週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

ハリルホジッチの発言から:日本人の歩みが遅いのは「従順ファースト」だから。

サッカー日本代表の監督を解任されたハリルホジッチ氏が、クロアチアのスポーツ紙に語った内容が興味深い。

ハリルホジッチ氏がクロアチア紙に語った本音 「日本人の歩みは遅い」 - ライブドアニュース

経済的に世界で最も強い国の一つとして、かつ安定した国として、日本はサッカーにもっと投資しなければならないと私は口酸っぱく言ってきた。多くの日本より貧しい国、小さな国が、ある点で先に進んでいる。日本人の歩みが遅いので、私は彼らに注意してきた。若い選手の育成から、その先のことも……。

ハリルホジッチが目指したのは、おそらく、フツーに世界標準のサッカー。彼からみたら、日本のサッカーは遅れている。もちろん、昔からみれば、海外で活躍する選手も増えたし、Jリーグの試合の質も上がっているはずだけど、たぶん、世界のサッカーの進歩はそれを上回っているのだ。

なぜ?

それは、僕ら日本人はついつい安住してしまうから、ではないだろうか。個性や自主性を押し殺し、社会や、帰属する集団が求める、既成の価値観に自分を合致させたところに。

最近の研究によれば、中世・近世の日本で頻発した「一揆」とは、その本質は「共同意思」であり、「心を一つに」とか「一致団結」という意味合いであるという。日本人は外部に訴えかける方法を工夫するより、集団内部の意思一致の方法を工夫していたともいう。その内向きな性向は明治以降も継承された。それを象徴するのが、「がんばる」という言葉の隆盛だと、僕は思う。

「がんばる」には、我慢する、とか、耐え忍ぶ、といったニュアンスが、好意的に込められている。これは、個性を発揮するよりも、個性を封じ、社会的に忍従することを善しとする価値観の反映だ。「がんばり」を重んじることは、社会が求める既成の価値観を優先することにつながる。親や教師、先輩や上司といった目上の者が求める、「良い子」的なありよう、各自の個性よりも「みんなで」がなにより大事な価値観、変わることを良しとしない保守的かつ他律的なあり方を示している。

日本人の歩みが遅いのは、変わろうとしないからだ。ラグビー日本代表のヘッドコーチだったエディ・ジョーンズは、日本には「変化を嫌う人がいる」と発言していた(朝日新聞20151031朝刊p25)。

日本のラグビーは本領を発揮できてないと常に思っていて、日本には優秀な選手がたくさんいます。けれども日本のラグビー文化は、パフォーマンスをするというところではありませんでした。高校、大学、そしてトップリーグチームまでもがそういう文化です。高いレベルでパフォーマンスをするための練習をしていない。規律を守らせるために、従順にさせるために練習をしているだけなので勝てない。[link]

頑張ってさえいれば許される、いわば「従順ファースト」な内向きな文化に、私たちはすっかり染まり、安住してしまっているのではないか。「勤勉な国民性」などという、近現代の創作のなかに、逃避しているのではないか。

「チームが一枚岩になれば勝てるほど、W杯は甘くない」と、ハリルホジッチ解任を伝える紙面で朝日新聞の藤木健記者は書いた(20180410朝刊p21)。「ひとつになろうニッポン」的キャッチフレーズが愛用されるこの国では、「一揆」と同様、「心を一つに」とか「一致団結」とかが重視されるが、それでは世界には通用しない。平昌五輪で銅メダルを獲得した女子カーリングチームは「1つのカラーに染まるのではなく、5色のカラーで1つのチーム」で戦ったし、選手団主将の小平奈緒選手は結団式で「百花繚乱」という言葉を掲げた。世界で戦うにはまず個の強さが求められる。これまで日本人が「がんばれ」という美辞麗句(?)のもとで押し殺してきた、個性や自主性が必要なのだ。

日本人が世界で活躍するには、逆説的だが、日本人を卒業し、頑張らないことだと、僕は思う。

※この記事の元になったのは↓です。

「がんばる」と「一揆」、日本人の内向きな志向性 - うにゃにゃ通信