週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

「頑張る」は日本人に固有の民族性ではなく戦時中の刷り込みです

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これまで「頑張る」というコトバがどのように使われてきたか、過去の文献からたどってみました。

■昭和6年:人生の競争に、遊戯ではない真剣な生活事業の競争に、誰が『頑張れ、頑張れ!』と声援してくれるか。

昭和6年4月の雑誌に掲載された一文から。書いたのは、早稲田大学教授で哲学者の、帆足理一郎。

観衆の乱打する拍手、『頑張れ頑張れ!』と我が名を呼ぶ声、競技者は夢中になって、まっしぐらに決勝点へ突進する。我が名を連呼して、勢いづけてくれるファンが多数であれば、あるほど、自分は彼等の期待に背いてはならぬ。我が脚は折れようとも、心臓は裂けようとも、観衆の助成に感激して、突進せざるをえない。かくて競技者は頑張り、危ない処で最後の勝利を収める。だが、人生の競争に、遊戯ではない真剣な生活事業の競争に、誰が『頑張れ、頑張れ!』と声援してくれるか。

この文章には「一般の観衆が野球その他のスポオトに興味を移して、以前の如く、角力に熱狂しない」などとありますから、ここに書かれた競技者の突進は、野球の走塁のことを指しているようです。

それはともかく、このときすでに、「頑張れ!」という応援が存在していたことと、同時に、「頑張れ!」という応援が、ふだんの生活では使われていなかったことがうかがえます。

「頑張る」が、受験界でも古くから使われていたこと、「ガンバリズム」という言葉も、昭和2年の受験雑誌にすでに使われていたことは、コチラにすでに書いています。

■昭和6年:日本はあくまで満洲に頑張らねばならぬ。

上記記事から約半年後の昭和6年9月18日、満州事変が発生。大日本育英会創立者の政治家・永井柳太郎は、新聞への寄稿文のなかで、

満洲における日本の存在が、ひとり日本の存立のためのみでなく、東亜全局の平和保持のための絶対条件であることを信ずる限り、日本はあくまで満洲に頑張らねばならぬ。今日は日本国民にとりて試練の秋である。政府よ、国民よ、正しかれ、強かれ、しかして明るかれ!

と訴えました(報知新聞、昭和6年11月、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(102-115))。

外交官の杉村陽太郎は、昭和8年、雑誌に「頑張る新日本」と題した一文を掲載します。そこで杉村は、「人間は無理を平気で押し通し、倒れても止まずといふ意気で頑張るところに向上があり発展がある」として、「国家が死か生かの大戦争になると結局国家的な精神力の旺盛な国が勝つ」のだから、「真の国民精神に培ひ、更生新日本の意気で世界の人類に呼びかけねばならぬ」と説きました。

このように、時局とともに、「頑張る日本、頑張る日本国民」といった言説があらわれるようになります。

■昭和14年:「蒋介石のガンバリは敵乍ら強靭、あっぱれ」「石に噛り付いても此のガンバリ競争には勝利せねばならぬ」

昭和12年から始まり、泥沼化していった日中戦争が、「頑張る」を日本国民に要求するようになります。

7月に勃発した事変は、同年12月の南京占領をもって日本軍の勝利に終わったかに思わました。日本国内はお祭り騒ぎになり、商店街に祝賀アーチが立てられ、昼は旗行列、夜は提灯行列が行われ、東京は提灯の“火の海”と化しました。

ですが、蒋介石は屈することなく、なおも抗戦を続けます。戦争は長期化、泥沼化の様相を呈し、「「戦争」は一体何時終るのかナー」といった嘆息(ちくま新書『理想だらけの戦時下日本』井上寿一)が、国民の間で囁かれることとなります。

昭和12年は、戦前の日本の経済力が最高潮だった年(『基本国力動態総覧』)でしたが、日中戦争によって次第に民需が圧迫され、国力は徐々に下降、人びとの暮らしには閉塞感がただよいはじめます。しかし、ここで戦争をやめるわけにはいきません。国内のあちこちから、「頑張れ」の大合唱が湧き起こりはじめます。

たとえば、昭和14年刊行の『体操の研究授業』。「此の前古未曾有の非常時に直面して」時局に即した小学校体育の実践を説いています。

蒋介石のガンバリは敵乍ら強靭、あっぱれ」としつつ、「蒋介石は敗れても、取られても最後の勝利を叫び続けている」「之に負けたら我等は滅亡である。石に噛り付いても此のガンバリ競争には勝利せねばならぬ」として、ガンバリ養成のための体育を強調、「何事も辛棒強く行はせることが肝要であらう。耐久走とか障害物競走とかいった種目は、今後益々重視したいと思ふ」「逆上のやり方などでも、握りがどうの、踏切りがどうの、姿勢がどうのと文句ばかり言っていないで、十回も二十回も続けて行ふやうにするのである」と説いています。

