週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

頑張って服従する:近代化の道を間違えたツケが噴出する現代日本

前回の追記の続き。

日本は近代化の道を間違って歩んでしまった。それがいまだに自覚すらされていないからこそ、現在も「頑張る」という言葉が無自覚に隆盛を極めている、ということなのではないでしょうか。

日本という国家が間違った道を歩みだしたのは、昭和6(1931)年の満洲事変の頃からだとみて、ほぼ間違いないでしょう。この年には、橋本欣五郎らによる企て、三月事件、十月事件も起きています。何故この頃、少壮将校らがこうした行動を起こしたのか。通常だと、兵士の故郷である農村が窮乏する状況に義憤を感じ、日本の刷新を目指した、…といった説明になると思いますが、それだけでは充分に納得のいく説明にはなっていないように思います。

ともあれ、こうしたキナ臭い出来事と歩調をあわせるかのように、日本社会では、「頑張る力」、別の表現では「ガンバリズム」を賞賛・奨励するような言動が各所から沸き起こってきます。

頑張るという美徳:自己犠牲を期待する圧力が時に僕らを縛りつける」に書いたように、当初は「欧米人のように執拗に、最後の瞬間まで頑張れ」と、勝つための頑張り、成果をあげるための頑張りの必要性が説かれました。いわば、功利主義的な発想だったわけです。

1945年の敗戦=いわゆる「終戦」を、ぼくは、当時の日本人が頑張った末路だと考えています。「頑張り」の必要性が喧伝されるなかで、執念とか根気といった精神主義ばかりが強調され、従来の日本社会にあった集団主義と融合していくなかで、当初の功利的な「頑張り」から、むしろ利他的な「頑張り」へと変質していきました。

敗戦は、それまでの精神偏重主義を反省する絶好の機会だったはずですが、どうやらそういうことにはならなかったようです。個性重視の新教育が登場したものの、旧来の価値観が根強い日本社会に拒絶されて根性至上主義が復権、「頑張り」の大事さも、親から子、教師から生徒に、伝えられていきます。

ハリルホジッチの発言から:日本人の歩みが遅いのは「従順ファースト」だから。」に書いたことですが、根性、とか、頑張り、といった精神主義は、旧来の価値観や、上下関係を絶対視する社会集団の枠組みがあって、はじめて成立するもので、個性発揮とは真逆の価値観です。

日本社会は、欧米列強に追いつこうと、彼らのメンタルをも模倣しようとしたのですが、それが社会に浸透していく過程で、間違って解釈され、絶対的な服従と従順という関係性が過剰に強調された形で定着しました。おそらく、戦後の高度経済成長が、その定着剤の役割を果たしたのでしょう。当時は大量生産モノ作りの時代、ロボットのように従順な働き者が火の玉集団となって邁進し、次から次に商品を提供し続ければ毎年給料が上がるという、夢のような時代でしたから。

それが、TOKIO山口達也問題と財務省事務次官セクハラ問題日大アメフット部問題といった昨今の問題の根っこに、厳然と横たわっているように思います。

本田圭佑が「プロフェッショナル」の発言に物議 ネット上で批判 - ライブドアニュース」によれば、「ハリルのやるサッカーに全てを服従して選ばれていく、そのことの方が僕は恥ずかしいと思っているので。自分を貫いたという自分に誇りは持っています」と語った本田圭佑の発言に対し、ネットで批判的なコメントが散見されるようです。

「監督の要求に応えるコトや指示に従うコトを『服従する』とマイナスに捉え、しかも反発しそれを何故か美化するような選手は、少なくともプロフェッショナルとは呼びません」

だとか。

だけど、おそらく本田のように世界で活躍する、サッカー選手に限らずアスリート達は、監督や指導者に「全て服従する」という発想が今でもデフォルト化している日本スポーツ界がガラパゴスであることを、誰もが知っているはずですし、解任されたハリルホジッチ元監督も、本田ら選手を「全て服従」させる発想は、なかったはずです。世界標準と思える本田の発言が物議をかもすこと自体、日本がまだまだ、世界で戦える国にはなっていないことを示しているように思います。

「頑張り」の本質は「服従」です。自分らしさを殺して目上に服従し、個性を喪失することです。それはもはや、前近代的価値観以外の何者でもありません。