰ってくるシーンから始まる。駅を出て家路を急ぐが、外はまだ明るい。途中、草野球をやっている長男を見つけ、「おーい、カズオ、もう帰らんか」と呼びかける。どう考えても、午後6時前である。帰宅した父親は、和服に着替え、その後、一家揃っての夕食。今日では、ほとんど絶滅した光景である。
経済学者の日高普は、その著書『日本経済のトポス』(青土社、1987)の中で、サラリーマンが5時に退社し、家族と夕食をとるという習慣がなくなったのは、「1950年代半ば」だったと書いている。妥当な指摘だと思う。右の映画が公開された当時においては、父親が夕食前に帰宅するのは、ごく当たり前のことで、映画の中だけの話ではなかったのである。

つまり、高度経済成長がはじまる前の日本社会は、さらにのどかな光景が広がっていました。いまでは、敗戦後の日本人は、頑張って頑張って、焼け野原からの復興、そして「奇跡の」高度経済成長を達成したのだという、一本調子なイメージが一般的かもしれませんが、案外、そうでもなかったのです。

さて、歴史経済学の権威、中村隆英氏の『昭和史(下)』によれば、1970年代のはじめ、可処分所得のバラつきがいちじるしく小さくなり、日本社会が「中流」化をしました。また、メディア史の佐藤卓己京都大学大学院教授によれば、それまでごく限られたエリートのものだった大学受験は、1970年代に大衆化(「受験戦争」という言葉が新聞紙面に定着したのは、1970年代)、「ピンからキリまで進学する」時代となりました(『青年と雑誌の黄金時代──若者はなぜそれを読んでいたのか』2015)。

この頃、「月刊生活指導」という、学校教師が読む雑誌に、藤原喜悦・東京学芸大教授が、能力差について書いています(『月刊生活指導、1972.10臨時増刊』)。

昔は中学校というと、大体20%近くしか行かなかった。〔略〕ところが、いまは義務教育で全員が中学校に行く。その中学校へ来ている生徒が、なかなか簡単には解決できないような問題を一生懸命やらされている。〔略〕これが昔の中学生だった私たちと、いまの子どもたちとずいぶん違っているところではないかと思います。どこが違うのかといいますと、一般的に言えば、非常に大きな能力差をかかえているということです。できない者はほんとうにできない。〔略〕そうすると、{評価で}1をつけられる人はいつもきまってしまいます。それで「おれはまた1か」ということになり、通信簿は少しも変わりばえがしないということです。できる子どもたちは、「この前は4だったけれども、今度は5になるかしら」と、期待におののいてくるが、最低の子どもは「また1か」「また2か」ということになりやすい。こういうように、非常に大きな個人差をかかえている青年たちを、私たちは中学や高校で取り扱わなければならない。

この文章が発表された1972年は、井上陽水が「東へ西へ」で「ガンバレみんなガンバレ」と歌った年。まさに、「みんなガンバレ」の時代でした。「みんな」の時代になって、みんなが中学に、そして高校に、大学に行く時代となって、「できない子」をどうするかという問題が出てきました。同年、都立城北高校(いまの桐ケ丘高校)の教諭が、同じく「月刊生活指導」に、「勉強についていけない生徒」を書いています(『月刊生活指導、1972.11』)。そこでは、生徒に「きみたちは城北高校を望んできたのか」と質問すると、能力がないからここに来た、だから入学当初からやる気がないのだ、と答えたとして、「はじめから「やる気がない」生徒たちに対して私たちがなすべきことは、「能力がない」というかれらの迷妄を打破してます「やる気」をおこさせることである」と書いています。

「頑張れば夢がかなう」といった、現実というよりむしろファンタジーといえる言説は、管見の限り、学校教育の現場から出てきたと推測されるのですが、おそらくそれは、こうした、できない子、やる気のない子が大量発生した状況に対し、「やればできる」と教師らがハッパをかけたことによるものであり、それに対し、彼ら「落ちこぼれ」たちが、「ひとつの目標を持ったら、それをやりとげるまで頑張ること。それが、オレたちのツッパリさ」(by横浜銀蝿)と応えた、ということではないか、と思います。

