週刊:日本近現代史の空の下で。

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企画院総裁・鈴木貞一の聴取書から:語られてこなかった戦時下の民衆の姿

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今の日本には過去を振り返る力があるのだから、戦時中に起きたことにきちんと向き合うべき、とのカズオ・イシグロ氏の考えを出発点に前回は書きました。

これまで僕たちがきちんと向き合ってこなかったことのひとつに、当時、アジア各地で、軍人ではない日本の民衆たちが、どんな傍若無人なふるまいをしていたのか、という実態があるように思います。

今回紹介するのは、元陸軍軍人で企画院総裁だった、鈴木貞一の戦後証言です。以前と同様、国立公文書館所蔵の聴取書から、その一部を紹介します(昭和34年9月17日、平11法務06419100-3)。

それによれば、鈴木貞一は昭和14年4月に、中国大陸の占領地の現地視察に出かけ、北京、南京、青島、徐州等の各地を巡視したといいます。

現地を見ての結論は一口にいうと「これは大変だ」ということであり、当時新聞記者の質問に対しても「要するに日本人は支那から引き揚げろという結論だ」と話した。
すなわち、南京では目抜きの場所は全部日本側で占拠しており、かつての蒋や汪の住んでいた家も全部接収しており、北京でもこれはと思う家は尽く取っており、開封では新都心計画の名の下に旧来の家を片端から壊しており、上海でも租界外におけるよい所は皆日本側で取っている。
上海で久留米出身の洋服商たる私の友人(石橋某)を訪ねると、彼は私に「自分は、上海に来て約30年、粒々辛苦の末今日やっとここまで築き上げて来たのだが、最近渡って来る人々は皆手ぶらで来てただで取っている。鈴木さん一体日本はこれでよいのでしょうか。」と聞かれた。このように、支那占領各地の実情は支那の民族運動に同情を持ってきた自分達の気持ちとは似ても似つかぬものになっていた。英米支那でやったことよりも更に悪い。そして事ここに至ったのは単に軍のせいだけでなく日本民族全体の動きであり、その支柱をなすものは日本の財界でその下に一旗上げようとする中小企業者がついているせいであることもよくわかった。
私は帰京の上現地で見た実情をそのまま報告した。軍中央でも「実に困った」と口ではいうが、さればとて軍と結んで深入りしている財界の存在は、軍の統制を一層困難にし簡単には修正できない情況であった。しかも日本では聖戦完遂と呼ばれていた。

戦後よく言われるフレーズに、「横暴な軍部」や、「軍部の暴走」といったものがあります。ようは、ぜんぶ軍が悪いのだと。軍が国を牛耳って、とんでもない方向に引きずっていったんだと。国民は、庶民は、軍のせいでひどい目に遭ったのだと。

軍のやったことを弁護する気は毛頭ありませんが、当時のファクトとして、はたして、それだけだったのでしょうか。ここで鈴木貞一が語る「聖戦完遂の実態」も、また事実だったのではないでしょうか。

南京といえば虐殺ばかりに焦点が当てられがちですが、そのあとに「一旗上げようとする中小企業者」たちが、南京や他の都市でどんな振る舞いをしていたのか、ということにも、もっと関心が注がれるべきでしょう。

また、日米開戦に至った重要な理由のひとつに、アメリカが要求した、中国大陸からの撤兵の拒否、という要素がありますが、このように、「軍と結んで深入りしている財界の存在」が、撤兵をいっそう困難にしたのではないか、僕はそう思っています。

ことは財界、中小企業者に限りません。科学技術者についてはすでに別のブログで書きましたし、日本国内の一般庶民については、渡辺清『砕かれた神』(岩波現代文庫2004年)や半藤一利『B面昭和史』(平凡社2016年)などで語られています。それらから見えてくる戦時下の民衆の姿とは、戦後になって語られるような、横暴な軍になすすべもなくただ従うだけしかなかった、という姿とは大きく異なります。

ところで、鈴木貞一はいろいろと悪評のある人物です。ウィキペディアでは「「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人」などと書かれていますが、彼が東条英機の腹心の部下だったとする点については、さてどうでしょうか。資料がにわかに出てこないので、正確に書けませんが、1941年6月の独ソ戦勃発後、ドイツとの同盟関係を破棄すべきと主張した数少ない人物のひとりが、この鈴木貞一だったはず。好き嫌いや、批判すべき点(とりわけ開戦決定の経緯に関して!)があることはともかくとして、時流を読む力には長けていた、珍しいタイプの軍人だったのではないかと、僕はみています。鈴木貞一についても、いずれ、きちんと書いてみたいと思います。