吉見直人の近現代史ブログ

史料で日本の近現代史の再構築を。

吉田自由党:幻の「憲法改正→1955年に再軍備」案

65年前の1952(昭和27)年、憲法を改正したうえで再軍備を行うという政策案を、当時の与党・自由党が準備していました。自由党、といっても、現在の小沢一郎のではなく、自由民主党の前身、吉田茂率いる自由党のことです。

その自由党が、サンフランシスコ講和条約が発効した時、つまり、日本が独立を回復した時に、「再軍備を1955(昭和30)年と予定して憲法改正を行う」との政策案を発表しようとしていたところ、吉田茂首相の命令によって、その案がボツになったという話を、先日の投稿に書きましたが、今回の総選挙では憲法改正が争点のひとつとなっているので、続報を書きます。

読売新聞1952年4月11日朝刊「憲法改正再軍備 自由党政調会で取上ぐ」によると、

自由党では講和発効を機会に発表する党の新政策案を立案中であるが、その検討が進むにつれて「自衛力漸増か、憲法改正再軍備か」の問題が、すべての政策に先立つ先決問題として焦点的に浮かびあがり、近く党としてこの問題に対する明確な態度を決定しなければならない情勢に迫られてきた。
憲法改正再軍備に対しては吉田首相はじめ党幹部はこれまで自衛力漸増という言葉によって否定的な態度に終始して来たが、党内には最近の情勢から党としても最早や正式に再軍備を認め、さらに進んではそのための憲法改正についても真剣な検討に着手すべき段階に来ているという議論が高まり、七、八両日の政調首脳会議(秘密会議)では水田政調会長、田中副会長は『何等かの形で憲法改正を検討すべき段階に来ている』と主張し、愛知、西村両副会長は『ここ二、三年はあくまで自衛力漸増の線で行き憲法改正はさけるべきだ』と主張して完全な対立をみせた。
〔略〕党としては党内の意向を首相に具申して、いわゆる自衛力漸増から再軍備への切換えをいついかなる形で国民の前に明確にするかについて首相の真意を打診することになろう。

憲法改正に反対する派も、その主張は『ここ二、三年は憲法改正は避けるべき』となっています。「自衛力漸増から再軍備への切換え」は既定路線で、その時期に関して対立しているように読めます。

同月22日、吉田茂は田島宮内庁長官と「重要会談」を行っています(毎日新聞1952年4月22日夕刊か)。おそらくここで吉田は田島に、「お言葉の中で陛下が独立日本の国民と苦労を分たれる決意を示されるよう強く助言」をしています。要は、天皇退位説の打ち消しです(朝日新聞1952年5月4日朝刊一面)。

その2日後(4月24日)、吉田茂は皇居を訪問。昭和天皇に「講和発効後の諸問題、独立記念式典の行事などについて御説明」をしています(読売新聞1952年4月24日夕刊)。「戦禍の反省と憲法尊重を念願される陛下の御希望」(朝日新聞5月4日朝刊一面)は、ここで昭和天皇から吉田に伝えられたのかもしれません。だとすれば、昭和天皇憲法尊重の意向は、やはり、自由党内での憲法改正再軍備の議論に釘を刺したものと考えられます。

翌日(4月25日)、吉田茂自由党幹事長の増田甲子七と「三十五分にわたり要談」をします。そこで吉田が「基本政策の中の憲法改正問題に消極的な態度を示したため」、政調会が立案した独立後の基本政策を4月28日に発表すること自体がとりやめになります。会談後、増田は吉田の意向として、「憲法改正については世論の要求があれば我々もこれを採り上げるが、現在は未だその段階に至っていない」などと語りました(読売新聞・毎日新聞1952年4月25日夕刊)。

後日、この日の会談は、吉田が増田に対し、「戦禍の反省と憲法尊重を念願される陛下の御希望に副うため」「自由党が講和発効に際して発表しようと政調会で立案中の同党新政策案から再軍備を昭和三十年と予定して憲法改正を行うとの項の削除を命じた」ものだったと伝えられます(朝日新聞1952年5月4日朝刊一面)。じっさいには、「項の削除」だけではなくて、それも含めた基本政策の発表自体がボツになったわけですが。