1970年代に出現した「平等社会」(一億総中流社会)は、努力量が称揚の尺度になるという価値観を生みました。当時から教育現場では「できない者はほんとうにできない」という圧倒的な能力差が存在していましたから、その平等社会とは、当初から「一見平等社会」であり、「建前としての平等社会」でしたが、ともかくも教師たちは生徒たちに対して「やればできる」とハッパをかけましたし、そればかりか、社会全体が、「やればできる」教に染め上げられていました。

当時の人々がそう思い込んだ理由のひとつは、おそらく、焼け野原からの復興~奇跡の高度経済成長という成功体験があり、それを成し遂げたという自負があったこと、そしてもうひとつは、その時代の恩恵をもっとも受けたのが、それまで貧しかった人たちだったこと、だと思います。

つまり、それまで社会の底辺で貧しい暮らしを送っていた大勢の庶民が、戦後復興から高度経済成長に至る過程で豊かさを手に入れたことが、「やればできる」と思い込んだ大きな要因であったと思います。それまでは、農家の子は農家、漁師の子は漁師となり、ムラ社会のなかで、大それた夢も持たず、先祖代々と同じような暮らしを営み続けるのが当たり前でした。ところが、社会全体が格差縮小に向かうと同時に、進学、受験が大衆化し、小学校から中学校、さらには高等学校、はては大学にまでも、みんなが進むようになりました。自らが望み、努力をすれば、目の前には輝かしい未来が待っている、そう信じることができました。

ですが、この「平等社会」は、長くは続きません。というか、『新・日本の階級社会』(橋本健二講談社現代新書、2018年1月、p7)によれば、格差は高度経済成長を通じて縮小し、1975年から1980年頃にもっとも小さくなりましたが、その後は反転上昇に転じ、1980年前後から今日にいたるまで格差の拡大は続いているとしています。

「一億総中流社会」という言葉が定着し、人々が日本社会を「一億総中流社会」とひろく認識しだしたときにはすでに、格差の拡大は始まっていました。人々がみずからを「中流」と認識し、「平等社会」と思っていたときにはすでに、格差も、能力差も存在していたにもかかわらず、人々は自らが成し遂げたと思い込んだ成功体験から、「やればできる」というファンタジーを信じ、「みんなガンバレ」と、あたかもただガンバリさえすれば豊かな暮らしや幸せや成功がその先に待ち受けているかのように、お互いを励ましあってきたのですが、残念ながらその先には、バブルとその崩壊、失われた○十年、そして、橋本健二氏が主張するような、固定化された下層階級がうまれてしまった、といったところかなと思います。

「みんなガンバレ」の時代は、そのはじまりと同時に終焉がはじまっていたにもかかわらず、その現実に目を向けることなく、「頑張れば豊かになれる」「頑張れば幸せになれる」「頑張ればなんとかなる」という、根拠のない神話にしがみつき、拡大するいっぽうの格差は放置され(橋本健二氏)、頑張れない人はふるい落とされ、結果、いまのいびつな社会が形成されてきた、ということだとすれば、いまの社会の根本的な欠陥を生み育てたのは、この国に暮らす、すべての人々だということになります。

ところで、根拠のない神話に人々がしがみついた、といえば、昭和20年の終戦のときも、そうでした。

「決定的な破局に瀕しながらも、「神国」日本が負けるはずがなく、土壇場で「神風」が吹いて勝利が日本の上に輝くといった宣伝に、最後の望みをかける人も少なくなかった」(『資料日本現代史2敗戦直後の政治と社会①』p479)

結局のところ、104歳の篠田桃紅さんが語るように、「何とかなるさで、その何とかっていうのに任せちゃってる」のが、ぼくら日本人なのかもしれません。

小磯内閣への「本間報告書」には戦時下民衆のリアルの一端が

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特高月報ネタが好評みたいなので、あまり知られていない重要資料「本間報告書」について書きます。

