週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった

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日本人とは、何でしょう。

日本のはじまりを、かりに、農村社会が成立した弥生時代からとすれば、およそ2千年以上前となり、長い歴史があるわけですが、日本人が自分自身を日本人だとする自意識が生まれたのは、つい最近のことです。

司馬遼太郎は、幕末には「日本人は実在しなかった」と書いています。薩摩人や長州人、土佐人はいたが、日本人という自意識をもつのは、坂本竜馬ただ一人であったとしています(『竜馬がゆく(三)』文春文庫、1975年p217)。坂本竜馬だけだったかはともかく、日本人に日本国民の自覚が芽生えたのは、明治期もなかばを過ぎ、日清戦争のあたりからだったとする説があります(『日清・日露戦争をどうみるか』(原朗、2014年)p77)。当時、多くの日本人は、徳川家康のことは知っていても、明治天皇のことはあまり認識していませんでした。自分たちの国=日本が、隣の大国=清と戦うということを通して、国民意識が生まれ、定着していきます。日清戦争によって日本国民が誕生した、ともいえるわけです。

では、日本人の自覚をもった日本人は、自分たちのことを、どんな国民だとみなしたのでしょう。

僕らがいま、日本人らしさを問われて、すぐに思い浮かぶのは、たとえば「勤勉」とかでしょうか。勤勉さ、つまり、仕事や勉強などに一生懸命に励む性質は、伝統的な日本人気質であるとか、国民性の特長であるとか、世界的にも有名であるとか、ざっとぐぐるだけで、いろいろと出てきます。

はたして、本当にそうでしょうか。

大正末の小学校六年生用国語読本に掲載された、「我が国民性の長所短所」には、こう書かれています。

狭い島国に育ち、生活の安易な楽土に平和を楽しんでいた我が国民は、とかく引込み思案におちいり易く、奮闘努力の精神に乏しく、遊惰安逸に流れるかたむきがある。温和な気候や美しい風景は、人の心をやさしくし、優美にはするが、雄大豪壮の気風を養成するには適しない。
〔略〕
あっさりしたこと、潔いことを好む我が国民は、其の長所として廉恥を尊び、潔白を重んずる美徳を発揮している。しかし其の半面には、物にあき易く、あきらめ易い性情がひそんではいないか。堅忍不抜あくまでも初一念を通すねばり強さが欠けてはいないか。
(『尋常小学校国語読本巻一二』1923年、南博『日本人論』2006年p88からの抜粋)

こうした短所を挙げたうえで、「之を補って大国民たるにそむかぬりっぱな国民とならねばならぬ」としめくくられています。

奮闘努力の精神に乏しく、遊惰安逸に流れ、飽きやすく諦めやすく、一念を通す粘り強さに欠けた国民性って、勤勉とはまるで相容れない気質です。ちなみにこれ、いまから94年前、関東大震災の年(大正12年、1923年)のものですが、昭和のはじめごろにかけて書かれた日本人の気質は、大概がこんな感じです。

『逝きし世の面影』(渡辺京二)で描かれる、幕末期に訪れた外国人が見た、のんきな日本人の姿とも符号します。日清・日露の両戦争、そして第一次世界大戦を経て、大国意識が生まれていたとは言っても、幕末から半世紀以上、日本人は割とのんきに過ごしていたのです。

ところが、満洲事変(1931年、昭和6年)のあと、日本人像は大きく変貌していきます。

文部省は満洲事変の翌年、国民精神文化研究所(精研)を設立します。ここで重要になってくるのが、「日本精神」(国民精神)というキーワードです。ちょっと長いのですが、当時の新聞に掲載された、国民精神文化研究所長・粟原謙氏の、「わが国民精神文化研究所の使命」という談話を紹介します。

