週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

日大アメフト問題から、「天皇」天国の国ニッポンの瓦解問題へ。

日大アメフト問題。昨夜に内田正人前監督と井上奨コーチの記者会見が行われたが、結果的にかえって火に油を注ぐ結果となってしまったのは周知のとおり。

ぼくは、日大アメフット部問題:絶対無比の権力者としての「天皇」がまかり通る日本社会 - うにゃにゃ通信で、こう書いた。

体育会的な集団では、こうした事態は充分起こりうることだろう。
こうした事態とは、監督が選手に反則を指示した、ということではなく、監督が選手に、ありえない指示を出し、選手がそれに従った、という事態だ。服従、従順の関係性だ。
どんな組織、集団であれ、上に立つ者が絶対、ということは、本来ありえないはずだ。人と人との関係性は、そんな不条理で暴力的なものであってはならない。なのに、この国では、いまだに、そんな関係性が、大手をふってまかり通っている。
いわゆる、比喩的な表現としての「天皇」の存在だ。

この服従、従順の関係性を考えていくうえで、外せない論考は、『タテ社会の人間関係』(中根千枝、講談社現代新書)だろう。51年前に刊行、ぼくの手元にあるもので昨年3月に128刷という、驚くべきロングセラーだ。

「リーダーにはなぜ年長者がなるか」(p148-)によれば、「日本社会のあらゆる集団において、そのリーダー、または、責任ある××長という地位」が、「他の諸社会に比べて圧倒的に年長者によって占められている」なんだそうだ。

そしてそれは、「タテ」の人間関係を前提としているからだとする。

集団の歴史が長く、大きい集団であるほど、リーダー自身の年齢も相対的に高くなるわけで、こうした集団においては、若者などいうに及ばず、中年であっても、とてもリーダー、××長のポストを占める可能性はない。
日本社会における重要な地位がすべて高年齢層の者たちによって占められている事実は、実にこのメカニズムを反映しているのである。

内田前監督と井上コーチ、そして危険なタックルを行った選手は、まさにこのタテの関係にある。「御意の関係」ということもできる。

おそらくこれまでも、似たようなことは行われてきたのだろう。そしてこれまでは、この強固な関係性ゆえに、問題は握りつぶされ、闇に葬られてきた。しかし今回は、御意の関係の末端に位置する選手自身が会見を行い、そこで行われていた詳細を暴露した。さらに彼は、この関係の問題性をも世間に晒し、自分自身で考え、判断することの大事さを改めて知らしめた。

TOKIO山口達也問題も財務省事務次官セクハラ問題も、要は、「もう黙らない」という、末端の立場からの意思表明だ。これらの事象は、「天皇」天国、「御意」天国の国ニッポンを支える、タテの人間関係そのものが瓦解しつつあることを示していると僕は思う。

『タテ社会の人間関係』では、日本は老人天国だとしている。刊行された1967年はまだ高齢化社会ではなかった。いまは超高齢化社会に向かっている。当時よりも一層、「天皇」天国、「御意」天国の問題が各所で先鋭化しているということではないか。不条理な指示を受けた選手も、山口達也にわいせつ行為をされた当人や親も、財務省事務次官のセクハラ被害を受けた女性記者も、もうみんな、かつてのように黙ってなどいないのだ。

以前、太平洋戦争末期の空襲で防空壕に逃げ込みながら「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と考えた、当時19歳だった男性の新聞投書を紹介しました[link]が、日大アメフト問題については、

日大アメフトの顛末。指示通り丸刈りにして「特攻」に備えた宮川選手。監督「やらなきゃ意味ないよ」コーチ「できませんでしたじゃ済まないからな」と送り出した「上官」たちが、そろって「いやはや、まさか敵艦に本当に突っ込んじゃうとは予想外でした。合掌」という地獄絵です。(冨永 格(たぬちん))[link]

と、戦争当時、若者を特攻死に追いやった構造と同一視する見方も出ています。これはまさに、山田朗『近代日本軍事力の研究』で、

特攻を恒常的な戦法としたことは、戦略的に挽回不可能なことを、戦術的な第一線将兵の勇敢敢闘によって打開しようとしたものであり、また、年輩者の無策を若者の命によって補おうとしたものであった。〔略〕このような「禁じ手」である特攻について、どのような形であれ美化することは、若者の戦死の実態を覆い隠し、このような作戦を強行した戦争・作戦指導者の責任を雲散霧消させるものである。特攻について語るとき、私たちは、このような理不尽な作戦を強行した軍指導者をまず第一に批判すべきであり、「慰霊」の名の下に、責任の所在をあいまいにしてしまってはいけないのである。

