週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

「頑張り圧」という悪弊、頑張らないという戦略:提言「楽勝のススメ」

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まずは前回のおさらいから。

■「頑張り圧」とは

「頑張る」が美徳となってから、このコトバに刷りこまれたプレッシャーのこと。頑張らなければ、正しい姿であらねば、こうしなければ、という圧力のことを、ここでは「頑張り圧」と呼びます。

「頑張る」とは、自発的に「やる気」を出して何かに取り組むことです。ですが、所属する社会や組織が「頑張る」をデフォルト化、つまり、頑張ることがアタリマエとなってしまうと、もはや自発的な取り組みというより、義務的な行為となってしまいます。いっけん自律をよそおってはいるけれども内実は「頑張らざるをえない」、プレッシャーにおされた他律的行為となってしまいます。

同調圧力で強要された自己犠牲的な努力。自分らしさよりも、社会や組織が求める役割を果たすこと、期待に応えること。誰かのために(特定の誰かのため、ではなく、世間体とか、体裁とかのタテマエをとりつくろうため、という場合も含めて)献身的に努力する行為が「頑張る」の本質です。

頑張りには、「正しさ」が求められます。正しい目標に、正しく頑張る。それは、既存社会が設定した正解、あるべきモデル像を受け容れることが前提です。既存社会の価値観に基づき、そこで正解とされる規範を守り、求められた役割を忠実に遂行する=期待に沿うこと、それが、「頑張る」の、いま多くの場合に使われている意味です。

「頑張り圧」のある社会とは、ひとりひとりが自分で考え、判断し、自分らしく生きることよりも、あらかじめ定められた規範に忠実に生きることが求められる社会です。

■「頑張り圧」の歴史

もともと、「頑張る」は、自分のために頑張ることでした。我意を固執してゆずらないこと、共同体のなかで風変わりな自己主張をすることであり、共同体のまとまりのためには具合の悪いことでした(多田道太郎「頑張る」)。

桜の花の散り際のようにいさぎよく、清廉潔白、恬淡寡欲。ものごとに執着しないことを良しとした日本社会では、「頑張る」は、みっともない態度だと思われていました。ときにはその滑稽さを嘲笑するニュアンスもこめられていました。

「頑張る」が今のような意味で、美徳とされだしたのは、昭和にはいってからです。日本が欧米列強に肩をならべるために待望された、「舶来モノ」のメンタリティでした。そのお手本には、もっぱら、ナポレオンやエジソンといった欧米人が挙げられ、功利主義で、執拗で、手段を選ばない「頑張り」が提唱されました。当時は、結果を出すための頑張りだったのです。しかし、このコトバが流行語となり、庶民の間に深く浸透していく過程で、「タテ社会の人間関係」(中根千枝)と化学変化を起こして、変容していったようです。

昭和11年のベルリンオリンピックでアナウンサーが絶叫した「前畑ガンバレ」は、自分のため、ではなく、お国のためにガンバレ、でした。「お国の役に立つ、あるべき日本人像」が、当時の「頑張る」には込められていたのです。

日中戦争が泥沼して以後、太平洋戦争までの期間は、「頑張れ」の怒号が日本中を席巻。その過程で、当初の語義とは真逆の「自己犠牲」ファクターが「頑張れ」に刷り込まれていったと思われます。

「頑張る」は、戦後、貧しさから豊かさへと向かう人びとの合言葉、心温かい励ましのフレーズとして復活しました。戦後の焼け跡からの復興、そして高度経済成長。頑張れば、誰もが豊かになれる、日本は一等国になれる、そう信じられた時代。「頑張る」は、1970年代に黄金期を迎えます。人びとは、右肩上がりの時代の価値観を絶対視して、次の時代に継がせます。

1980年代からは、「頑張れば夢がかなう」などのフレーズが、さかんに使われるようになりました。2000年代に入り、多くの芸能人やスポーツ選手、経営者らがそのテの発言をしきりにするようになります。

いっぽう、1990年代初頭のバブル崩壊後、「頑張っても報われるとは限らない」職場が広がるとともに、鎌田實医師の『がんばらない』(2000年)を筆頭にした「頑張る」批判が、日本社会の一部に起こります。

そして現在、「頑張る」をめぐっては、支持派と批判派で、意見が対立している状況のようです。

以上、おさらいでした。ここから本論です。

■「頑張り圧」は変化を好まない

俳優の阿部サダヲさんはインタビューのなかで、

松尾さんには、『頑張るな』とよく言われていました。頑張りすぎていると、見ている松尾さんのほうが恥ずかしくなるらしくて。だから『心のどこかに、恥ずかしいことをしているという意識を持て』と。
週刊現代、2016.5.21