さて4月28日。講和条約が発効、日本が主権を回復して独立国となった日です。朝日新聞の夕刊一面に、午前11時に発表された吉田茂の談話を掲載しています。そこには、

われわれは国情と国力の増進に順応してわが国自らの防衛力を作り上げ、進んで他の自由諸国と共に世界の平和と自由を援護する決意をなすべきである。

と書かれています。また、同じく一面に、吉田の「独立後初の記者会見」の一問一答を掲載。見出しには「憲法改正せず」とあります。再軍備についての質問に対する答。

再軍備うんぬんは簡単なようであるが、簡単なことではない。よく国力を整えて日本の独立安全を守るに足るだけの国力の養われた後において起る問題でそれ以前には軍備は置かない。〔略〕日本の国力が充実し、たえ得るような事態にならなければ再軍備はできない。徒に再軍備といえば、かえって国の内外に不安を生ずる。再軍備の考えは持っていない。したがって憲法改正はしない。日本を日本自ら守るとすれば、いつかは置かなければならないが、それはすべての手段を尽した後においてやるべきことである。

再軍備の考えは持っていない。したがって憲法改正はしない」と言っておきながら、内実は、「今は」改憲再軍備はしない、であり、いずれ国力がついた暁には、改憲再軍備をする、と言っているように読めます。じっさい、読売新聞は同日夕刊一面で「国力充実後に軍備」と見出しに書き、リードに「首相がこの会見で特に「国力充実後に軍備する方針」との決意を強調したことは注目される」としていますし、毎日新聞も同日夕刊一面で「再軍備、国力回復後」と見出しに書いています。

「首相、再軍備に慎重 お言葉へ特に進言 自由党新政策、憲法改正の項削る」(朝日新聞1952年5月4日朝刊一面)の記事内容はさきに書いた通りですが、省略した箇所を以下に記しておきます。

新日本発足のときをえらんで陛下のお言葉を懇請し、終戦以来、各方面に取りざたされた天皇退位説を打消して象徴としての天皇の地位を確立し、陛下の新たな御決意を願おうというのが吉田首相のここ数ヶ月にわたる念願であった。今回のお言葉はこの首相の願望をきっかけとし、陛下の御意向を体した田島宮内庁長官が首相と連絡して起草に当ったが、御決意を懇願する首相の念願にもかかわらず戦禍の責任を御一身に負われようとする陛下の御祈念は深く、また民主憲法の精神はあくまで尊重すべきだとの御意向であったと伝えられている。

昭和天皇憲法尊重の意向に沿い、吉田茂が「世論がハッキリした方向を示すまでは再軍備をいわず、憲法はいずれ改正するにしてもその“精神を発揮する”との陛下のお言葉を尊重する」と、この記事はみています。それにしたがえば、やはり、改憲再軍備に強く反対をしていたのは、吉田茂ではなく、昭和天皇であったことになります。

では、「さらにうがった見方をすれば、吉田が天皇に退位の断念を迫り、それと引き換えに、天皇が吉田に改憲再軍備の断念を迫った結果、双方が折り合う形で、天皇の留位と、改憲再軍備の先送りが実現した、ようにも思えます」という僕の推測は、どうでしょうか。

先日放送のドキュメンタリードラマ「華族 最後の戦い」(NHK・BSプレミアム)佐野史郎さんが演じた、元内大臣木戸幸一は、この前年の1951年10月17日、は、巣鴨プリズンに面会に来た次男の孝彦を通じ、次のような要旨を天皇側近の松平康昌に伝言するように依頼しています。

陛下に御別れ申上げたる際にも言上し置きたるが、今度の敗戦については何としても陛下に御責任あることなれば、ポツダム宣言を完全に御履行になりたる時、換言すれば講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとり被遊、御退位被遊が至当なりと思ふ。(『東京裁判資料・木戸幸一尋問調書』初刷p559)

これは木戸の持論で、巣鴨プリズンへ出頭する直前、1945年12月10日に、昭和天皇に別れの晩餐に招かれた際にも、ポツダム宣言の完全履行後の退位を直接訴えていました。講和条約の発効を控えた昭和天皇の脳裏には、木戸のこの主張が浮かんでいたことと思います。

ですが、当時、政治外交分野の米最高責任者だったウィリアム・J・シーボルトの10月24日の日記には、

条約が実施されたら、天皇は退位するという噂は本当か松平康昌に尋ねた。松平は、退位は一時検討されたが、天皇は自分の感情よりも国の安定の方が重要だと考え、退位はしないという決断に達したそうだ。

とあります。また、田島宮内庁長官の残した文書では、翌月11月9日の拝謁の際、昭和天皇が「退位論につき、留意の弁」を述べており、田島は昭和天皇の在位の意向をふまえて「お言葉」案を練っていたといいます(茶谷誠一象徴天皇制の成立』p240)。