と厳しく批判されていることに通じます。

年輩者自身が負担すべきツケを、若者に回す日本社会、そして、日本大学という組織は、最低です。ちゃんと矜持を見せなさい。

頑張って服従する:近代化の道を間違えたツケが噴出する現代日本

前回の追記の続き。

日本は近代化の道を間違って歩んでしまった。それがいまだに自覚すらされていないからこそ、現在も「頑張る」という言葉が無自覚に隆盛を極めている、ということなのではないでしょうか。

日本という国家が間違った道を歩みだしたのは、昭和6(1931)年の満洲事変の頃からだとみて、ほぼ間違いないでしょう。この年には、橋本欣五郎らによる企て、三月事件、十月事件も起きています。何故この頃、少壮将校らがこうした行動を起こしたのか。通常だと、兵士の故郷である農村が窮乏する状況に義憤を感じ、日本の刷新を目指した、…といった説明になると思いますが、それだけでは充分に納得のいく説明にはなっていないように思います。

ともあれ、こうしたキナ臭い出来事と歩調をあわせるかのように、日本社会では、「頑張る力」、別の表現では「ガンバリズム」を賞賛・奨励するような言動が各所から沸き起こってきます。

頑張るという美徳:自己犠牲を期待する圧力が時に僕らを縛りつける」に書いたように、当初は「欧米人のように執拗に、最後の瞬間まで頑張れ」と、勝つための頑張り、成果をあげるための頑張りの必要性が説かれました。いわば、功利主義的な発想だったわけです。

1945年の敗戦=いわゆる「終戦」を、ぼくは、当時の日本人が頑張った末路だと考えています。「頑張り」の必要性が喧伝されるなかで、執念とか根気といった精神主義ばかりが強調され、従来の日本社会にあった集団主義と融合していくなかで、当初の功利的な「頑張り」から、むしろ利他的な「頑張り」へと変質していきました。

敗戦は、それまでの精神偏重主義を反省する絶好の機会だったはずですが、どうやらそういうことにはならなかったようです。個性重視の新教育が登場したものの、旧来の価値観が根強い日本社会に拒絶されて根性至上主義が復権、「頑張り」の大事さも、親から子、教師から生徒に、伝えられていきます。

ハリルホジッチの発言から:日本人の歩みが遅いのは「従順ファースト」だから。」に書いたことですが、根性、とか、頑張り、といった精神主義は、旧来の価値観や、上下関係を絶対視する社会集団の枠組みがあって、はじめて成立するもので、個性発揮とは真逆の価値観です。

日本社会は、欧米列強に追いつこうと、彼らのメンタルをも模倣しようとしたのですが、それが社会に浸透していく過程で、間違って解釈され、絶対的な服従と従順という関係性が過剰に強調された形で定着しました。おそらく、戦後の高度経済成長が、その定着剤の役割を果たしたのでしょう。当時は大量生産モノ作りの時代、ロボットのように従順な働き者が火の玉集団となって邁進し、次から次に商品を提供し続ければ毎年給料が上がるという、夢のような時代でしたから。

それが、TOKIO山口達也問題と財務省事務次官セクハラ問題日大アメフット部問題といった昨今の問題の根っこに、厳然と横たわっているように思います。

本田圭佑が「プロフェッショナル」の発言に物議 ネット上で批判 - ライブドアニュース」によれば、「ハリルのやるサッカーに全てを服従して選ばれていく、そのことの方が僕は恥ずかしいと思っているので。自分を貫いたという自分に誇りは持っています」と語った本田圭佑の発言に対し、ネットで批判的なコメントが散見されるようです。

「監督の要求に応えるコトや指示に従うコトを『服従する』とマイナスに捉え、しかも反発しそれを何故か美化するような選手は、少なくともプロフェッショナルとは呼びません」

だとか。

だけど、おそらく本田のように世界で活躍する、サッカー選手に限らずアスリート達は、監督や指導者に「全て服従する」という発想が今でもデフォルト化している日本スポーツ界がガラパゴスであることを、誰もが知っているはずですし、解任されたハリルホジッチ元監督も、本田ら選手を「全て服従」させる発想は、なかったはずです。世界標準と思える本田の発言が物議をかもすこと自体、日本がまだまだ、世界で戦える国にはなっていないことを示しているように思います。

