週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

ネバーギブアップとは、歴史的には批判されるべき悪徳

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ネバーギブアップ、つまり、絶対にあきらめない、というのは、不屈の精神をあらわす美徳であるように、一般には思われています。

はたしてそうでしょうか。

日本の近現代史をみる限り、ネバーギブアップとはむしろ亡国の思想であり、決して賞賛されるべき考え方とは思えません。

太平洋戦争がはじまった翌日のラジオ放送(1941年12月9日)。情報局第二部第一課長の松村秀逸大佐は国民をこう鼓舞しています。

三千年余、鍛へに鍛へて来た、已むに已まれぬ大和魂を発揮するの秋は来たのである。されば
渾身の力を出せ
不退転の勇気を奮ひ起せ
必ず勝つ、必ず勝つ
最後まで頑張って、頑張って、頑張り通せ
然らば勝利の太陽は、燦然として日本の上に輝くであらう

そして、サイパン玉砕を伝える「写真週報」1944年7月26日号では、「頑張らう一億決死の覚悟で」と題し、こんな文章が掲載されています。

戦ひは、最後の最後まで頑張る者、踏みつけられようが、叩きつけられようが、『貴様らには絶対に負けないぞ』と確信する者、即ち相手が負けたといふまでは、決して戦ひをやめないぞといふ強烈な意志が、勝利を得るのです。

ちなみに、このサイパン玉砕、そしてマリアナ沖海戦での敗戦ですが、

サイパン奪回の中止、マリアナ諸島放棄の決定は、一時、陸海軍両統帥部の作戦関係者を、ぼう然自失の状態に陥れた。戦略的勝算が失われたという印象によるのである。(『戦史叢書・陸軍航空の戦備と運用<3>大東亜戦争終戦まで』)

とされてます。ようは、この1944年6月をもって、日本は軍事的に、アメリカに負けたのです。以後の戦闘は、米軍にとっては残敵掃討戦となった(山田朗『近代日本軍事力の研究』)にもかかわらず、日本は戦争をやめようとしません。

翌年、1945年。「主婦之友」3月号では、大本営陸軍報道部の親泊中佐が「頑張り生活」を説きます。

これからの戦を勝ち抜いてゆくには、国民全体の不屈不撓の頑張りといふことが何よりも重大な要件となって来ました。極端に申せば、頑張るといふことが唯一の勝利への道となりませう。しかし、頑張りといっても、『頑張っていたら兵隊さんが勝ってくれる。』といふ消極的な、他力本願的なものではなく、『勝つために頑張る。』といふ積極的な、自力主義のものでなくてはならぬと思ふのです。

当時、日本国内に吹き荒れたのは、絶対にあきらめない、すなわち、ネバーギブアップ旋風です。当時のいわゆる徹底抗戦派が主張したのは、要するにネバーギブアップの精神です。終戦時の「クーデター騒ぎ」(拙著『終戦史』p11)にかかわった井田正孝(のち岩田姓、戦後は電通総務部長などを歴任)は、自著『大東亜戦争の始末』(1982年)のなかで、「徹底抗戦の意義」にふれています。

始めあれば終りあり。開戦あれば終戦がなければならない。徹底抗戦にも終戦はある。むしろ、より良い終戦を勝ちとる手段として、徹底抗戦の意義が存在する。戦理を知らない人は、徹底抗戦一億玉砕して大和民族が亡んだら、国体護持もあり得ないではないかと言ふ。全く無知といふほかはない。一億人の民族が全滅するなどあり得ないことである。一割の一〇〇〇万人が死ぬのも大変なことである。徹底抗戦一億玉砕とは、あくまでも戦ひ抜く心構へをいふ。大儀を守るために戦ふ不屈の忠誠心を鼓舞するお題目に外ならない。

いつだったか、実家に帰省したとき、小学校の卒業文集を見つけました。そこに書かれていた担当教師のひとことは、当時(1970年代後半)はやった「ネバー・ギブアップ」でした。この「ネバーギブアップ」というフレーズが日本でいつどこから流行するようになったかは、いまは確認できていませんが、戦時下の日本で喧伝された不屈の精神と、地下でつながっているように思えてなりません。

(追記:熱血学園ドラマ「スクール☆ウォーズ」あたりからかと思いましたが、これは1984年放送開始みたいで、違うようです。。。)

死んでも諦めるなという心構えを教え込まれた、おおぜいの若者たちが、体当たり攻撃=特攻で死んでいきました。

戦後、この徹底抗戦の考えは、日本国を亡国の淵に追いつめたものとして、強く批判されます。そしていまでも、軍部への批判とあわせて、批判されつづけています。いっぽうで、ネバーギブアップの精神は賞賛されています。

おかしくないですか?

強い精神力をもって困難を突破しようと試みる、そのこと自体は、基本的には賞賛されるべき姿勢だと思います。でも、ものには限度というものがあります。日経ベンチャー2001年11月号は、「廃業の限界点 頑張りすぎて人生を棒に振らないために」と題した特集を組んでいます。リードにはこう書かれています。

資金繰りに窮した経営者が、高利の市中金融業者からカネを借り、厳しい取り立てに耐えられなくなって、夜逃げや自殺、一家離散に追い込まれる例が後を絶たない。是が非でも会社を守ろうという経営者の頑張りが、逆に悲劇を招いている。苦境に立たされた時こそ、経営者には冷静さが求められる。最悪の事態を避けるためには、「もう廃業するしかない」という限界点を事前に見極めておかなければならない。

経営者に限らず、一個人にも、そして国家にも、苦境のときこそ、この「限界点」の見極めは大切だと思います。

この日本という国では、なにしろ小学校の教師さえもが「ネバー・ギブアップ」を謳うぐらいですから、諦めることを決して良しとしない気分に満ちあふれています。でも、世界に目を向けたら、どうでしょう。「ネバー・ギブアップ」もあるのでしょうが、人々はもっと柔軟に、そしてしたたかに、苦境を生き抜いているのではないか。あまり根拠はないのですが、そう思います。

すくなくとも、1945年の「終戦」にいたる経緯をみるかぎり、「ネバーギブアップ」という美徳に隠された思考停止、判断の外部依存は決して賞賛されるものではない。生きのびるために、自分自身の頭で考えて行動する、それができない「ネバーギブアップ」などは悪徳の教えでしかない。

ぼくには、そう思えてなりません。