週刊:日本近現代史の空の下で。

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昭和18年7月の特高月報:かなり物騒だった戦時下の民衆

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戦時下の民衆が必ずしも、横暴な軍に、なすすべもなく、ただ従うだけだった、というわけではない一例を、さきのブログに書きましたが、今回は日本国内の労働者の様子です。

内務省警保局保安課が、「特高月報」なるものを毎月発行していました。全国各地から送られてきた情報をとりまとめたもので、共産主義運動、無政府主義運動などのほかに、労働運動、農民運動、宗教運動など、さまざまな「運動状況」が記されています。

昭和18年7月20日発行の「7月分」、その概説から。

熾烈なる決戦の連続下に於いて銃後生産戦線の中核を成す産業労働界の使命たるや蓋し重大なるものあり、然るに最近の労働情勢を概観するに後記する如く生産設備の破壊或は連続計画的生産阻害、電車の顚覆、鉱山倶楽部にダイナマイトの装填、工場寄宿舎に対する放火等々好ましからざる事案頻発の傾向あり。
此の種事案は表面的には一応労働統制の強化乃至は労働管理の低調に対する忿懣の疏通口を斯る直接的行動に求めたるものと認めらるるも、之を思想的観点に於て深く検討するとき勤労大衆の感情は諸種の要因を孕んで相当尖鋭化しつつありと言ふを得べく、労働部門に於ける治安の脆弱面が奈辺に在るやに付ての周密なる検討と之が対策こそ肝要と認めらるるなり。其の他徴用期間延長を繞る関係者の動向は予想以上に平穏を持しつつあるも、之は労働者が諦観的態度を持し居る結果に外ならず依然として内面的には深刻なる不平不満を内蔵し居るの情勢なるを以て厳戒を要す。

「生産設備の破壊」というのは、川崎市の軍管理工場である日本工学の工場で配電盤が破壊された事件。徴用工員が「徴用期間の更新に対する憤怒」つまり8月いっぱいでクビになる腹いせからやった模様。

「連続計画的生産阻害」というのは、松江市の鉄工所の旋盤工3名が、ことあるごとに工場側に反抗的態度に出ていて、工場内器具等を窃取、それを見つけて叱った職長に「いらぬお世話だ」と論争、同僚には「無理解な工場主だから儲けさす必要はない其の心算で働け」と煽動、対立的ならびに怠業的気運の醸成に努め、悪質落書きをしたり工場機械器具を損壊あるいは窃取したりしたと。

「電車の顚覆」は、三重県で電車軌道に重量約十貫余の石を置いて電車を脱線転覆せしめた事件で、犯行動機は被疑者の会社に対する僻見、つまりは差別的扱いを受けたと極度の憤激鬱憤を晴らすためにやったことだとあります。

以下は略。穏やかでない、というより、かなり物騒な状況であったことがわかります。

特高、といえば、泣く子も黙る特高、何か政府や軍に対し批判めいたことを口にするだけでしょっぴかれるという、怖ろしい特高というイメージです。特高に連行されるのが怖くて、何も本音を口にできなかったんだと、日本が戦争に負けるだとか、和平だとか、そんなことは思っていても口にできない時代だったと、一般にはそう思われていますし、いまでもときどき、新聞の投稿欄には、そんな回想が掲載されていると思います。

そうしたことも、たしかにあったのでしょう。ですが、この特高月報を読むと、むしろ特高が、当時の一般庶民にたいしてずいぶんと手を焼いている、そんな印象も受けるのです。

日露戦争後、1905(明治38)年の9月5日に起こった「日比谷焼打事件」は有名です。これは、『日清・日露戦争をどうみるか』(原朗、2014年)によれば、ポーツマス条約の、賠償金もなければ領土獲得も南樺太だけという内容に憤慨した民衆が、東京市内全体で交番などを焼打ちし、神戸や横浜など各地にも広がり、初めての戒厳令が布かれたもので、「東京市内焼打事件」とか「帝都騒擾事件」などとしたほうが正確なのに、政府がこの事件を小さくみせるために「日比谷」焼打事件という名称にしたものだといいます。

この「日比谷焼打事件」が政府や軍部に与えた衝撃が、とても大きかったものと僕は考えています。それ以後、要するに、政府や軍部は、民衆にたいしてある意味、ビビるようになったのです。民衆がまた暴れないように、ご機嫌をとるようになったのです。

昭和17年のミッドウェー海戦での大敗北後、大本営発表は嘘の大戦果ばかりを流して国民を騙したといわれています。たしかに、海軍はミッドウェーの敗戦を隠しましたし、それは批判されるべきです。その後、嘘の発表が常態化したことも批判されるべきです。ですが、僕はその理由のひとつは、国民が怖かったからではないか、と思っています。

特高月報を読んでみると、昭和16年の太平洋戦争開戦当時、人々がわっと盛り上がったことがわかります。労働者の勤労意欲も上がり、欠勤率は下がります。しかし、その興奮はわずか2、3ヶ月しかもちません。ミッドウェーのころにはすでに「いつまで戦争続くんだよー」的な意欲減退に、特高月報は頭を抱えだします。あとはずっと、基本的には一貫して、意欲は減退しっぱなしです。

太平洋戦争開戦当時、すでに泥沼化した日中戦争で、国民はどんよりとしていました。開戦当初の華々しい戦果は、それを吹き飛ばすカンフル剤となりましたが、それもつかの間。事態はさらに悪化していき、戦局も生産も国民生活もどん詰まりになっていくなかで、特高も政府も軍部も、理想と現実のはなはだしい乖離のなかで、もがき続けます。

特高月報についてはまたいずれ、詳しく書いてみたいと思いますが、国会図書館などで複製版が見られますので、興味のある方は是非に。

追記。

一国の戦争はその国民の同意なしには不可能であり、軍や政府は人びとの傍観を決して許さずにその手法や勝目についての啓蒙、説得をつねに試みる、強制はあくまでも最後の手段である
~一ノ瀬俊也『飛行機の戦争1914-1945─総力戦体制への道』(講談社現代新書、2017年)p367