「頑張り」の本質は「服従」です。自分らしさを殺して目上に服従し、個性を喪失することです。それはもはや、前近代的価値観以外の何者でもありません。

頑張れば頑張るほど世界で勝てない日本:我慢は美徳か

先日も書きましたが、「頑張る」を広辞苑でみると、

①我意を張り通す。「まちがいないと─・る」
②どこまでも忍耐して努力する。「成功するまで─・る」
③ある場所を占めて動かない。「入口で─・る」

となっています(ちなみに③は第4版(1991)から追加されたもので、第1版(1955)では①と②だけ)。

僕らはもっぱら、②の「どこまでも忍耐して努力する」の意味で、しかもそれを良い意味で、つまり、推奨され、かつ、褒められるべき美徳として、「頑張る」を使っています。それが美徳であるからこそ、「頑張る」は僕らの毎日で乱用され、何かといえば日常会話のなかで「頑張ります」「頑張ってるな」「頑張れ」と使われています。

重要な点は、「頑張る」に、「忍耐することは素晴らしい」という意味がこめられていることです。

僕の大好きなバンド、エレファントカシマシの「俺たちの明日」は、「さあ、がんばろうぜ」から始まっています。これが「さあ、努力しようぜ」とかではないのは、それに続く「不器用にこの日々ときっと戦っていることだろう」からもわかるように、日々のさまざまな辛い出来事、納得できないことや悲しいこと、やりきれないことなどにも負けずに歯を食いしばって前を向いて生きていく、我慢する、耐え抜く、といったニュアンスが込められているからです。この歌に励まされる働く人たちは、きっと多いと思います。

「頑張る」についての考察を書いた多田道太郎は、「『広辞苑』に言うような「どこまでも忍耐して」という含意はむしろ乏しく、持てるかぎりのエネルギーを出しつくすという意味で、このことばは、戦中戦後使われてきた」とし、戦後、「頑張るということばの隆盛を見るにいたった」ことについて、「今日の集団的無意識が「頑張る」、つまりはエネルギーを出しきることに盲目的価値をおいているからなのである」と解釈しています(『しぐさの日本文化』講談社学術文庫、もとは1970年からの新聞連載)。

ぼくはこれまで、多田のこの解釈には疑問を持っていました。彼がこの考察を書いた1970年頃の新聞や雑誌の記事などでの用例をみると、全力を出し切るというような能動的なニュアンスよりも、「粘る」とか、「諦めずにやり続ける」といったニュアンスのほうが多いように見受けましたし。

たとえば、1972年12月27日、女優・飯田蝶子さんの訃報記事が新聞に掲載されましたが、見出しには、「笑い振りまいた、がんばり50年 “庶民代表”飯田蝶子さん死ぬ」とあります。飯田さんは、日本を代表する「お婆さん女優」として親しまれ、小津安二郎作品を含むたくさんの映画に出演、息の長い活躍を見せた方です。コツコツと地道な努力を続けた女優人生が、「がんばり」とされたのでしょう。多田のいうような、「持てるかぎりのエネルギーを出しつく」した50年、というような、激しいものではありません。そして、「がんばり50年」と書かれたニュアンスを、僕ら日本人は、おそらく誰もが理解できるはずです。なにしろ、日々、そうやって「がんばって」生きているのですから。

いっぽうで、戦時下の「頑張る」は、多田の言うような「持てるかぎりのエネルギーを出しつくす」ニュアンスがかなり濃厚にあります。「頑張る」の用例をさかのぼっていくと、もともとは、広辞苑①の「我意を張り通す」の意味でもっぱら使われていた時代から、もっとアグレッシブで、強引で、強烈で、鼻息の荒いものでした。

これをどう解釈したらいいのか。考えた末に僕が現時点で辿りついたのは、要するに、いま現在、「頑張る」は、ダブル・ミーニングなのではないかということ。「持てるかぎりのエネルギーを出しつくす」も、「どこまでも忍耐して努力する」も、ともに含んでいる言葉なのではないか。

さらにいえば、僕らは、「全力を出し切って努力する」ことと、「どこまでも忍耐して努力する」ことを、結局のところ、同一視しているのではないか。全力を出すことはすなわち、忍耐することだと、思い込んでいるのではないか。