と語っています。松尾は、松尾スズキさんのことです。勝手に推測すると、役者さんがしなやかな演技をするうえで、「頑張り」は邪魔になるのでしょう。また、作家の椎名誠さんは、こう言っています。

「頑張れ」っていう言葉が大嫌いです。「かたくなに突っ張らかれ」ということですよね。全身に力をこめて、鬼のような形相で」
東京新聞2000.1.4朝刊

こんな形相で芝居をされたんじゃ、見る側も疲れてしまいますよね。

すでに書きましたが、元来、ものごとに執着しないことを良しとした日本社会において、美徳としての「頑張る」はそれとは真逆に、執着することを良しとするものです。それには、続けること、いまある状態に固執することに対する過剰な賞賛が込められています。

東京オリンピックの前年、1963年に放送されたTBSラジオ「飛び出すスタジオ」の、ある日のテーマは「がんばっているあなた」でした。「モーレツ」に頑張ってる受験生やサラリーマンが出てくるのかと思いきや、その内容とは、銭湯やタクシーなどの「値上げムードにさからって値上げしないでがんばる業者」に、その言い分を聞いて歩くものでした。

新聞、雑誌などの文献をあさってみると、この頃までの「頑張る」は、いま多く使われる「どこまでも忍耐して努力する」だけでなく、元来の意味の「我意を張り通す」や「ある場所を占めて動かない」の用例がしばしば見られます。これもそのひとつです。一心不乱に努力する、といったハードな行為ではなくて、何か一つのことを、あきらめずに続けることへの賞賛に、「頑張る」はしばしば用いられました。

前に書いた、

母が子に、おばあちゃんが孫に、「勉強でも何でも頑張りなさい。頑張ったら必ずいいことがあるから」と激励し、「頑張る」こと、続けることの大切さが、民間伝承のように語り継がれていきます。

というのも、地道にコツコツとやり続けることを良しとするものでしょう。

右肩上がりの時代ならそれでよかったのでしょうが、今のご時世ではそうもいっていられません。新聞には、「老親の商売 どうたたむか」と題した、こんな声が投書されています。

私たちの親は高度成長期に働き盛りで「真面目に働いていれば必ず報われる」と信じてきた世代だ。その精神は尊びたいが、〔略〕真面目な親たちは、もう行き詰っている商売でも、「今やめると他人に迷惑がかかる」と頑張り続ける。〔略〕最後の血の一滴まで振り絞って頑張ろうとする老親たちに、子はどんな言葉をかけたらいいのだろうか。
朝日新聞2017.8.28朝刊p10、吉田正太、47歳

「是が非でも会社を守ろうという経営者の頑張りが、逆に悲劇を招いている」と指摘される一例ですね(日経ベンチャー2001年11月号特集「廃業の限界点 頑張りすぎて人生を棒に振らないために」)。このような事例は、いま、全国そこらじゅうにあるはずです。

「頑張る」が推奨されはじめた頃。昭和6年の満洲事変以降の日本は、ひたすら頑張りました。国際連盟脱退、日独防共協定、日中戦争、日独伊三国同盟、そして太平洋戦争へといたる道は、日本が頑張りつづけた過程です。結果、昭和20年の敗戦を迎えました。

その歴史から学べる教訓は、「あまり頑張ってばかりいると、ヤバいかもよ」というものだったでしょうが、いっぽう、戦後の高度経済成長は、「頑張る」がやけにフィットしていましたので、庶民の間で定着していったのでしょう。

■「頑張り圧」が僕らの邪魔をする

「頑張る」を良しとする、昭和以来の伝統的な価値観は、いまを生きる僕らにとって、足かせとなっている場合があるように思います。その膠着性は、社会や組織のしなやかさ、柔軟性を阻み、思考停止や無責任体質を助長する風土を助長する大きなファクターとなり、日本社会の健全な成長を阻害する要因になっているのではないでしょうか。

さらにいえば、僕らは何かというと
「頑張ってるか」
「はい、頑張ってます」
といったやりとりを日常的に交わしていますが、「頑張ってます」と言っておけば許される、そんな甘さがありませんか?

