週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

終戦の教訓:理想と現実が乖離したとき、日本人は思考停止する

昭和19年7月から昭和20年8月までの一年間は、アメリカらを相手に、勝ち目のない戦争を続ける日本にとって、理想と現実が日々乖離していく、アンビバレントな一年間でした。

軍事面では特攻作戦が、外交面では対ソ工作が行われました。いずれも、後世からすれば「無茶」の一言ですが、やってる当人たちも、それはよくわかっていました。無条件降伏ではない、話し合いの講和にもとづいた戦争終結という「理想」は、アメリカ軍の予想を上回る速度での進攻に追いつけず後手後手に回らざるを得ない日本にとって、そして、唯一の「中立」大国である(しかしかつての仮想敵国である)ソ連に頼らざるを得ない日本にとって、日々遠くなる一方でしたから。万に一つの僥倖。それが当時の日本の唯一の望みでした。

この一年間の日本、日本人のふるまいは、大いに今後の参考になりえます。

理想と現実が乖離したとき、僕ら日本人はどうふるまうのか。

…要は、僕ら日本人は、考えることをやめてしまうのです。

問題なのはこの「一撃」の現実性であった。とりわけ、この時点において海軍の戦力はほぼ尽きかけており、有効な「一撃」を加えることはまず不可能な状況にあった。末澤にとって「戦果」とは、和平案を海軍省内で通すための「枕詞」にすぎなかったという。戦局は日に日に悪化、それにともなって条件付和平への渇望が高まるのに反し、その実現はますます困難となっていった。「一撃」はいわば彼らの合言葉であったが、それはいつしか単なる目標、もしくは願望にすぎないものと化していた。当時の日本が、こうした理想と現実との甚だしい乖離のもとにあったことは、終戦史を理解する上で重要なポイントである。
~拙著『終戦史』p141

 104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」」で、篠田さんが、「やるとなったら徹底的」の西洋人に対し、日本人は「何とかなるさで、その何とかっていうのに任せちゃってるみたい」と語っています。

当時、少なからぬ日本人が、最後は「神風がなんとかしてくれる」と思っていた、という話があります(←出典確認省略)。これもおそらく、日本人の「何とかなるさ」思考によるものでしょう。

徹底的に、かつ、合理的に思考をめぐらし、自力で困難な局面を打開しようと当時の日本人が考えたのであれば、違った終戦の形があったのではないか、いや、そもそも、開戦そのものがなかったのではないか、そんなふうにも思います。

僕らは、本当に困ったとき、考えることをやめてしまう。それが、73年前の終戦が僕らに残した、いちばんの教訓ではないでしょうか。