 かの世界大戦は有史以来の大事変であり、政治上、経済上、思想上、世界各国に多大の影響を与えたが、我国ももとよりその波動を免るることは出来なかった、しかしてその最も憂うべきは左傾思想の伝播であった。かの大逆事件以来一時全く影をひそめて居た社会主議者等も、この大戦を契機として再び活溌な活動を開始したのであった。
 則ちマルキシズム、レーニズムの如き左傾思想が我が国において異常な流行を見るに至った、左傾思想の理論、文芸に関する出版物の多きこと恐らくロシアを外にしては世界中日本に及ぶものはないであろうとは、欧米を旅行したもののしばしば口にするところである。唯物的極左思想は、一面においては労資の争いに乗じて危険な極左的実際運動となって現れた。そして左傾思想は労働者のみならず、学生等の間にも恐ろしい勢いでひろがり、我が一般社会は少なからず不安におそわれた。
 しかのみならず、一般に国民は久しく外来の学問文化に馴れ、その個人主義思想、唯物思想に浸潤せられて我国固有の文化は、殆んど閑却せられて、極左思想に乗ぜられ易き間隙を多分にもって居た
 かかる時勢に鑑み、現時盛んに行われて居るマルキシズムに関し十分なる批判を加え、その欠陥を明にすると共に、又大いに積極的に我が国固有の文化を研究し、その外国と異る美点、特色を究明し進んで我が国独自の学問文化を発揚して漫りに外国のそれに心酔するの弊風を矯むるの急務なることは、識者の等しく痛感する所であった。この時勢の強い要求に応じて生れたものが、我が国民精神文化研究所であって、この研究所こそは、我が国民が従来有すべくして有せざりし国民精神指導の重大なる役割を果す為の機関である。
 我が国は古来皇室を中心に家族的発展をなし、君民の結合の鞏固なること世界に比類なき国柄である。二千六百年の歴史を通じて現れている我が日本精神、我が国体の優秀さに就いては、国民の等しく信じて居るところであるが、従来それが遺憾ながら学問的に体系づけられて居なかったように思われる。
 現下の社会情勢には幾多の解決さるべき、改革さるべき問題がある。それに対し何等かの活路を見出さんとの欲求は、真面目に社会情勢に対し目を注ぐものの等しく懐くところのものであろう。しかもそれらは文化の本質を異にする外来思想によりて満さるべきものでなく、真に我が国独自の文化により、我が日本精神により、我が国柄に最も適したる方策によりてのみ満さるべきものであることは、我々の疑わざる所である。
 我が国民精神文化研究所はこの点に鑑み、その事業の一として国民精神文化の学理的研究を行わんとするものである。左翼思想の非なることはいうまでもないが、それが対策は取締のみをもってもとより十分ではない。思想的にもこれに対抗するに足る日本精神の学問体系が確立されなければならぬ研究所はそれが為め、先ず熱心な研究の第一歩を踏み出して居る。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・中外商業新報 1932.12.2(昭和7) 思想問題(6-149))

当時の日本は、左傾思想、共産主義が流行しており、文部省は大学生の「赤化」問題に頭を悩ませていました。国民精神文化研究所の設置の目的は、外来思想である共産主義に対抗するため、我が国の独自性=日本精神を「闡明」し、「マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設」をするため、でした(辻田真佐憲『文部省の研究』2017年p101)。

「闡明」(せんめい)とは、それまではっきりしなかった事を明らかにすること、です。

日本精神ということば自体は、前述の国語読本の翌年、安岡正篤が『日本精神の研究』を、そして大川周明が『日本精神研究』(第1~7巻+別冊)を著していましたから、すでに存在はしていました。ただ、これまでの日本精神は「大和魂」の別称といった意味合いで、抽象的な概念といえるものでした。日本人としての自覚が芽生えた日清戦争(1894~1895)からまだ半世紀も経っていないのですから、はっきりしなくても当然なのですが、日本政府は迅速な対応を迫られていました。

内務省警保局は昭和8年4月、思想対策の根本策として、「建国精神(日本精神)の確立と精神運動の作興、右のため特に古典の研究を盛ならしむること」をはじめとする7項目にわたる題目を決定。つづいて8月、政府内に設置された思想対策委員会が、思想善導方策具体案について閣議で説明し、承認を得ましたが、その内容は、「積極的に日本精神を闡明しこれを普及徹底せしめ、国民精神の作興に努むることをもってその根幹となすも、一面において不穏思想を究明してその是正を計ることまた緊要なりと思慮せらる」となっています。文部省はそれを受けて10月、各地方庁に、思想善導機関である思想問題研究会の設置を促す通牒を発しました。

こうした政府の動きと歩調をあわせるように、民間の言論も活発になります。たとえば、新潮社は同年11月から、『日本精神講座』全12巻の刊行を開始します。第一巻の巻頭には、「日本精神に還れ!!」というスローガンが掲げられ、「日本は国際連盟脱退を機会として、欧米追随の時代から完全に離れた。日本は今後、独自の道を正しく、勇敢に歩むべきだ」との宣言がなされます(南博『日本人論』2006年p183)。

