週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

元号をやめれば、日本は変わる。もっと生きやすい国になる。

戦後占領期の昭和25年5月。日本学術会議吉田茂首相らに対し、元号廃止の申入をした文書が残っています[link]。理由に、以下3点を挙げています。

1.科学と文化の立場から見て、元号は不合理であり、西暦を採用することが適当である。〔以下略〕
2.法律上から見ても、元号を維持することは理由がない。元号は、いままで皇室典範において規定され、法律上の根拠をもっていたが、終戦後における皇室典範の改正によって、右の規定が削除されたから、現在では法律上の根拠がない。もし現在の天皇がなくなれば、「昭和」の元号は自然に削減し、その後はいかなる元号もなくなるであろう。今もなお元号が用いられているのは、全く事実上の惰性によるもので、法律上では理由のないことである。
3.新しい民主国家の立場からいっても、元号は適当とはいえない。元号天皇主権の一つのあらわれであり、天皇統治を端的にあらわしたものである。天皇が主権を有し、統治者であってはじめて、天皇とともに元号を設け、天皇のかわるごとに元号を改めることは意味があった。新憲法の下に、天皇主権から人民主権にかわり、日本が新しく民主国家として発足した現在では、元号を維持することは意味がなく、民主国家の観念にもふさわしくない。

学術会議の言い分(とくに「3」)は、言われてみれば確かにもっともです。なお、wikiでは、こう書かれています。

第二次世界大戦敗戦後に、日本国憲法制定に伴う皇室典範の改正をもって、元号の法的根拠は消失した。しかし、官民関わらず「昭和」の元号が使用され続けた。〔略〕1950年(昭和25年)2月下旬になると、参議院で「元号の廃止」が議題に上がった。〔略〕
しかし、1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまり、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けている。一方で、皇紀神武天皇即位紀元)に関しては(文化的な場での使用を除き)公文書でも使用されなくなった。
その後論争を経て1979年(昭和54年)に元号法が制定された。これは昭和天皇高齢化と、1976年(昭和51年)当時の世論調査で国民の87.5%が元号を使用している実態に鑑みたものである。元号法では「元号皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、明治以来の「一世一元の制」が維持された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至っている。[link]

こないだテレビ番組で元号のことをやってました[link]。それによれば、いま元号を使っているのは日本だけなんだそうです。日本を除く世界のあらゆる国で元号を使用していない、ということは、少なくとも、元号がなくても人間はまったく困らない、ということです。じゃあ、便利か、というと、さほど便利とも思いませんし、むしろ面倒くさいことのほうが多い気がします。

僕ら日本人だけが、何故にこんなことをしてるのでしょう。

感覚的には、元号とは、時代を括るキーワードだ。逆にいうと、僕らが、元号で括られた時代性のなかを生きているということでもある。この、元号で括られた時代性は、天皇によって規定される。いまは天皇主権・天皇統治ではないけれども、僕らが元号のもとで生きているということは、憲法第一章第一条、

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

のとおり、天皇を「国民統合の象徴」とする「日本国民の総意」を、僕らは有しているということでもある。つまり、僕ら日本国民は「統合」しているべき存在、「総意」をもつ存在として、憲法第一章第一条に位置づけられていることになるのだが、これって、大丈夫か?

統合とか総意って、「みんなで一致団結」至上主義の名残ではないのかと、僕は思うのだが(参照:「「みんな」の時代から「百花繚乱」の時代へ(TOKIO山口達也と財務省事務次官セクハラ) - うにゃにゃ通信」)

で。

本当は憲法改正して、この第一章第一条の規定を変える、というか、天皇制をこの際すっぱりとやめてしまえば、衝撃的に日本は変わって「普通の国」になると思うんですが、そこまでしなくても、元号を廃止するだけで、僕らの(無)意識は、たぶん劇的に変わる。

「誰かを頂点にしたピラミッド構造すなわちヒエラルキー」の社会、「業界の天皇」やら「官僚の天皇」やらが従順な人々を実質支配する、堅固な権力構造から、もっと、ゆるやかな繋がり、自分らしさを惜しみなく表現できる「百花繚乱」の時代に、社会全体が変わっていくのではないか。

元号、もうやめませんか?