関東大震災のとき、日本人には「この際だから」との気概があった」に書いたように、「何事も達成するためには頑張らなくてはいけない」と思い込んでいる(『自分を変える習慣力、三浦将、2015年』p55)というのは、何事も達成するためには、辛さや苦しみに耐えること、我慢をすることが必要だと、それがすなわち、全力を出し切ることなのだと、思い込んでいるということなのではないか。

改めて、考えてみます。忍耐、我慢、それができて一人前の大人だと、僕らは当たり前のように思っています。我慢できないのは子どもだと。わがままだとか、根性が足りないとか、言われます。でも本来、人の可能性というのは、それぞれの自発的な意志、自律的な「やる気」によって、自由に、個性的に、発揮されるものです。戦後教育現場に導入された「新教育」は、そうした自主性や個性を尊重するものでしたが、それが「軟教育」だとして批判を浴び、教育界も「逆コース」の道を辿りました。

1970年代に子ども時代を過ごした人ならわかるはずですが、当時の「しごき」は、ひたすら忍耐を強いるものでした。「しごき」まで至らずとも、部活中に水を飲むなとか、非科学的な精神主義が横行していました。その全てが、「耐えろ」というものでした。少なくとも、僕らの世代は皆、忍耐至上主義のもとで教育されてきたので、ともかくも耐えることはいいことだと、叩き込まれています。効率的に成果を出すよりもむしろ忍耐という過程が大事なんだと、倒錯した価値観を持ったりもしています。

こうした旧世代の価値観が、いまも日本社会の隅々に根強くあります。それが、この国をガラパゴス化させているのではないのでしょうか。

忍耐すること、つまり、精神的肉体的に辛い状況を耐えること、あるいは、自分を押し殺して既存社会体制の価値観に迎合すること。そうこうしているうちに自分を見失い、もはや自分らしさが何だったかも思い出せなくなり、思考停止した日常のなかで、新しい発想だとか挑戦だとか何かに夢中になるとかのマインドを喪失し、勝つためのサッカーではなく和を乱さないサッカー、従順なサッカーという「日本らしいサッカー」に逆戻りしてしまったかもしれないサッカー日本代表のように、日本国全体が陥っているのであれば、そりゃいくら「頑張って」も、世界で勝てないわけだ。

追記1:結局のところ、日本は近代化の道を勘違いして進んでしまったのではないか。欧米列強へのキャッチアップを自分たちなりに考えてやってみたのだけれど、その「接木」には誤謬があって、ボタンの掛け違えというか、それが解消されないままに大国気分になっちゃったんで、これでいいんだと思い込んでデフォルト化しちゃったんだけど、それでは世界との溝は埋まりませんという現実が露呈しているのが今日の日本というユニークな国なのでは。でも、日本人自体はわりとフツーの国民気質なんで、その誤謬が解消できれば、個人的な溝はすぐに埋まっちゃうと思うんだけど。

追記2:この国、この社会を作りあげてきたのは、我慢に我慢を重ねてきた従順な人たちではなくて、クリエイティブな人たちだと僕は信じたい。世間の重圧をものともせず、何度心が折れても、熱い心で、おのれが夢中になれる対象に没頭しまくってきた、はた迷惑でも愛すべき人たちだと信じたい。

元号をやめれば、日本は変わる。もっと生きやすい国になる。

戦後占領期の昭和25年5月。日本学術会議吉田茂首相らに対し、元号廃止の申入をした文書が残っています[link]。理由に、以下3点を挙げています。

1.科学と文化の立場から見て、元号は不合理であり、西暦を採用することが適当である。〔以下略〕
2.法律上から見ても、元号を維持することは理由がない。元号は、いままで皇室典範において規定され、法律上の根拠をもっていたが、終戦後における皇室典範の改正によって、右の規定が削除されたから、現在では法律上の根拠がない。もし現在の天皇がなくなれば、「昭和」の元号は自然に削減し、その後はいかなる元号もなくなるであろう。今もなお元号が用いられているのは、全く事実上の惰性によるもので、法律上では理由のないことである。
3.新しい民主国家の立場からいっても、元号は適当とはいえない。元号天皇主権の一つのあらわれであり、天皇統治を端的にあらわしたものである。天皇が主権を有し、統治者であってはじめて、天皇とともに元号を設け、天皇のかわるごとに元号を改めることは意味があった。新憲法の下に、天皇主権から人民主権にかわり、日本が新しく民主国家として発足した現在では、元号を維持することは意味がなく、民主国家の観念にもふさわしくない。