ちなみにこの年の3月、日本は国際連盟脱退を通告します。国際連盟総会で松岡洋右率いる日本代表団が議場から退場したことはよく知られていますが、帰国した松岡は、国民に対し、「国民は安易な気分で生きていてはならぬ、日本精神に目覚め我等の行くべき道を真につかんで、真っしぐらに進まねばならぬという事だ、お互いに非常時の意識をもっとはっきりさせねばならぬと思う」との所感を述べています(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・報知新聞 1933.4.28(昭和8) 外交(125-144))。

松岡はここで、「非常時」と言っています。その後の日本で盛んに使われる言葉です。「非常時」と「日本精神」は、まさに松岡が訴えたように、密接な関係にあります。この「非常時」を理由にしたプロパガンダに、僕らはこれからも、気をつけなければなりません。

ともあれ、日本精神は赤化対策という国内問題のみならず、満洲事変後、国際的に孤立を深める日本国が依拠すべきメンタリティともなっていきます。このように、日本精神の確立とは、ソ連の共産思想、そして、欧米の民主主義にものみこまれまいとする動き、我が国のオリジナリティを確立しようとの模索でしたが、重要なのは、それがあくまでも相対的な模索だったこと、そして、「国民性は造られるべき」との考え方に立脚していたことです。

大川周明は昭和5年、「日本精神及日本思想に就て」と題した海軍大学校での講演で、「百姓でさへも理想を以て進めば此通りの歩み方をし、此通りの発展をするのであります。若し日本の総ての階級の人に、斯う云ふ昔ながらの日本の理想が復活して来たならば、日本は非常に立派な国になって、天業恢弘の理想を実現する事が出来ると思ひます」「正しき指導者が世に立って、日本的理想を掲げて日本国民を率いるならば、日本国民は確かに偉大なる国民となり、確かに偉大なる仕事を為して、真に世界史の新しい頁を書き初める事が出来ると思ひます。私はさう云ふ時代の来ること、さう云ふ指導者の現はれる事を、日々夜々祈って居るものであります」と、日本精神はいわば日本人としての「理想像」であると主張しました(防衛研究所所蔵・⑦教育-学校ー01-96)。

日本史学者の津田左右吉も、「日本精神はこうであるべきであるという主張」だとし、日本思想史家の伊藤千真三は、「国民性は造られるべきもの」だとの考えが一般に広まり、各国ともに優秀な国民性をつくることに注目している、としています。(南博『日本人論』2006年p187、190)

つまり、「日本精神」が掲げた日本人像とは、生来の日本人らしい気質ではなく、むしろ、元来の日本人らしさから、目指すべき日本人像への「変身」を強要するものであり、なおかつ、ここで提示された「あるべき日本人像」とは、いわば官製の理想像、お国の役に立つモデル像であって、その実現に向け、国をあげての「自分さがし」運動が展開されていた、ということになります。

そして、いま僕らが「日本人らしさ」として思い浮かべる「勤勉さ」とは、まさに、当時の国家が国民に要求した「あるべき日本人像」の資質であり、それが戦中・戦後を通して、僕らに刷り込まれたものだということができます。

昭和11(1936)年といえば二・二六事件ですが、この年の12月、坂口安吾は「日本精神」と題した文章を新聞に掲載します。

 ヨーロッパ精神は実在するか、また実在するとせば如何なるものがそれであるか、といふことが西洋の思想界でもだいぶ問題になつてゐるといふことで、私もヌーヴェル・リテレールのアンケートで同じ質問の解答を読んだ記憶がある。ヴァレリイとかロマンローラン、クロオデル等といふフランス文壇の大御所達が顔を並べて答へてゐたが、個々の意見は記憶にない。概してヨーロッパ精神はすでに実在しない。実在するとせば世界精神としてゞあらうといふ意見が多いやうに思はれた。
 このことは我々にも常識的に考へられることであり、また常識的ならざる立場からでも一応は否定できないことであつて、今日ヨーロッパ精神を指摘することは難しい。
 同様に我々の立場でも日本精神を独立した形において指摘し把握することは、今日はなはだ難事である。日本精神も今日では必然的に世界精神に結びついてゐる。また結びつかざるを得ないのである。
〔略〕
青空文庫

「外国かぶれをすること自体が日本精神の一特質であるのかも知れないのである。これは冗談や自嘲ではない」と、皮肉まじりにしめくくられています。坂口安吾は「巷に横溢する日本精神」(昭和10(1935)年3月19日朝日新聞「鉄箒」)が、腹立たしかったのでしょう。

日本人だなんだという前に、おれはおれだ、と。

(後編につづく)

※後編をかく前に、「104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」」を書きました。