週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

あきらめるのは良いことです:「絶対に諦めない」と「一億玉砕」

朝日新聞「声」の欄に、「「あきらめる」のは悪いこと?」と題した一文が載っていました。投稿したのは、千葉県在住の高校生、矢板祐樹さん。

たいていの日本人は、あきらめることが苦手だと思う。「あきらめずに頑張る」のが良いこと、美しいことだと幼い頃から教えられ、頭に植え付けられている。そんな感覚が僕の中にもある。しかし逆に、あきらめるのは大切なことだと僕は思う。
「あきらめる」と「投げ出す」は、大きく違うと思っている。投げ出すのは、物事を途中で放り出すこと。あきらめるのは、物事に全力で取り組む中で自分の限界を見つけて区切りをつけること。これなら、そんなに悪いことではない、と思えないだろうか。
あきらめずに頑張って、達成感や幸福感を得られる場合もあるだろう。しかし、「絶対あきらめない」と自分を追い込み、不幸な結果を招いてしまう人もいる。その前に、気持ちに区切りをつけることも必要なはずだ。
朝日新聞2018年2月23日16面)

だいたい、その通りです。ただし、冒頭の「たいていの日本人は、あきらめることが苦手」というのは、違います。

たいていの日本人は、逆に、あきらめやすく、実は頑張るのが苦手なのだと、僕は思います。ぶっちゃけ、自分の周りを見渡してみて、「絶対あきらめない」と猛烈ファイトをかましてる、暑苦しい人は思い当たりません。だいたいみんな、あきらめて生きてます。そうですよね?

じゃなきゃ、人気職業ランキング上位のサッカー選手だとかお菓子屋さんだとか何だか知りませんがそういう職につけなかった人たちがそれでもあきらめずに高齢になっても挑戦し続けてるはずですけど。

あきらめの悪いやつは、いるでしょう。ふられた女をしつこく追いかけるだとか、過ぎた失敗をぐちぐちいい続けるとか。でもそれは、「あきらめずに頑張る」姿ではありません。「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった」とかにも書きましたが、ぼくら日本人はもともと、「あっさりしたこと、潔いことを好む」のであって、あきらめの悪いのをカッコ悪いと思っているのです。

ではなぜ、「あきらめずに頑張る」のが美徳とされているのでしょう。

それは、それが日本社会の大前提的な建前だからです。日本は「あきらめずに頑張る」価値観がすみずみにまで行き渡った社会であるとの「フリ」を、みんなでしているからです。

「絶対にあきらめない」だとか、「最後まで頑張る」だとかの勇ましいフレーズを、額面通りに受け取ってはいけません。ブラックな職場では日常用語かもしれませんが。

これと似たような言葉が、昭和20年の終戦前にも、日本国内でしきりに叫ばれていたことをご存知ですか?「一億玉砕」ってやつです。これを、「一億玉砕はありえた」などと、もっともらしく語る人もいるのですが、ありえません。どうやったら一億人が玉砕できるのですか?指揮命令系統はどうするんですか?最後はぐちゃぐちゃの大混乱に陥って戦争どころじゃなくなってしまいます。国家崩壊です。

当時の「一億玉砕」というのは、一種の「気合スローガン」でありまして、「一億玉砕のつもりで」とか「一億玉砕の覚悟で」とかって感じに、いわゆる「不退転の心構え」をあらわしたものです。

「絶対に諦めない」とか「最後まで頑張る」とかも、それと同様で、ほんとうに最後まで諦めずに頑張るということではなく、あくまでもそうした決意、心構えをあらわしたもの。諦めるときは諦めます。ですよね?

「一億玉砕(のつもり)の精神」は、いまも形を変えて、この日本社会に、根強く残り続けています。

「あきらめる」のは、良いことです。為末大氏の『諦める力』には、全力を尽くして全うするという考え方が強い日本人に対し、欧米では「引退が非常に軽い」ことが書かれています(p75とか)。今後、グローバル化が進むとともに、こうした日本独自のガラパゴス的な価値観はどんどん消えていくでしょう。若い人たちは、そんな古臭い価値観にとらわれることなく、どんどんあきらめていってください。

※これは、この前の「1970年代試論:「みんなガンバレ」の時代」に追記した文章をもとに書き直しました。