学術会議の言い分(とくに「3」)は、言われてみれば確かにもっともです。なお、wikiでは、こう書かれています。

第二次世界大戦敗戦後に、日本国憲法制定に伴う皇室典範の改正をもって、元号の法的根拠は消失した。しかし、官民関わらず「昭和」の元号が使用され続けた。〔略〕1950年(昭和25年)2月下旬になると、参議院で「元号の廃止」が議題に上がった。〔略〕
しかし、1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまり、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けている。一方で、皇紀神武天皇即位紀元)に関しては(文化的な場での使用を除き)公文書でも使用されなくなった。
その後論争を経て1979年(昭和54年)に元号法が制定された。これは昭和天皇高齢化と、1976年(昭和51年)当時の世論調査で国民の87.5%が元号を使用している実態に鑑みたものである。元号法では「元号皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、明治以来の「一世一元の制」が維持された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至っている。[link]

こないだテレビ番組で元号のことをやってました[link]。それによれば、いま元号を使っているのは日本だけなんだそうです。日本を除く世界のあらゆる国で元号を使用していない、ということは、少なくとも、元号がなくても人間はまったく困らない、ということです。じゃあ、便利か、というと、さほど便利とも思いませんし、むしろ面倒くさいことのほうが多い気がします。

僕ら日本人だけが、何故にこんなことをしてるのでしょう。

感覚的には、元号とは、時代を括るキーワードだ。逆にいうと、僕らが、元号で括られた時代性のなかを生きているということでもある。この、元号で括られた時代性は、天皇によって規定される。いまは天皇主権・天皇統治ではないけれども、僕らが元号のもとで生きているということは、憲法第一章第一条、

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

のとおり、天皇を「国民統合の象徴」とする「日本国民の総意」を、僕らは有しているということでもある。つまり、僕ら日本国民は「統合」しているべき存在、「総意」をもつ存在として、憲法第一章第一条に位置づけられていることになるのだが、これって、大丈夫か?

統合とか総意って、「みんなで一致団結」至上主義の名残ではないのかと、僕は思うのだが(参照:「「みんな」の時代から「百花繚乱」の時代へ(TOKIO山口達也と財務省事務次官セクハラ) - うにゃにゃ通信」)

で。

本当は憲法改正して、この第一章第一条の規定を変える、というか、天皇制をこの際すっぱりとやめてしまえば、衝撃的に日本は変わって「普通の国」になると思うんですが、そこまでしなくても、元号を廃止するだけで、僕らの(無)意識は、たぶん劇的に変わる。

「誰かを頂点にしたピラミッド構造すなわちヒエラルキー」の社会、「業界の天皇」やら「官僚の天皇」やらが従順な人々を実質支配する、堅固な権力構造から、もっと、ゆるやかな繋がり、自分らしさを惜しみなく表現できる「百花繚乱」の時代に、社会全体が変わっていくのではないか。

元号、もうやめませんか?

関東大震災のとき、日本人には「この際だから」との気概があった。

2011年におきた東日本大震災のとき、日本中に「がんばれ」があふれました。がんばれ日本、がんばれ東北・・・。

では、その88年前、1923(大正12)年におきた関東大震災のときはどうだったかというと。

このとき、「がんばれ」コールは、存在していませんでした。

当時の新聞記事でしばしば使われた言葉に、「意気」がありました。いち早くバラックでの復興をみせた神田地区に、「神田っ児の意気を見せた」といった具合に。「頑張る」が席巻する前の日本には、江戸っ子伝統の「意気」の文化が、残っていたのです。

このとき流行った言葉に、「この際だから」というのがありました。

この災害後、被災者が復興を目指した時に、「この際だから、これまでの生活のあり方を見直そう」という運動があり、この「この際だから」が合言葉、流行語となった。[link]

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この時代、横浜では「この際だから」という言葉が流行ったという。 震災をバネにより新しい事にチャレンジしようという市民の気概を示す言葉だ。[link]

「がんばる」と、「この際だから」は、対照的な言葉です。「がんばる」は保守的で、「この際だから」は革新的です。

「頑張る」の語義ですが、広辞苑では、

①我意を張り通す。「まちがいないと─・る」
②どこまでも忍耐して努力する。「成功するまで─・る」
③ある場所を占めて動かない。「入口で─・る」

となっています。僕らはもっぱら、②の「どこまでも忍耐して努力する」の意味で、しかもそれを美徳として、「頑張る」を使っています。「頑張る」には、「耐えることは素晴らしい」という意味がこめられています。