本間報告書とは、小磯内閣の時に内閣の私的顧問だった本間雅晴陸軍中将が、内外のさまざまな動向を広く収集、報告していたものです。とりわけ、当時の国内の民衆のようすがリアルに記されている点が貴重です。

一部を抜粋します。

 昭和19年9月25日

一、決戦に相当の成功を収めたる後之れを機会に外交戦を以て戦争を終局に導くべきや或は戦争を更に継続して最後まで滅敵進軍すべきやに付いて両論衝突し国論遂ひに分裂することを予想し今から肚を決め置く要ありとして識者間に相当の準備を為すものあり。
二、日本の創造せる重要なる決戦兵器が10月中旬に完成するとなし、又物的戦力が今秋が山だとの見透しと更に米大統領選が11月と睨合せ大体11月から12月頃に決戦が行はれるものと国民が想像している。決戦に対しては大衆は大いに期待しあるも有識層は懐疑的なり。

昭和19年10月12日

三、近時重臣層の関心の重点は外交妥協にあり、政府は此の重臣群の意欲に押されて徹底抗戦意志力を弱化するの已むなきに至り、やがて対米英妥協の手段を取るに至らんとの見解が巷間に流布され、之れに対し陸軍中堅層は対政府不満を抱き又戦争発端当時の為政府を繞る一群は若し之れが表面化することあらば即ち現内閣運命の終点なりと伝え以て本問題は現内閣の試金石として有識者は其の賛否何れの陣を不問ず注視静観しあり。
四、内閣は外交妥協に乗出す時、爾余の機関、並団体は順応するも翼賛壮年団のみが強硬論一本調子で政府に楯を突く処あり。故に今の中に之れが去勢策を講ずべしと閣内の一部に主張するものありと巷間に噂されあり。
而して此の理論を繞りて翼壮こそ徹底抗戦派の本城たらしめんと感激するものあり。

昭和19年10月19日

三、現内閣今日までの「スローモー」は今次大戦果に依って国民から「帳消」にされたるを以て爾今政策の実行面に於て国民を指導引率するに足る政治追撃戦を敢行されたしと希望する者多し。

ここの「今次大戦果」とは、台湾沖航空戦とみられます。次も同様。

昭和19年10月20日

四、大戦果の為め小磯内閣の寿命は延長せりとの観を与へ、民間は現内閣に信頼するの空気濃厚となり、官界人は又腰を据へてやろうと云ふ態度を示し来たれり。

昭和19年10月23日

三、地方視察より帰来せるものの談は左の点に於て概ね一致す。
1 県庁の役人、特に課長以下属僚が権力を振り廻して威張り散らすこと目に余るものあり。又彼等の貪官汚吏的行為は反感を唆り、増産意欲を衰頽せしむること大なり。
2 各地方統制会幹部は旧来営利業者出身多く其頭を其儘として態度のみ役人気取りとなり其地位を利用して私利を営まんとする徒輩多し、大改革を必要とす。
3 民心の悪化顕著なり。其原因多々あるも転廃業者、徴用工、棒給生活者等に於て著しく赤化の温床たらんとしつつあり。
又一般農民の自己中心的傾向も漸く甚だしからんとする傾向あり。
四、米軍の比島上陸は台湾沖の大戦果の喜びに冷水を浴びせたる結果を生じ、国民は敵大輸送船団に対する我空軍の無力に失望し、月産2500と称する飛行機は机上の数字なりや、若くは多数の不合格機をも包含する数字なりやとの疑問を起しつつあり。
某陸軍将校の談によれば比島に在る飛行機は100機中真に飛び得るもの40機にして整備資材等能力甚不十分なり。

昭和19年10月30日

二、内閣顧問の発表を見たる一般国民は恰も同時発表なりし20代30代の勇士が必死爆撃に挺身する壮烈なる第一線部隊に思ひ較べ其の顔振れが余りにも戦時色の希薄さに失望したるのみならず、太平洋決戦の真只中に於て「政府は是れでよいのか」との感を深くせしもの少なからず。

