週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

1970年代試論:幻想としての「みんなガンバレ」の時代

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ」を書いて以来、1970年代が気になっています。

たとえば、(少なくともタテマエとしての)平等社会について。

「頑張れば夢が叶う」的な言説に、「誰でも」という要素がデフォルトで内包されていることは、議論の余地はないものと思います。そして、1970年代に出現した「平等社会」が、「頑張る」促進、そして、「頑張り圧」定着の、大きなファクターになったのではないか、との仮説について。

天沼香は、『日本人はなぜ頑張るのか』(2004年、第三書館)の、「頑張り」を育む「努力差」重視社会」(p97~)と題した節において、『タテ社会の人間関係─単一社会の理論』(中根千枝、1967)の、

伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目する。が、「誰でもやればできるんだ」という能力平等感を非常に根強く有している。

との記述を引用。二宮金次郎野口英世のような、貧しいなかで努力を重ねた、日本で尊敬される人物像を挙げたうえで、

結果はどうあれ(たとえ失敗に帰したにせよ、上々の成果が得られなかったにせよ)、そこに至る過程で「努力した」ことや「頑張った」こと自体が一定の評価を得ることになる。

として、

日本人が「頑張る」背景には、「能力差」よりも「努力差」のほうが称揚されるという社会規範が横たわっているのである。

としています。

天沼氏は、「「頑張る」は日本人に固有の民族性ではなく戦時中の刷り込みです」で、すでに述べたように、「頑張る」の歴史的推移を考慮に入れておらず、「頑張る」を日本民族のコア・パーソナリティとしていますが、ぼくは、こうした社会規範が日本社会に固有のものだとは考えていません。

また、天沼氏は「戦後長らく、経済効率万能的思考のもと、モーレツ社員や企業戦士が身を粉にして「頑張って」きた結果、日本は驚異的な経済成長を遂げた」(同上、p146)としていますが、それにも同意できません。

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ」に書いたとおり、「モーレツ」(および、モーレツ的価値観)が日本社会に出現したのは、1964年の東京オリンピックのあと。つまり、1955年から1973年までの高度経済成長の、後半期。「根性」が流行し、「四十年不況」を境にして産業界に少数精鋭主義がうまれ、「猛烈社員」への称賛が生まれて以後のことです。

高度経済成長の前半期、つまり、「三丁目の夕日」が舞台になった時代、「スーダラ節」が流行した時代は、当時のサラリーマンのあいだで「遅れず・休まず・働かず」といった「三ズ主義」が流行っていたように、日本人は、さほど頑張ってはいませんでした。高度経済成長中、一貫して、日本人がモーレツに頑張って働いてきたというのは、勘違いです。

さらに、『日本人はいつから働きすぎになったのか─〈勤勉〉の誕生』(礫川全次平凡社新書、2014年、p214)では、こんな指摘がされています。

1951年(昭和26)3月に公開された映画『我が家は楽し』(松竹)は、その当時の(1950年代はじめの)サラリーマン一家の生活を描いている。
映画は、父親(笠智衆)が、会社から帰ってくるシーンから始まる。駅を出て家路を急ぐが、外はまだ明るい。途中、草野球をやっている長男を見つけ、「おーい、カズオ、もう帰らんか」と呼びかける。どう考えても、午後6時前である。帰宅した父親は、和服に着替え、その後、一家揃っての夕食。今日では、ほとんど絶滅した光景である。
経済学者の日高普は、その著書『日本経済のトポス』(青土社、1987)の中で、サラリーマンが5時に退社し、家族と夕食をとるという習慣がなくなったのは、「1950年代半ば」だったと書いている。妥当な指摘だと思う。右の映画が公開された当時においては、父親が夕食前に帰宅するのは、ごく当たり前のことで、映画の中だけの話ではなかったのである。

つまり、高度経済成長がはじまる前の日本社会は、さらにのどかな光景が広がっていました。いまでは、敗戦後の日本人は、頑張って頑張って、焼け野原からの復興、そして「奇跡の」高度経済成長を達成したのだという、一本調子なイメージが一般的かもしれませんが、案外、そうでもなかったのです。

さて、歴史経済学の権威、中村隆英氏の『昭和史(下)』によれば、1970年代のはじめ、可処分所得のバラつきがいちじるしく小さくなり、日本社会が「中流」化をしました。また、メディア史の佐藤卓己京都大学大学院教授によれば、それまでごく限られたエリートのものだった大学受験は、1970年代に大衆化(「受験戦争」という言葉が新聞紙面に定着したのは、1970年代)、「ピンからキリまで進学する」時代となりました(『青年と雑誌の黄金時代──若者はなぜそれを読んでいたのか』2015)。

この頃、「月刊生活指導」という、学校教師が読む雑誌に、藤原喜悦・東京学芸大教授が、能力差について書いています(『月刊生活指導、1972.10臨時増刊』)。

昔は中学校というと、大体20%近くしか行かなかった。〔略〕ところが、いまは義務教育で全員が中学校に行く。その中学校へ来ている生徒が、なかなか簡単には解決できないような問題を一生懸命やらされている。〔略〕これが昔の中学生だった私たちと、いまの子どもたちとずいぶん違っているところではないかと思います。どこが違うのかといいますと、一般的に言えば、非常に大きな能力差をかかえているということです。できない者はほんとうにできない。〔略〕そうすると、{評価で}1をつけられる人はいつもきまってしまいます。それで「おれはまた1か」ということになり、通信簿は少しも変わりばえがしないということです。できる子どもたちは、「この前は4だったけれども、今度は5になるかしら」と、期待におののいてくるが、最低の子どもは「また1か」「また2か」ということになりやすい。こういうように、非常に大きな個人差をかかえている青年たちを、私たちは中学や高校で取り扱わなければならない。

