週刊:日本近現代史の空の下で。

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情報求ム:ブルガリア首都ソフィアでソ連の対日参戦情報を得た「梅田」氏

Bulgaria

来年、ブルガリアの首都ソフィアに行く計画を立てています。観光ですが、戦時中のソフィアに、「梅田」を名乗る正体不明の人物がいたとの情報を知ってから、気になっていた地なのです。

戦時中、ブルガリア駐在陸軍武官秘書としてソフィアに赴任していたことがあり、戦後は広島県可部町で町会議員などをしていた、吉川光(きっかわ・あきら)という人物が、こんなことを書き残しています。

吉川氏は、1943年6月10日からソフィア赴任。ブルガリア三国同盟側についたもののソ連には中立を守った、とのことでしたが、1944年9月6日深夜、突如ソ連軍が武力進駐。その後、11月1日にイスタンブールに脱出するまでの間を、ソ連が包囲するもとで過ごしたといいます。

そのソ連占領下の出来事でした。

そのころ、ソフィアに「梅田」と名乗るただ一人の日本人がいた。日本の竜谷大学卒業の僧侶で、自費留学中戦争で送金が不能となり、朝日新聞の通信員であると自称していた正体不明の怪物で、日本公使館筋は反間諜者の疑いありと敬遠し、日本軍部からも要注意人物として接触せぬようにと注意があった。しかし私にはいか物食いの性癖も手伝い、また放浪の日本人として興味と同情もあって彼と内密に交際し、若干の物質的援助もおしまなかった。10月末のある夕方、彼からの電話呼び出しで公園の一隅で密接した時のことである。彼は突然私の耳許に口を寄せてささやいた。「ドイツ降伏後三ヶ月以内にソ連は対日参戦する」と。その情報入手経路は休暇で帰省した駐米フィンランド公使館二等書記官ラムステットから聞いたとのことである。ラムステット書記官の父は、初代の駐日フィンランド公使で日本語をよく話し日芬協会会長の親日家で私も面識があった。この情報は実は、そのころ日本参謀本部が目の色を変えて捜し求めていたテヘラン会議の内容であった。

吉川氏はその内容を武官の清水大佐に伝え、「確度丙で日本へ打電した」ものの、日本からは何の反応もなかった、としています。確度丙というのは、低確度、つまり、あまり確かではない、ガセネタかもしれない、という意味です。

この回想の真偽も不明ですが、当時の世界各地において、各国のスパイたちが、虚実さまざまな情報交換をしていたであろうこと、そして、その諜報戦に日本の陸海軍武官らも加わっていたこと、などは、拙著『終戦史』に、判明したその一端を書きました。軍が雇った民間スパイがいたという話も聞いたことがあります。

とりわけ、ブルガリアのような小国、立地上、大国にその運命を左右され翻弄されてきた国では、さまざまな奇奇怪怪な駆け引きが、歴史上繰り返されてきたのではないか、そんな歴史の雰囲気を、現地に行って、体感したいと思っています。

この「梅田」氏についての情報提供を、求めています。ご遺族の方など、おられましたら、是非ともお話をお聞かせいただけませんでしょうか。

フォームメールか、masato.yoshimi@gmail.com(@を半角にしてください)からご一報ください。ご連絡をお待ちしております。

参考資料:吉川光『「民族協和」の満州国─元関東軍将校の従軍記』(靖国偕行文庫392.9G国)

※吉川資料の存在については、数学史家・木村洋氏から教えていただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。