吉見直人の近現代史ブログ

史料で日本の近現代史の再構築を。

航空燃料国産化と日米開戦:国立公文書館所蔵の知られざる聴取書群から

あまり知られていないことですが、昭和31年からおこなわれた、旧陸海軍人を中心としたヒアリングの記録が国立公文書館に保管されており、誰でも閲覧することができます。その史料について、拙著『終戦史』では、こう紹介しています。

元海軍大佐の豊田隅雄(法務省司法法制調査部参与)らが実施した聴取は、1956年(昭和31年)12月11日の石川信吾を皮切りに1967年(昭和42年)1月25日まで約10年の間、確認できたものでは旧陸海軍軍人を中心として60名以上、聴取件数では100件以上の大がかりなものである。〔略〕聴取書は現在、「戦争犯罪裁判関係資料」の一部として国立公文書館で保管、公開されている。まとまった簿冊としては、「聴取書綴(A級戦犯者ほか)」(平11法務06475100)、「聴取書綴」(平11法務06477100)がある。また豊田らの聴取活動については豊田隅雄『戦争裁判余録』(泰生社、1986年)に詳しい。~拙著『終戦史』p22

聴取の全体像については改めて記すとして、今回はそのなかから、軍令部第四課長だった栗原悦蔵・元海軍少将からの聴取書の一部を紹介します(昭和36年6月2日、平11法務06449100-4)。

昭和16年9月頃の海軍の手持ち燃料は650万トン程度、さらに、陸軍民間のものを合計すれば800万トン乃至900万トン程度で、戦争になった場合も最初の1年半や2年は何とか賄える見込みもあったが、それ以後は南方からの補給による以外には方法はなかった。
しかも、オクタン価の高い航空燃料は、4エッチ鉛が国産が出来ず専らドイツからの輸入に仰いでいたのだが、6月独ソ戦勃発後はその輸入も困難になって、航空機の高性能発揮上、由々しき問題であった。そこで何としてもこの4エッチ鉛の国産化をやらねばとの切羽詰った要求から、その生産を長野県の日本曹達と郡山の保土ヶ谷曹達に命じたが、幸その全巾の協力と必死の努力によって比較的短時日の間に生産可能となり愁眉を開いた。この問題も戦争への踏切の一つの大きな山であった。
〔略〕
布哇作戦につぐ馬来沖海戦でもまたも海軍航空隊が英東洋艦隊主力、プリンス・オブ・ウェルス、レパルスの両戦艦を撃滅したとの情報に接したとき、会議中であった永野総長は椅子からスッと立ち上がって「参内」と云われた。
陛下は総長の奏上を大変よろこばれ、軍令部に鴨40羽を下賜になった。軍令部副官鹿目善輔氏の世話で宮内庁から鍋を借り、鴨のすき焼き会で祝宴を催した。席上富岡一課長等意気当たるべからず、有頂天になっているのを見て、私は、「この大戦果の陰の功労者に恩を致さねばならぬ、それらの人の為に乾杯しよう」と提議した。永野総長は「それは一体誰だ」と反問されたので、私は「それは4エッチ鉛の国産に成功した日曹や保土ヶ谷曹達、浅深度魚雷発射等の技術陣である」旨答えた。お蔭で私は、前記の両会社に市村氏とともに御礼に行かされたが、会社側は非常に喜ばれた。

 1941年12月8日から始まった太平洋戦争。そこに至る経緯をいろんな角度から、つぶさに追っていくと、その開戦は、さまざまな出来事が折り重なった先に起こった偶然だったように思うことがあります。この航空燃料国産化の話も、そのひとつです。

日本曹達の社史(70年史、1992年)には、このように書かれています。

二本木工場(新潟県上越市、同社最大の主力工場)では、航空燃料高オクタン価添加剤の四エチル鉛の製造を主体とするようになっていた。四エチル鉛の研究は、海軍の要請で昭和11年から行っていた。海軍燃料廠の加納大佐が創業者でもある中野友禮社長(昭和15年退陣)とともに二本木工場を訪れ、技術陣に航空燃料の重要性を説き熱心に協力を要請。その熱意に動かされ、“お国のため”に研究を引き受けることになった。
日曹技術者、大我勝躬の著作『墨蹟』によれば、加納大佐は次のように言ったという。
「現代の戦争は航空機の戦争である。〔略〕問題は航空機燃料である。〔略〕最近の航空機用エンジンは圧縮比が大きくなっておりそれだけオクタン価の高いものを必要とする。それにはアンチノック剤(耐爆剤)が必要であるが、残念ながら日本では製造していない。この耐爆剤である四エチル鉛がなければ戦争することはできない。是非軍に協力して、四エチル鉛の製造研究をやってもらいたい」

 日本曹達では、昭和14年に製造工場を建設、昭和16年3月に完成、4月に操業開始。日本初の四エチル鉛の自給態勢を築きます。軍はこの四エチル鉛国産化を高く評価、陸軍航空本部土肥原大将の名で感謝状が贈られ、海軍省軍需局長御宿中将が毎月1回、二本木工場を訪ねて従業員の労をねぎらった、とのことです。

大陸を戦場とした日中戦争とは異なり、太平洋を戦場として、アメリカやイギリスと戦った太平洋戦争は、基本的に海軍の戦争です。開戦前、海軍内の一部に強硬な意見があったことはよく知られたことですが、この技術革新がなかったら、はたしてどうだったでしょう。燃料の問題は、船舶の損耗予測とならんで、開戦の判断に大きな影響を与えた要素だったはずです。

さまざまな人が、さまざまな場所で、さまざまな尽力を積み重ねることで、僕らの歴史は形作られていきます。僕らは決して、破滅に向かって努力しているのではなく、明るい未来を夢見て、いまを懸命に生きています。それは当時も、いまも、まったく変わらないはずです。

科学技術の進展はすばらしいことで、それに尽くした努力はすばらしいものですが、それが結果的には、1945年の「終戦」、日本国はじまって以来の敗戦という、大変な国難につながっていったという歴史は、皮肉なものです。

(それにしても、有頂天になった軍令部の「鴨のすき焼き会」とは…)