昭和19年11月1日

一、右翼方面の意見
(イ)現内閣は戦勢有利に転換せざるまま米英側と妥協するに非ずやとの危惧の念を有し、之が戦意昂揚と両立せざるものあるやに感ぜられしが今次大阪に於ける総理の演説に於て此点に関する政府の態度を明示せられ安心を与へたり。
六、対米英決戦場に於て神風必死隊の登場し、国民は此の報道を聞いて感泣しある反面、政府の政治措置として現れたる人事の発表を見て彼等は極度の対政府失望感を露呈しあり。
右は翼壮、産報、農報等中堅指導者の総合的意見にして全国青壮年階級も同様なりと見られるべし。

昭和19年11月10日

一、比島沖海戦の戦果偉大なりしに拘はらず、米国の誇大虚構且執拗なる放送の為世界は米国の大勝利を信ずるに至り「ソ」連並中立国に与へし影響少からず。最近に於ける宣伝戦は明白なる敗北なり。其責任を宣伝機構上の欠陥に帰するもの多きも現機構を以て尚ほ為し得ること少からざるべし。

昭和19年11月21日

一、レイテ島戦況の見透しに対し海軍側は沈黙冷静を守りあるに対し陸軍側は極めて楽観的態度なり。
ガダルカナル撤収以来今日まで度々陸軍側観測が必ずしも当たらざりし結果世間では亦此の観測に疑を抱きあり。

昭和19年12月23日

一、比島戦況の我軍に楽観的にならざるに対し、陸軍省部内に於ては、比島は天王山に非ず、又、斯くなりたるは海軍の制海権喪失に起因す、との意見散出し恰も陸軍当局者は戦況に対する見透に就き確乎たる自信を失ひたるかの如き観あり。

昭和20年1月26日

一、地方民心は慚次戦局に対し絶望的に陥りつつあり「マニラ」陥落するに至らば相当の動揺を免かれず。

昭和20年1月31日

一、議会に於ける問答中新聞に現れたるもののみに就て見るに「非死必殺の新兵器生れつつあり(八木技術院総裁)」「飛行機生産は楽観して可なり(遠藤航空総局長官)」「油は十分の分量あり(吉田軍需相)」「食料は心配の要なし(島田農商相)」「国内の治安は良好なり(大達内相)」等々
何もかもうまく行って居ると云ふ形なり。
之等を「ラヂオ」にて聞き何と云ふ出鱈目ばかり言ふのかと憤慨して「ラヂオ」を叩き毀したるものあり。
そんなにうまく行って居るのに敗戦を重ねて行くのはどういう次第かと訊ねる農民あり。

ここから読みとれること。

政府や軍にとって、「戦果」とは、無条件降伏ではない、条件つきの講和、しかも、できるだけ有利な講和に必要だったものですが、それだけでなく、悪化する民心をつなぎとめるために欠かせないものでした。台湾沖航空戦の「大戦果」は、(すくなくともいっとき)国民に歓迎され、小磯内閣への不興を帳消しにする効果がありました。

国民は「米軍の比島上陸」に失望する一方、「20代30代の勇士が必死爆撃に挺身する壮烈なる」姿、「対米英決戦場に於て神風必死隊の登場」に感泣しました。

ガダルカナル撤収以来今日まで度々陸軍側観測が必ずしも当たらざりし結果世間では亦此の観測に疑を抱きあり」「何と云ふ出鱈目ばかり言ふのかと憤慨して「ラヂオ」を叩き毀したるものあり。そんなにうまく行って居るのに敗戦を重ねて行くのはどういう次第かと訊ねる農民あり」といった記述から、少なくともこの時点では、国民はいわゆる「大本営発表」をあまり信じていませんでした。

など。

※とりあえず初稿アップします。本間報告書は他にも興味深い記述があるので、後日追記するかもです。