先週書いた、「ハリルホジッチの発言から:日本人の歩みが遅いのは「従順ファースト」だから。」でも、

「がんばる」には、我慢する、とか、耐え忍ぶ、といったニュアンスが、好意的に込められている。これは、個性を発揮するよりも、個性を封じ、社会的に忍従することを善しとする価値観の反映だ。「がんばり」を重んじることは、社会が求める既成の価値観を優先することにつながる。親や教師、先輩や上司といった目上の者が求める、「良い子」的なありよう、各自の個性よりも「みんなで」がなにより大事な価値観、変わることを良しとしない保守的かつ他律的なあり方を示している。

と書きました。なぜ僕らは、忍耐、我慢、そんなものを至上のものとしているのでしょう。そして、「何事も達成するためには頑張らなくてはいけない」と思い込んでいる(『自分を変える習慣力、三浦将、2015年』p57)のでしょう。

なぜ、東日本大震災のとき、関東大震災のときみたいに「この際だから」としないで、「がんばれ」、つまり、どこまでも忍耐して努力することを求めたのでしょう。

あのとき、「この際だから」と、これまでの生活のあり方を見直していたら、原発の再稼動なんてバカな話にはなっていなかっただろうし、被災地再建のあり方も、ずいぶんと違ったものになっていたのではないでしょうか。

この88年の間に、日本人は、それまで持っていた意気とか、気概とか、古いものをぶち壊して新しいチャレンジをしようとか、そういう気持ちを失い、変わることを良しとしない保守的かつ他律的な姿に、落ちぶれてしまったのでしょうか。

(「頑張る」についての考察は、当記事も含め、このブログでずいぶんと書きました。その都度、角度というかアプローチというか書き出しやタイトルを変えて書いているうちに、新しく見えてきたこともあります。書くことで、耕し、育てているような感覚です。いずれ、これまで書いたものを整理し、さらに研ぎ澄ました考察に仕立てたいと思っています)

ハリルホジッチの発言から:日本人の歩みが遅いのは「従順ファースト」だから。

サッカー日本代表の監督を解任されたハリルホジッチ氏が、クロアチアのスポーツ紙に語った内容が興味深い。

ハリルホジッチ氏がクロアチア紙に語った本音 「日本人の歩みは遅い」 - ライブドアニュース

経済的に世界で最も強い国の一つとして、かつ安定した国として、日本はサッカーにもっと投資しなければならないと私は口酸っぱく言ってきた。多くの日本より貧しい国、小さな国が、ある点で先に進んでいる。日本人の歩みが遅いので、私は彼らに注意してきた。若い選手の育成から、その先のことも……。

ハリルホジッチが目指したのは、おそらく、フツーに世界標準のサッカー。彼からみたら、日本のサッカーは遅れている。もちろん、昔からみれば、海外で活躍する選手も増えたし、Jリーグの試合の質も上がっているはずだけど、たぶん、世界のサッカーの進歩はそれを上回っているのだ。

なぜ?

それは、僕ら日本人はついつい安住してしまうから、ではないだろうか。個性や自主性を押し殺し、社会や、帰属する集団が求める、既成の価値観に自分を合致させたところに。

最近の研究によれば、中世・近世の日本で頻発した「一揆」とは、その本質は「共同意思」であり、「心を一つに」とか「一致団結」という意味合いであるという。日本人は外部に訴えかける方法を工夫するより、集団内部の意思一致の方法を工夫していたともいう。その内向きな性向は明治以降も継承された。それを象徴するのが、「がんばる」という言葉の隆盛だと、僕は思う。

「がんばる」には、我慢する、とか、耐え忍ぶ、といったニュアンスが、好意的に込められている。これは、個性を発揮するよりも、個性を封じ、社会的に忍従することを善しとする価値観の反映だ。「がんばり」を重んじることは、社会が求める既成の価値観を優先することにつながる。親や教師、先輩や上司といった目上の者が求める、「良い子」的なありよう、各自の個性よりも「みんなで」がなにより大事な価値観、変わることを良しとしない保守的かつ他律的なあり方を示している。

日本人の歩みが遅いのは、変わろうとしないからだ。ラグビー日本代表のヘッドコーチだったエディ・ジョーンズは、日本には「変化を嫌う人がいる」と発言していた(朝日新聞20151031朝刊p25)。

