週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

NHK・BSプレミアム「華族 最後の戦い」と、昭和天皇の退位問題

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リサーチャーとして、制作にかかわった番組のお知らせです。

ドキュメンタリードラマ「華族 最後の戦い」(NHK・BSプレミアム)

www.nhk.or.jp

番組では、木戸幸一近衛文麿、そして松平康昌という3人の「華族」の、戦中・戦後を、ドキュメンタリードラマという手法で描きます。軸になるのは、内大臣という要職にあった木戸幸一が遺した日記や証言。その木戸幸一を、佐野史郎さんがリアリティたっぷりに演じます。
戦争の時代を描くのに、軍人がほとんど登場しないという、特異な番組でもあります。

本放送は先月だったのですが、今週末に再放送があります。
2017年9月23日(土) 午後3時00分~4時59分
2時間という長尺の番組ですが、興味のある方は是非、ご覧ください。

木戸、近衛、康昌(周辺に松平姓が複数いるので、名前で書きます)の三人はそれぞれの考えで、皇室を守るために動きます。その詳細については番組をご覧いただくとしまして、この番組がフォーカスする、天皇の退位という問題。掘り下げていくと、じつは、改憲再軍備の問題とも密接にかかわってきます。天皇個人の問題にとどまらず、日本という国家の根幹にかかわる、現代に生きる僕らにとっても、きわめて重要な問題なのです。

昭和天皇の生前譲位によって退位が実現する可能性、その機会は、戦後、何度かありました。そのひとつが、講和条約が発効し、日本が独立を回復した頃です。研究者の冨永望によれば、このとき(=1950年からの朝鮮戦争再軍備が政治的課題として浮上したとき。ちなみに、日本が独立を回復したのは1952年で、休戦協定はその翌年)の退位論は、ひとつには、旧軍人たちによって唱えられたものだったといいます。 

「彼らにとって、再建されるべき国軍の最高統帥者は、選挙の結果によってコロコロ変わる首相ではなく、長期間在位する天皇でなければならなかった。しかし、少なからぬ旧軍人が戦争責任を問われて断罪された中で、保身に成功した昭和天皇を、もはや最高統帥者として仰ぐことはできないという声が彼らの中から起ったのである。逆にいうと、このとき天皇の退位が実現すれば、新しい天皇を最高統帥者にいただく形で改憲再軍備が行われたかもしれない」~冨永望『昭和天皇退位論のゆくえ』(吉川弘文館、2014年)p10

その後、日本は高度経済成長の時代を迎えます(1955~1973年)。もし、1952年の独立回復とともに、昭和天皇がケジメをつけて退位していたら、日本はどうなっていたでしょう。これだけの経済成長は、なかったのではないでしょうか。

「この時期の退位論の背後に再軍備があることが、退位論を噂のレベルに留めたのではないかと筆者は考える。つまり、退位は確かに戦争責任の清算につながるだろうが、その先には新天皇を最高司令官とする再軍備が待っている。昭和天皇が在位する限り、それは実現しない。天皇の戦争責任を問う声よりも、天皇を戴く軍隊を望まないという声の方が強かったために、退位論は広がりを欠いたのではないだろうか。〔略〕昭和天皇が留位したことにより、天皇を最高司令官に戴く改憲再軍備は不可能となった」~同前p160

戦争責任という「過去の清算」をうやむやにしてでも、改憲再軍備にフタをした、となるでしょうか。

手元に、朝日新聞の1952年5月3日付夕刊があります。この日の講和条約発効記念式典で昭和天皇が「お言葉」を述べたのを受け、一面の見出しには「『退位論』に終止符 御決意を表明」とあります。退位論に終止符が打たれたのを、歓迎するトーンです。

さらに、翌日の朝刊一面トップでは、それに関連して「首相、再軍備に慎重 お言葉へ特に進言 自由党新政策、憲法改正の項削る」とあります。ちょっと長いのですが、途中を省略して紹介します。

