週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

がんばるな、既存をぶちこわせ

サッカーW杯、日本は予選3戦目のポーランド戦で負けたものの決勝トーナメント進出が決定。その試合終盤のボール回しが議論を呼んだことを受けて。

岡田武史氏はこれについて

日本サッカーは美学ばかりが先行し、現実的な戦い方ができなかった。これもひとつの壁を越えたことになる。(朝日新聞20180630p20)

と語った。

では疑問。これまでの日本サッカーは、なぜ、美学ばかりが先行して現実的な戦い方ができなかったのか。

これは日本サッカーに限らない。そして、スポーツの範疇にもとどまらない。日本社会そのものの問題だ。

おそらくこれに強く関連するのは、日本の伝統的な美学。桜の花の散り際のように淡白で、ものごとに執着しないという美意識。

そしてそれは、ものごとを「なんとかなるさ」とか、「明日は明日の風が吹く」とかいうように楽観的(もしくは他律的)に考え、「なんとか」の内容を徹底的につきつめることなく、最後はその「なんとか」なるものに任せてしまう、ある意味、無責任でテキトーなあり方。にも通じる。

この国では、奮闘努力とか、あきらめない粘り強さ、といったことを口では賞賛しながらも、その実はというと、結果はあまり求めてない。

ではいったい何を求めていたのか。それは、「姿」だ。

そもそも、私たちは“したたかな戦い”をする日本代表を見慣れていない。これが戦略の一つだと知ってはいても、「それって強いチームがやることでしょう?」という感覚がどこかにある。なぜなら、いつも応援している日本代表はガムシャラに走って、食らいついて、泥臭く戦うチームだから。コロンビア戦やセネガル戦のように闘志をむき出しにして戦う姿勢に多くの人が心を打たれ、誇らしくも感じていたはずだ。だからこそ、ポーランドに負けたことよりも、日本が勝ちにいくという姿勢を放棄したことに腹が立ち、同時に残念な気持ちを抱いたのだろう。[link]

トルシエは、この前の試合について、「日本は勝つのが怖かったんじゃないのかな」と指摘している。

最初の問題として解決すべきは、まずは前半だったんですけれども、まずはリードして、そして、また同点になったということで、パスをミスったりとかがありました。特に本当だったらゴールを決めていたチャンスもあったのにできなかった。だから、日本は勝つのが怖かったんじゃないのかな。本当だったら、もう前半で相手を打倒できたにもかかわらずそれができなかった。(2018/06/21クローズアップ現代+「日本金星!めざせ決勝T▽岡田×トルシエが語る次戦の秘策」[link]

日本はついに、勝つことを怖れない、勝つことの重圧を受け止められるようになったのか。

ところで日本人は、前述のような「ガムシャラに走って、食らいついて、泥臭く戦う」姿が好きだ。いいかえると、「がんばる姿」が好きだ。

この「がんばる」が曲者で、これまでも当ブログでさんざん書いているのだけれど、「がんばる」には、常に、「正しい目的に向かって」がインクルードされている。

「女遊び、がんばります」とか、
「マージャンにパチンコに競輪競馬がんばります」とか言わないことからもわかるが、「がんばります」と言えば、それは、正しい目的に向かって頑張るのだということが、言わずもがなの大前提となっている。少なくとも現代日本では。だから外国人労働者が「ぼくたち、がんばります」というと、日本人は安堵する。

で。「正しい目的」ということはだ、言うほうと、言われるほうとの間で、「正しさ」についての考えが一致しているということなのだ。何か正しいことなのか、これはつまりは社会の既存の価値観を受け容れているということなのだ。その了解事項ができているということなのだ。

それは一見いいことのように思えるかもしれないけれども、そうではない。

奮闘努力や、あきらめない粘り強さは、何のためか。勝つためではない。既存体制、既存価値観の「ぬるま湯」に使った、「目上の方々」への奉仕なのだ。これまでは、勝つことよりも、一枚岩=目上への服従が優先されてきた。

がんばる人=微動だにしない人=鈍感な人=無神経な人、なのだ。

全員が一丸となって、とか、一枚岩で、とか、ひとつになろうニッポン、とか、これは誰のためかといえば、目上の方のためなのだ。勝つためではない。一枚岩になれば勝てるほど、世界は甘くない。

この国は、「良い子の国」だ。頑張る、とは、その意味で、この国の根幹だ。受験を勝ち抜いて官僚になる、目上の期待に応えられる子供が尊重されるという、この国の病理だ。

勝つのはもう怖くない。がんばるな、既存をぶちこわせ。

(全面改訂 - 2018-06-30 16:17)