日本のラグビーは本領を発揮できてないと常に思っていて、日本には優秀な選手がたくさんいます。けれども日本のラグビー文化は、パフォーマンスをするというところではありませんでした。高校、大学、そしてトップリーグチームまでもがそういう文化です。高いレベルでパフォーマンスをするための練習をしていない。規律を守らせるために、従順にさせるために練習をしているだけなので勝てない。[link]

頑張ってさえいれば許される、いわば「従順ファースト」な内向きな文化に、私たちはすっかり染まり、安住してしまっているのではないか。「勤勉な国民性」などという、近現代の創作のなかに、逃避しているのではないか。

「チームが一枚岩になれば勝てるほど、W杯は甘くない」と、ハリルホジッチ解任を伝える紙面で朝日新聞の藤木健記者は書いた(20180410朝刊p21)。「ひとつになろうニッポン」的キャッチフレーズが愛用されるこの国では、「一揆」と同様、「心を一つに」とか「一致団結」とかが重視されるが、それでは世界には通用しない。平昌五輪で銅メダルを獲得した女子カーリングチームは「1つのカラーに染まるのではなく、5色のカラーで1つのチーム」で戦ったし、選手団主将の小平奈緒選手は結団式で「百花繚乱」という言葉を掲げた。世界で戦うにはまず個の強さが求められる。これまで日本人が「がんばれ」という美辞麗句(?)のもとで押し殺してきた、個性や自主性が必要なのだ。

日本人が世界で活躍するには、逆説的だが、日本人を卒業し、頑張らないことだと、僕は思う。

※この記事の元になったのは↓です。

「がんばる」と「一揆」、日本人の内向きな志向性 - うにゃにゃ通信

終戦の教訓:理想と現実が乖離したとき、日本人は思考停止する

昭和19年7月から昭和20年8月までの一年間は、アメリカらを相手に、勝ち目のない戦争を続ける日本にとって、理想と現実が日々乖離していく、アンビバレントな一年間でした。

軍事面では特攻作戦が、外交面では対ソ工作が行われました。いずれも、後世からすれば「無茶」の一言ですが、やってる当人たちも、それはよくわかっていました。無条件降伏ではない、話し合いの講和にもとづいた戦争終結という「理想」は、アメリカ軍の予想を上回る速度での進攻に追いつけず後手後手に回らざるを得ない日本にとって、そして、唯一の「中立」大国である(しかしかつての仮想敵国である)ソ連に頼らざるを得ない日本にとって、日々遠くなる一方でしたから。万に一つの僥倖。それが当時の日本の唯一の望みでした。

この一年間の日本、日本人のふるまいは、大いに今後の参考になりえます。

理想と現実が乖離したとき、僕ら日本人はどうふるまうのか。

…要は、僕ら日本人は、考えることをやめてしまうのです。

問題なのはこの「一撃」の現実性であった。とりわけ、この時点において海軍の戦力はほぼ尽きかけており、有効な「一撃」を加えることはまず不可能な状況にあった。末澤にとって「戦果」とは、和平案を海軍省内で通すための「枕詞」にすぎなかったという。戦局は日に日に悪化、それにともなって条件付和平への渇望が高まるのに反し、その実現はますます困難となっていった。「一撃」はいわば彼らの合言葉であったが、それはいつしか単なる目標、もしくは願望にすぎないものと化していた。当時の日本が、こうした理想と現実との甚だしい乖離のもとにあったことは、終戦史を理解する上で重要なポイントである。
~拙著『終戦史』p141

 104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」」で、篠田さんが、「やるとなったら徹底的」の西洋人に対し、日本人は「何とかなるさで、その何とかっていうのに任せちゃってるみたい」と語っています。

当時、少なからぬ日本人が、最後は「神風がなんとかしてくれる」と思っていた、という話があります(←出典確認省略)。これもおそらく、日本人の「何とかなるさ」思考によるものでしょう。

徹底的に、かつ、合理的に思考をめぐらし、自力で困難な局面を打開しようと当時の日本人が考えたのであれば、違った終戦の形があったのではないか、いや、そもそも、開戦そのものがなかったのではないか、そんなふうにも思います。

僕らは、本当に困ったとき、考えることをやめてしまう。それが、73年前の終戦が僕らに残した、いちばんの教訓ではないでしょうか。