再軍備の問題とからんで憲法改正論議が行われているとき、天皇陛下は三日の独立記念式典のお言葉の中で戦争犠牲者を追悼され、過ちを再びくり返さぬようにとの御信念をのべられたのち「新憲法の精神を発揮し」といわれたが、このお言葉は終戦以来の陛下の御希望を、吉田首相の助言による御決意の表明とあわせてのべられたものと伝えられ、この間のいきさつから首相は憲法の改正に極めて慎重な態度をとるだろうとの観測が生れている。〔略〕首相は先月下旬、田島宮内庁長官を外相官邸に招き、お言葉の中で陛下が独立日本の国民と苦労を分たれる決意を示されるよう強く助言申しあげる反面、戦禍の反省と憲法尊重を念願される陛下の御希望に副うため同二十五日、増田自由党幹事長を招いて、自由党が講和発効に際して発表しようと政調会で立案中の同党新政策案から再軍備を昭和三十年と予定して憲法改正を行うとの項の削除を命じた。このようないきさつから首相は国民の世論がハッキリした方向を示すまでは再軍備をいわず、憲法はいずれ改正するにしてもその“精神を発揮する”との陛下のお言葉を尊重するものとみられる。

ここから、3つのことがいえると思います。
1.当時、改憲再軍備が議論されていたこと。
2.昭和天皇は、お言葉を通じてその議論に釘を刺したこと。
3.それを受けて、「再軍備を昭和三十年と予定して憲法改正を行う」との自由党案が消えたこと。

この記事を読むかぎり、当時、改憲再軍備に反対していたのは、吉田茂首相ではなく、昭和天皇であったと思われますし、さらにうがった見方をすれば、吉田が天皇に退位の断念を迫り、それと引き換えに、天皇が吉田に改憲再軍備の断念を迫った結果、双方が折り合う形で、天皇の留位と、改憲再軍備の先送りが実現した、ようにも思えます。

このあたり、関連する史料や証言がないか探ってみるとともに、研究者の見解をうかがってみたいところではあります。

※追記:「吉田自由党:幻の「憲法改正→1955年に再軍備」案」に続報を書きました。

さて、これにも関連する、冨永望の記述をもう1つ。

日本国憲法大日本帝国憲法の影を落とすことになった昭和天皇の存在は、皮肉な話ではあるが、日本国憲法の改正を封じる最大の要因でもあった。このねじれを解消する方法は、昭和天皇が退位し、新天皇が即位して仕切り直す以外になかったと思われる」~同前p202

ざっくり言ってしまえば、昭和天皇が長く在位したあいだ、すなわち、昭和が終わるまで、改憲再軍備も、ずっとフタをされ続けていた、という解釈です。

さらにいえば、大日本帝国憲法下で大元帥だった昭和天皇が、新憲法のもとで象徴天皇として在位し続けたことによって、この国は、憲法を改正することなく、もちろん再軍備への道を進むこともなく、高度経済成長、世界有数の経済大国への道を、まっしぐらに進んだ、と考えられるでしょうか。

それが、意図したことだったかどうかはともかく(誰が?)。

当時、たとえば吉田茂が首相を務めていた期間、改憲再軍備が進まなかった最大の要因は、おそらく、民意がそれを望まなかったという点にあるのではないかと僕は考えています。一般的には、吉田茂の「軽武装・経済復興優先」路線、いわゆる「吉田ドクトリン」をその要因に挙げる向きもあろうかと思いますが、すでに一部の研究者が指摘しているように、吉田茂はたんに現実的に対応しただけであり、民意がそれを望めば、改憲再軍備という選択肢もありえたでしょう。

なぜ、民意はそれを望まなかったか。

それは、敗戦という体験を共有した国民が、戦争に懲りた、それも、ひどく懲りたためではないかと考えています。戦争末期から戦後占領期にいたる数年間のあまりの過酷さが、日本人に、「もう、こんな思いをするのはたくさんだ、戦争なんて二度とイヤだ」という強い気持ちを持たせたのだと思います。

戦後しばらく経ち、高度経済成長で自信を取り戻しつつあった日本人の間には、根性だとか、なせば成るだとか、かつての軍隊式精神論が復活するのですが、そのあとも、民意は、改憲再軍備には向かいませんでした。

豊かに。もっと豊かに。高度経済成長のもとで、そしてそれが終わってもなお、人びとは豊かな暮らしを求めて邁進していきます。

そして昭和が終わり、バブルが崩壊します。

 …という、「その後の日本の姿」などを念頭に、このドキュメンタリードラマを見ていただくのも、良いかもしれません。

 日本の近現代史は、日本で生まれて日本で生きる僕たちの、日々の生活からアイデンティティにまで、深いかかわりを持っている。…それが僕が、近現代史に向き合う最大の理由です。