肝心なのは、どう頑張ったか、です。やみくもに毎日15時間机に向かって勉強すれば志望大学に受かるというものでもありません。効率的に、戦略的に勉強しなければ、ライバルたちを出し抜くことはできないのではないでしょうか。

受験生を応援するイベントに招かれた「熱血」松岡修造さんも、「ガンバレの使い方が間違っている人は嫌い」とコメント。「根性論でガンバレ!というのではなく、具体的に方法論を教えることが大切」と語っています。

新渡戸稲造の教え「臨機応変に」

五千円券の肖像として知られ、日本最初の国際人ともいわれる新渡戸稲造は、「如何なる時に頑張るべきか」と題した文のなかで、こう記しています(昭和6年)。

一旦思った事ならば、目的も手段も決して変更しないと云ふことが、果して意志の強き謂であるか、若しさうなら融通も変通もきかない頑物ともいふべくして、頑張りの思はしはらざる方向である頑固なる性質のみに重きを置くことであって斯の如き人は「世の中は思ふ通りゆかぬものです」との嘆声を最も屡々放たねばならない哀れな愚物である。

痛烈な「頑張る」批判、とも受け取れます。

新渡戸はむしろ、「柔和極まる人にして、一旦決した事はジリジリと守り続けて、その目的に達するまでは如何なる障害があっても、失望せず、怒りもせず、泣きもせず、初志を貫かんとしてそれこそ百難千困の障害物にも耐えて進む」ことを良しとします。

「目的は高き理想に置くべくして、之に達する道筋は臨機応変に執るべき」であり、いかに度々方法を変えようとも、最初の目的を最後まで追求することこそが、ほんとうの頑張りではないか、というのが、その主張です。

「梃でも動かない頑強さ」や「是が非でも言ひ出したとなったら退かぬ」といった頑なな態度では、国際社会のなかで日本が伍していくことはできない、と考えていたのかもしれません。

目的に向かって、しなやかに努力する。自分の頭で考え、戦略をもち、臨機応変に困難を乗り越えていく。

いまや、頑張らないという戦略を、僕らは身につける必要があるのではないでしょうか、というのが、ぼくの主張です。

■まとめと提言:楽勝のススメ

二回にわたってお送りしてきた「頑張り圧」についての論考の最後に、とりあえずの提言などをならべておきます。皆さんの心に、何がしかひっかかるモノがあれば。

僕たち日本人はもともと、執着心がうすいので、頑張ることは苦手です。
無理して頑張っています。もしくは、頑張っているフリをしています。

頑張ったら必ずいいことがあるから、は、迷信です。
何事も達成するには頑張らなくてはならない、も、思い込みです。
頑張れば夢がかなう、は、頑張っても報われるとは限らない時代に出現したファンタジーです。

いつ頑張るか、何をどう頑張るかは、よく見極めましょう。
どうせ頑張るなら、勝つため、成果をあげるために、適切に頑張りましょう
どうせ頑張るなら、自分のため、大切な家族や友人、同僚や部下のために頑張りましょう。

かつて日本は、一心不乱に頑張った挙句にボロ負けした過去を持っていることを、思い出しましょう。
頑張って世界第二位の経済大国にまでのぼりつめたという自画像は、誤りです。最新の歴史経済学は否定しています。

一心不乱に頑張っているとき、思考は停止しています。もっと戦略をもって戦いましょう。
一心不乱に頑張っているだけの組織は、無責任体質です。頑張りを煽る上司は、無能です。
自発を強要する会社はブラック企業、自発を強要する社会はブラック社会です。

頑張るはときに、自主的思考、個人の自由な発想や行動を阻害します。
既存の価値観を疑いましょう。頑張れの連呼を疑いましょう。
ただ頑張っているうちは、ダメでしょう、日本社会は。

頑張りはときに、しなやかさと対立します。柔軟な発想、臨機応変に目標にたどりつく現実的な方策を、新渡戸稲造は推奨しています。世の中、そんなに思うとおりにはいきません。

続けることに過剰な望みは禁物です。決してあきらめない姿は、成功してこそ英雄で、失敗したら悲劇です。天国に向かっているのかそれとも地獄か、先をよく見極めましょう。

嫌なものは、嫌だといいましょう。
あるべき姿を、疑いましょう。正解主義を、疑いましょう。押しつけられる役割や期待を、疑いましょう。
「頑張り圧」はとりわけ高所から低所に向かいます。若者や女性、社会的弱者はとくに、気をつけましょう。
規定の価値観を強要する、無意味な頑張りは整理して、もっと楽しく生きましょう。

…と書いていったら、気がつきました。頑張り圧からの逃走で得られるもの。ひとつは、自分らしく生きられることで得られる楽しさ。もうひとつは、勝つための柔軟な戦略性。つまり、「楽勝のススメ」だということになりました。

■参考)「頑張る」に関する最新研究

同志社大学教授で組織論を専門とする太田肇氏は、『がんばると迷惑な人』(新調新書、2014年)のなかで「努力の質を犠牲にする“がんばり”に意味がないばかりか、有害になってきた」と指摘。

帝京大学准教授で社会学者の大川清丈氏は、『がんばること/がんばらないことの社会学』(ハーベスト社、2016年)のなかで、「「おたがいに頑張」っているわれわれ、いわば「頑張りの共同体(コミュニティ)」こそ、われわれを規制する共同体であったのではないか」と指摘。

これらの言説も参考にさせていただきました。

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