週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

日本人の正体に関する仮説:「変身」する仮面ライダーは僕らの化身

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近現代を生きる僕ら日本人には、2つのアイデンティティ(もしくはパーソナリティ)があります。

ひとつは、「104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」 」に書いたような、あっさり・さっぱりとしたタイプ。

ものごとを「なんとかなるさ」とか、「明日は明日の風が吹く」とかいうように楽観的(もしくは他律的)に考え、「なんとか」の内容を徹底的につきつめることなく、最後はその「なんとか」なるものに任せてしまう、ある意味、無責任でテキトーなあり方。

奮闘努力の精神に乏しく、あきらめやすく、粘り強さに欠けた国民性。

和辻哲郎が『風土』に書いたように、思い切りのよいこと、淡白に忘れることを美徳とし、ぱっと咲き、ぱっと散る、桜の花に象徴される気質。

これがデフォルト、いわば土着のアイデンティティです。

もうひとつは、それとは真逆のアイデンティティ。「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった」に書いたように、「国民性は造られるべき」との考え方にたって提唱された、「勤勉」に代表される、あるべき日本人像。

奮闘努力の精神に溢れた、あきらめず、粘り強い国民性。

「非常時」の戦時中から、戦後の高度経済成長期にかけて、日本国民に刷り込まれたもので、端的にいえば、「がんばる日本人像」です。

この相矛盾したパラレル状況について、月刊教育誌「児童心理」の特集「ねばり強い子」(1980年7月号)で、大橋幸(当時東京学芸大学教授)は、こう書いています。

日本人の多くは、「さっぱり」した人間や物(特に食物)を良しとする伝統の中に、今日もなお生き続けている。言い換えれば、「ねばり強さ」とは対照的な文化の中で、日常生活しているわけである。

テストの成績も、部活の成績も、およそ教育の場で価値のある課題や目標は、ねばり強くなければ達成不可能なので、ねばり強さが要求されます。反面、人間関係のうえでは、執念深かったり、こだわり続ける性格は好ましくなく、「あっさり」が求められます。かくして日本の子どもは、矛盾したパーソナリティを同時に要求されることになる、と、大橋教授は書きます。

わが国では、「いかにもスポーツマンらしく、さっぱりした性格」といった表現が何の不思議もなく用いられている。しかしよくよく考えてみると、この表現は少々おかしい。優れたスポーツマンであるためには絶対的に「ねばり強く」また「執念深く」なければならず「スポーツマンらしく、さっぱりした」という表現はそれ自体矛盾している。

この矛盾、子どもたちはもちろん、すべての日本人が抱えるこの矛盾を痛快に解決してくれるのが、あまたの変身ヒーローではなかったかと、僕は思うのです。

歴代の仮面ライダーや、ゴレンジャーにはじまるスーパー戦隊シリーズなど、「特撮変身ヒーロー番組 年表(年代別 変遷の歴史) - NAVER まとめ」には、たくさんの変身ヒーローが列挙されています(個人的には、「インドの山奥~」のレインボーマンが好きでした)。

日本のヒーローが変身すると強くなる理由」では、日本のヒーローと、欧米のヒーローの違いを、こう説明しています。

日本のヒーローは変身する。変身することによってパワーアップして敵と戦います。変身前は普通の人間で、変身後は超人というケースが多いです。〔略〕欧米のヒーローとして有名なスーパーマンは、普段、クラークケントとして生活して、何かの危機が発生するとスーパーマンとして現れます。でも、クラークケントの時でもスーパーパワーは持っています。正体を隠しているだけで、どちらの状態でもスーパーパワーを持っています。つまり、スーパーマンは変身によってパワーアップしているのはないわけです。スーパーマンのあの衣装はいわば「立場」を表明しているものであって、そこにスーパーパワーはありません。それはスパイダーマンやフラッシュでも同じです。バッドマンはその衣装が装甲にもなっていて防御力を上げているのですが、それでも衣装がスーパーパワーを与えているということはありません。

ふだんの生活はデフォルト、土着の国民性で暮らし、いざ、頑張りやら踏んばりやら粘り強さやら奮闘努力の精神やらを要求される場面になると、別人に変身してパワーアップする。もしくは、その「ふり」をする。

それが、僕らがこの国の近現代史のなかで身につけた処世術ではなかったでしょうか。

つまり、場面に応じて器用にアイデンテイティの切り替えのできるやつ、すなわち、「要領のいいやつ」が、この日本ではいちばんおいしい思いをすることができる、ということなのではないかと。はなはだ残念なことに、「正直者は馬鹿を見る」というのが、僕らの現実なのではないかと、日本の百年の歴史を振り返って、思うわけであります。