週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

僕らは暫定的日本人。

「次はこれまでの「頑張る」論考を整理してみたいな」と書いたのですが、考えていくと、どうやら次の「仮説・じつは「まぼろし~!」の日本人」と重なってしまうようです。

まだしっかり整理する時間がないので、以下ざっと、歴史的経緯を書きます。雑ですみません。

まず、日本人が「日本人とは何か?」をまじめに考えはじめたのは、昭和に入ってからのことです。最大の要因は、左傾思想の流行です。若いモンが共産主義という輸入モノの思想に次々とカブれ、泡食った政府らは、左傾思想排撃のカウンターパンチとして「日本精神」なる思想を、急ごしらえします。

このときはまだ、「日本精神」とは看板だけで、中身がありませんでした。そもそも、「元来からの日本的な精神」なのか「日本が獲得すべき精神性」なのかも、明確ではありませんでした。

その後、「日本精神」は国策として「日本が獲得すべき精神性」に一本化されましたが、同時にそれは、「元来からの日本的な精神」と同一であるとのご都合主義的解釈がなされました。

まあ、この2つが一緒であったほうが、何かと便利です。

というわけで、「元来からの日本的な精神」が一気に持ち上げられることとなります。そしてそれが、天皇制(って、安易に言ってはいけないのだけど、すみません)と結びつきます。

当時の日本は、欧米列強に対峙しようと、必死でした。彼らと対等に立ち向かうために、肉体改造ならぬ、精神改造が是非とも必要であると、当時の日本人(の、エライ人たちその他)は考えたわけです。

その頃から、「頑張る」という美徳が叫ばれはじめました。「頑張る」とは、究極的には、お国のために頑張ることです。個人の欲望とか、幸せとか、そんなことよりも、お国のため、日本社会のため、帰属集団のため、自分を犠牲にして「頑張る」ことが、求められました。それこそが日本人の真の姿だとも言われました。

実際のところ、そんなことはないんですが。。。

しまいには、個人の生命すら、お国の犠牲に差し出すことが美徳とされました。それが戦争末期の特攻です。

日本における特攻とは、単なる自殺攻撃ではありません。欧米列強に対峙するための国策、精神改造の究極の姿なのでありまして、ここまでくりゃ、怖いものなんて何もないさ、なわけです。

で、負けました。

が、精神改造は止まりません。戦後日本教育界に導入された「新教育」は、軟弱であるとして、負け戦を懸命に戦った大人たちの手で葬り去られ、旧来さながら、もしくはより強烈な精神改造主義、「しごき」や「根性」で席巻されます。

おそらく、日本的なタテ社会の集団主義が、そうさせたのでしょう。若輩者は年長者にことごとく服従しなければならない社会です。実際の成果よりも何よりも、年長者への従順を示すことが、日本社会の集団では優先されます。

運悪く、戦後の高度経済成長が、この精神改造の定着剤の役割を果たします。なんしろこの時代、考えるよりロボットのように言うなりに働いたほうが稼げました。みんな一丸、「火の玉」となって遮二無二働き、おかげで給料は毎年上がるという夢の時代、その成功体験が精神改造をデフォルト化させました。

昭和初期から昭和20年の敗戦までの間は精神改造が「孵化」する役割を果たしましたが、この間は成功体験はなかったので、やはり、戦後の高度経済成長期こそが、孵化期に思い描いた「日本人」が誕生したときだったのでしょう。

「日本人」は、こうして、戦後に誕生しました。

そして今。ピョンチャン五輪では、選手団主将の小平奈緒選手が結団式で「百花繚乱」という言葉を掲げたのは、記憶に新しいところですが、この「百花繚乱」という、それぞれの個性、自分らしさを尊重する思想は、高度経済成長期に誕生した「日本人」の、タテ社会のなかで目上や集団にひたすら奉仕するという姿とは、かけ離れています。

僕らは間違いなく、日本国に住む、日本列島に住む、日本人という人種に間違いはないのですが、しかし、日本人というアイデンティティが誕生したのは、長くてもせいぜい明治以降の150年、狭義には、昭和にはいってからの100年足らずのことなのです。

頑張れ、頑張れと、自らを叱咤激励し続けて、戦争にはボロ負けしましたがその後の経済戦争で大国の地位にまでのぼりつめた日本ではありますが、「頑張れ」にインクルードされた、一種の敗北主義思想では、世界で戦ってはいけません。日本人らしさ、など、ハリボテな概念にすぎません。

僕らは、アイデンティティ的には「暫定的日本人」にすぎないのです。そんなハリボテなど脱ぎ捨ててしまおうぜ。

(2018-06-24 16:58全面改訂)