週刊:日本近現代史の空の下で。

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「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ

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前回を書いたあとに、ひとつの疑問が生じました。

「頑張り圧」は、いつ日本社会に定着したのだろうか。

多田道太郎が「頑張る」の考察をはじめて書いたのは、1970年11月23日に日経新聞に掲載されたエッセーです。

このことばを多用している。多用──いやむしろ乱用といってもよい。とりわけ若い人たちの手紙や会話には、一つや二つ、このことばが肝心のところで使われていないことはないといってよい。女の子は「頑張ってね」と言い、男の子は「おたがいに……を目ざして頑張ろう」などという。

1970年、すでに当時の若者の間で「頑張る」が乱用されていたことがわかります。

前回に書きましたが、1963年の段階では、元来の「我意を張り通す」の用例が見られます。また、大宅文庫で雑誌記事をみていくと、70年代に入っても、美徳とは思えない用例がしばしば見られます。

例1)1971年の「週刊新潮」→「まだ頑張っている阪大医学部不正入学者二人」

例2)1971年の「財界」→「なぜ“繊維”は頑張るのか/ニクソン大統領の政府間協定という強硬な申し入れにもかかわらず、繊維業界は頑強な抵抗を見せている」

この後は「がんばれサラリーマン」(アサヒ芸能、1972~1973年連載タイトル)といった感じで、いまの意味合いが主流になっていきます。美徳としての「頑張る」が日本社会にあふれ、つまり「頑張る」が日本社会でデフォルト化した、「頑張り圧」の定着時期は、70年代の初頭あたりと考えていいでしょう。いまから50年ほど前、ということです。

元の意味、美徳ではない「頑張る」が、1970年代に入ってからも使われていたことは、世代間の違いによるものではないかと思われます。1924年生まれの多田道太郎はこの頃、50歳前後。彼らが戦時中の「頑張れ」の怒号にも洗脳されず、戦後も元の意味、「いささか「悪い意味」」(多田)で使いつづけたのでしょう。

いまの「頑張る」を広めたのは、当時の若者世代、1947年から1949年に生まれた「団塊の世代」を含む、戦後生まれの世代なのです。

井上陽水が「東へ西へ」で「ガンバレみんなガンバレ」と歌ったのは1972年。まさにこの頃から、「みんな頑張る」時代が到来したのです。

時代背景についてざっくり述べておきます。

1968年、日本はGNPで世界第二位になったことが、翌1969年6月10日に経済企画庁が発表した国民所得統計(速報)で明らかになりました。ここから、日本人が「経済大国」の自負を持つようになります。すでに高度経済成長がはじまって15年。右肩上がりに豊かになる暮らしを、人々は実感していました。

この年、「モーレツ!」ということばが流行します。
石油会社のガソリンのテレビCMで、モデルの小川ローザが発した「オー・モーレツ!」です。子どもたちの間では、このことばをかけ声にしたスカートめくりなどが流行したそうですが、僕は当時4歳だったので、スカートめくりはやってません。ここから、組織の目的に迷わず突進していく「モーレツ人間」や「モーレツサラリーマン」などのことばも生まれました。

あ、高度経済成長中ずっと日本人がモーレツに頑張って働いてきたというのは勘違いです。「三丁目の夕日」や「スーダラ節」の時代の日本人は、当時、サラリーマンのあいだで「遅れず・休まず・働かず」といった合言葉が流行っていたように、さほど頑張ってはいませんでした。状況が一変するのは、1964年の東京オリンピックのあと。「根性」が流行し、「四十年不況」を境にして産業界に少数精鋭主義がうまれ、「猛烈社員」への称賛が生まれて以後のことです。

みんなでいっしょに頑張って、経済大国の座、豊かな暮らしを手に入れたという「成功神話」が、「みんなガンバレ」という思考停止社会を生み、その後、日本社会は、日本人は、「頑張る」といえば聞こえはいいけど実際は頑張るふりさえしときゃいいだろ的な実質他律依存的甘ったれなぬるま湯に浸かったままでバブル崩壊やら失われた何十年やらをずるずると過ごし70歳前後の団塊の世代はいまだに「みんなガンバレ」に埋没するかもしくは「気まぐれ」な日々を満喫するかで僕ら下の世代は次世代の価値観を確立できないでいる、ということではないかと思うのです。

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