この文章が発表された1972年は、井上陽水が「東へ西へ」で「ガンバレみんなガンバレ」と歌った年。まさに、「みんなガンバレ」の時代でした。「みんな」の時代になって、みんなが中学に、そして高校に、大学に行く時代となって、「できない子」をどうするかという問題が出てきました。同年、都立城北高校(いまの桐ケ丘高校)の教諭が、同じく「月刊生活指導」に、「勉強についていけない生徒」を書いています(『月刊生活指導、1972.11』)。そこでは、生徒に「きみたちは城北高校を望んできたのか」と質問すると、能力がないからここに来た、だから入学当初からやる気がないのだ、と答えたとして、「はじめから「やる気がない」生徒たちに対して私たちがなすべきことは、「能力がない」というかれらの迷妄を打破してます「やる気」をおこさせることである」と書いています。

「頑張れば夢がかなう」といった、現実というよりむしろファンタジーといえる言説は、管見の限り、学校教育の現場から出てきたと推測されるのですが、おそらくそれは、こうした、できない子、やる気のない子が大量発生した状況に対し、「やればできる」と教師らがハッパをかけたことによるものであり、それに対し、彼ら「落ちこぼれ」たちが、「ひとつの目標を持ったら、それをやりとげるまで頑張ること。それが、オレたちのツッパリさ」(by横浜銀蝿)と応えた、ということではないか、と思います。

1970年代に出現した「平等社会」(一億総中流社会)は、努力量が称揚の尺度になるという価値観を生みました。当時から教育現場では「できない者はほんとうにできない」という圧倒的な能力差が存在していましたから、その平等社会とは、当初から「一見平等社会」であり、「建前としての平等社会」でしたが、ともかくも教師たちは生徒たちに対して「やればできる」とハッパをかけましたし、そればかりか、社会全体が、「やればできる」教に染め上げられていました。

当時の人々がそう思い込んだ理由のひとつは、おそらく、焼け野原からの復興~奇跡の高度経済成長という成功体験があり、それを成し遂げたという自負があったこと、そしてもうひとつは、その時代の恩恵をもっとも受けたのが、それまで貧しかった人たちだったこと、だと思います。

つまり、それまで社会の底辺で貧しい暮らしを送っていた大勢の庶民が、戦後復興から高度経済成長に至る過程で豊かさを手に入れたことが、「やればできる」と思い込んだ大きな要因であったと思います。それまでは、農家の子は農家、漁師の子は漁師となり、ムラ社会のなかで、大それた夢も持たず、先祖代々と同じような暮らしを営み続けるのが当たり前でした。ところが、社会全体が格差縮小に向かうと同時に、進学、受験が大衆化し、小学校から中学校、さらには高等学校、はては大学にまでも、みんなが進むようになりました。自らが望み、努力をすれば、目の前には輝かしい未来が待っている、そう信じることができました。

ですが、この「平等社会」は、長くは続きません。というか、『新・日本の階級社会』(橋本健二講談社現代新書、2018年1月、p7)によれば、格差は高度経済成長を通じて縮小し、1975年から1980年頃にもっとも小さくなりましたが、その後は反転上昇に転じ、1980年前後から今日にいたるまで格差の拡大は続いているとしています。

「一億総中流社会」という言葉が定着し、人々が日本社会を「一億総中流社会」とひろく認識しだしたときにはすでに、格差の拡大は始まっていました。人々がみずからを「中流」と認識し、「平等社会」と思っていたときにはすでに、格差も、能力差も存在していたにもかかわらず、人々は自らが成し遂げたと思い込んだ成功体験から、「やればできる」というファンタジーを信じ、「みんなガンバレ」と、あたかもただガンバリさえすれば豊かな暮らしや幸せや成功がその先に待ち受けているかのように、お互いを励ましあってきたのですが、残念ながらその先には、バブルとその崩壊、失われた○十年、そして、橋本健二氏が主張するような、固定化された下層階級がうまれてしまった、といったところかなと思います。

「みんなガンバレ」の時代は、そのはじまりと同時に終焉がはじまっていたにもかかわらず、その現実に目を向けることなく、「頑張れば豊かになれる」「頑張れば幸せになれる」「頑張ればなんとかなる」という、根拠のない神話にしがみつき、拡大するいっぽうの格差は放置され(橋本健二氏)、頑張れない人はふるい落とされ、結果、いまのいびつな社会が形成されてきた、ということだとすれば、いまの社会の根本的な欠陥を生み育てたのは、この国に暮らす、すべての人々だということになります。

ところで、根拠のない神話に人々がしがみついた、といえば、昭和20年の終戦のときも、そうでした。

「決定的な破局に瀕しながらも、「神国」日本が負けるはずがなく、土壇場で「神風」が吹いて勝利が日本の上に輝くといった宣伝に、最後の望みをかける人も少なくなかった」(『資料日本現代史2敗戦直後の政治と社会①』p479)

結局のところ、104歳の篠田桃紅さんが語るように、「何とかなるさで、その何とかっていうのに任せちゃってる」のが、ぼくら日本人なのかもしれません。