いっぽう、このとき昭和天皇の侍従だった徳川義寛は、のちに朝日新聞社の岩井克己氏に対し、退位問題に最終的に決着がついたのは、1952年3月だったと思うと語っています(徳川義寛侍従長の遺言──昭和天皇との50年』p170)。

これらをみるに、その決着プロセスの詳細は不明ながらも、おそらくは徐々に固まっていき、4月の段階ではほぼ確定的となっていたのでしょう。

そう考えていくと、吉田茂昭和天皇に迫ったのは「退位の断念」というより、「在位の表明」と考えるべきかもしれません。

あるいは、吉田茂昭和天皇との間ではすでに在位論で固まっていたとしても、それを増田幹事長らが知らなかったと仮定すれば、吉田が増田に対し、昭和天皇の退位をもちらつかせて、自由党内にあった憲法改正再軍備論をつぶしにかかった、ということなのかもしれません。

自由党再軍備を予定していた昭和30年といえば、高度経済成長が始まった年です。幻の自由党案の通り、じっさいにこの年に再軍備が行われていたら、日本はずいぶんと違った国になっていたことでしょう。

それにしても、国力回復後に再軍備って、なにか隔世の感があります。

さて、こうして当時の議論を追っていくと、吉田茂の4月28日の発言、「再軍備の考えは持っていない。したがって憲法改正はしない」に代表されるように、憲法改正再軍備がセットで捉えられていたことがわかります。

再軍備のための憲法改正であり、憲法改正とはすなわち再軍備のためでした。

あれから65年。日本国は一度の憲法改正再軍備もせずに、ここまできました。その是非はともかく、僕は、日本国憲法を、鉄の掟、金科玉条にはしないほうがいいと思っています。鉄の掟は思考停止を生み、戦前戦中のいわゆる軍国主義日本と同じ状況を作り出しかねないからです。

漫画家のこうの史代さんは、こう語っています。

核兵器がいまだになくならないのは、持っていればみんなが一目を置き、黙って言うことを聞くと思われているからでしょう。でも、広島や長崎についてもっと知る機会があれば、決して、そんな考えにならないと思います。こんな兵器を使う者のことは、誰もが、恐れても、心の中では信用しないからです。(朝日新聞2017年10月7日朝刊17面)

いま、軍事力が日本の平和を守る有効な手立てになるとは、僕は思いません。それより、世界じゅうに信用される国になることが、結果的に日本を守ってくれることになると思います。

自衛隊も要りません。

自衛隊を、「国際救助隊」にしてしまえばいいと思います。そう、1960年代のイギリスで放送された、あの人形劇。トレーシー一家とスーパーメカが活躍する「サンダーバード」のように。

災害救助を中心として、世界のあらゆる国に、要請に応じてすぐさま駆けつけ、人命救助にあたる専門の組織を、日本の国家予算を注ぎ込んで作り上げるのです。すでに自衛隊東日本大震災をはじめ、国内外の災害救助で実績を積み上げていますし、日本は世界最先端の科学技術も有しています。できるはずです。

国際救助隊をもつ国を、誰が攻撃できるでしょう。

詳細はまた改めて述べますが、対米戦争に至るまでの、かつての日本を振り返ってみると、そこには、「一等国」への憧れといったものがありました。世界から一目置かれる国家になりたい、との思いです。結果的にはそれがどんどんと間違った方向に進んでしまったわけですが、敗戦・占領を経て独立を果たした後の日本は、高度経済成長によってGNP世界第二位(1969年6月10日に経済企画庁が発表した国民所得統計(速報)で明らかに)となり、「経済大国」となります。それは、かつての日本が憧れた「一等国」の座を、違う形で実現したものともいえます。

僕ら日本人は、何故だかわかりませんが、世界から一目置かれる存在でいたいのだと思います。「スゴイデスネー、ニッポン!」と、言われ続けたいのです。「すごい国ニッポン」の究極の姿が、国際救助隊を持つ国ニッポン、なのではないでしょうか。

戦後の日本外交の基本線は、権謀術数ではなく、誠実さにあったと僕は思っています。外交と軍事は国家の両輪です。誠実な外交にふさわしい、誠実な軍事とは、軍事力を「黙って言うことを聞く」ために使うのではなく、相手国の信用を得るために使うことで、実現できるのではないでしょうか。

日米開戦の反省もふまえて、国際救助隊の創設を、まじめに主張します。憲法改正をするなら、是非ともそこに、国際救助隊の明記を。