週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

日本は本当にソ連参戦を知らなかったのか:その1.海軍編

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2013年に僕が刊行した『終戦史 なぜ決断できなかったのか』は、その一年前に放送したNHKスペシャル「終戦」の出版化という体裁をとりながらも、放送には盛り込めなかった内容や、その後の追加取材で得られた知見、僕なりの独自解釈なども盛り込んだ内容となりました。

欲張って「てんこ盛り」にしてしまい、ややわかりづらいものとなってしまった反省もありまして、当ブログでは拙著のなかから、いくつかのトピックを時々とりあげ、できるだけわかりやすく書いていきたいと思います。

1945(昭和20)年の日本の終戦経緯について、一般的に、次のように捉えられているものと思います。

陸軍、もしくは軍部の見当違いの構想に引きずられた政府と外務省は、こともあろうにヤルタで対日参戦の密約を交わしたソ連に望みを託して英米との和平交渉の斡旋を頼み、アメリカの原爆投下に続くソ連の参戦でその甘く愚かな幻想はうち砕かれ、最後は昭和天皇の聖断によってポツダム宣言を受諾。最後まで徹底抗戦を主張し続けた陸軍は実力行使を企てたものの、クーデターはすんでのところで抑えられ、8月15日の玉音放送で国民は敗戦を知った。~拙著『終戦史』p10

拙著では、こうした通説のいくつかの部分についての修正を試みているわけですが、今回は、ソ連参戦についてとりあげます。

当時の日本は、ソ連が「まさか」対日参戦するとは夢にも思わなかった、ソ連が米英との間で対日参戦の密約を交わしたヤルタ会談の内容も知らなかった、そして、

ソ連仲介による和平工作ほど愚かな政策はなかった」(半藤一利編『日本のいちばん長い夏』(文春新書、2007年)p175、拙著『終戦史』p224)

というのは、本当でしょうか?

当時のイギリスが傍受・解読をした、日本軍の電報の抜粋をいくつか紹介していきます。これは、ヨーロッパに駐在していた武官たちが日本に送った電報で、彼らがさまざまな情報源から入手した情報が伝えられています。

まずは海軍武官電。いずれも、スイスの首都ベルンからのものです。
昭和20年5月24日。

「フランスの報告によると、ヤルタ会談において、ロシアは極東における戦闘について期日を設定したという。この期限が切れる前に日本が降伏しなければ、対日戦争において、英国および米国に加勢する、というのである」~拙著『終戦史』p36

昭和20年6月某日(たぶん5日)。

「複数の報告によれば、ヤルタ会談において、ロシアは、欧州における戦争終結後も対日戦争が長引くようであれば、積極的に参戦したいとの意向を言明した、そして、ルーズベルトは、死ぬまでロシアとの友好を唱え、その信条に徹底して拘り、ロシア軍が活動を開始すべき凡その期日を8月後半とすることに概ね合意した」~拙著『終戦史』p38

昭和20年6月某日(たぶん11日)。

「以下の理由から、最後の瞬間にソ連が対日参戦することは十分ありえることである:
(1) 外交面。 ヤルタ会談で合意された期日(本年7月末と云われる)までに、英国および米国の対日戦争が終わらなければ、ソ連は参戦する」~拙著『終戦史』p40

また、これらの解読文とほぼ一致する内容が、海軍が当時作成したレポートに記され、内部で配布をされていたことも、日本国内の史料からわかっています。

すなわち、少なくとも海軍にはヤルタ密約情報が伝わっていた。参戦時期の予想についてはややブレがあるが、ヤルタ密約で取り決めたのが「ドイツ降伏後2、3ヶ月」、実際のドイツが降伏したのが5月8日だから、おおむね正確な予想を、ドイツ降伏後一ヶ月の段階で得ていたことになる。~拙著『終戦史』p41

少なくとも海軍は当時、ソ連が対日参戦をする可能性を、じゅうぶんに知っていたことになります。