当時の小学生の回顧にも、昭和14年頃のこととして、「体育の課目に重点がおかれるようになった。その当時、教育方法に「練成」という新しい方法概念が導入され、子どもたちは日頃の鍛錬によって強い体に鍛えておくことが奨励されるようになっていたのである。〔略〕学校で、新たに三つの鉄棒を備えたのは、ちょうどそのころのことだった。これまでも鉄棒はあったが、今度のは、それとは比較にならない高さであった」(岡野薫子『太平洋戦争下の学校生活』1990年)とあるから、こうした考えが現場に導入されていったのでしょう。

この時期刊行された人生訓を説く本には、やたらと「頑張り」が登場するようになります。たとえば、新潮社創立者・佐藤義亮は「前進、前進──、この頑張りで、何処々々までも押し進んで行くのみであります」(『向上の道:生きる力 第二編』昭和13年)と訴えています。貴族院議員の永田秀次郎は、雑誌寄稿の「頑張れ日本」(昭和14年)と題した一文に、「今は何といっても胸突八丁、頂は近いのである、汗が出る、呼吸も苦しくなるが、国民はヘコたれないで頑張るのである。〔略〕この時を逸しては頑張る機会はない」と、国民を鼓舞しています。

■昭和17年の東條首相:戦争は意志と意志との戦ひであります。頑張り合ひの闘ひであります。

昭和16年12月8日、太平洋戦争がはじまりました。

大政翼賛会は、「大東亜戦争に処する国民の心構へを指導する標語」として、「国運を賭しての戦ひだ 沈著平静最後まで頑張れ」を掲げます。その下部組織、中央協力会議が開催した昭和17年9月26日の会議。

冒頭の東條首相は、「戦争は意志と意志との戦ひであります。頑張り合ひの闘ひであります。〔略〕最後の五分間迄頑張り通したものに、勝利の栄光は輝くのであります。〔略〕一億国民が奮起し、而も飽くまで頑張りを必要とする、洵に今日より大なるはなしと申すべきであります。而して米英の頑張りは絶望の淵に臨むあがきであり、日本の頑張りは光明に満てる建設の喜びであります」と、頑張りという言葉を五回も繰返し、大いに「頑張主義」を力説した「頑張り演説」を行いました。

「頑張る」は、もはや国是となったのです。

新聞紙上にも、「頑張る」の単語は頻出します。朝日新聞の見出しにおける「頑張る」系単語の件数は、各年の頁数の差を補正したデータでみると、この時期、著しく突出しています。もっとも多かったのは昭和18(1943)年の、43件。

「ソロモンの前線・航空基地を征く 頑張る「ガ島の仇敵」敵の猛爆下に設定」(3月3日)
「いいか!空襲下の構え/怠るな警報下の緊張 防水第一・水の用意 各人、持ち場に頑張れ」(4月18日)
「“芋飯”で頑張ろう」(7月7日)
「増産に気負う学徒の“頑張り”を善導せよ 勤労職員の真価発揚へ」(8月22日)
「24時間ぶっ通し 防訓日割変る 戦果に応え頑張ろう」(11月6日)
「来年こそ「決勝」の年 持場職場で頑張ろう」(12月31日)

といったように、戦争一色となった世相が反映されたラインナップになっています。
また、これらの言説は、軍部や政府のスローガンばかりではありませんでした。当時、さまざまな人々が、口々に「頑張れ」と言い、国民自らが、戦争遂行という国家目標に向かい、徹底抗戦へと人々を煽り立てていたことがわかります。

■昭和18年:頑張り通し得る伝統的尊き精神力を持てる国民

太平洋戦争後、「頑張る」の言説は歪みはじめます。もともとは「頑張らない」国民性だったはずなのに、「世界一頑張る国民」、との主張までもがあらわれます。

日本初の経済評論家・高橋亀吉が発行する「高橋財界月報」昭和18年7月号では、「経済総力に於て仮りに米国が日本に数倍するとも、経済戦力に於ては日本が米国に優る結果を生ずる」としています。なぜなら、「国民の頑張力の如何は、その国経済戦力の強弱大小を決定する最も重大要素」で、日本人にとってこの戦争は「如何に苦しくとも最後まで頑張り通さねばならぬ戦争」で、かつ、「頑張り通し得る伝統的尊き精神力を持てる国民」だからだといいます。

そして、「戦争に対する銃後国民の頑張力(生産増強と云ふ積極的努力に対する国民の頑張力及び戦争の要求する経済的重大犠牲、生活上の重大苦痛等に対する消極的頑張力)に於ては、日本は世界に於て最も優れ」ているというのです。

■敗戦後:われわれはみな、何をするにものろのろとやり、茫然としている。

敗戦とともに、「頑張る」はいったん下火となりました。

ジョン・ダワーは、『敗北を抱きしめて』で、「頑張る」について、戦時スローガンのなかでも最も使い古された言葉であり、「戦後の再建、平和、民主主義、新日本のために働こうという宣伝にもよく使われた」と書いていますし、プランゲ文庫をみても、「頑張る」「頑張れ」「頑張ろう」「頑張りませう」「頑張るぞ」「頑張って」「頑張らうぜ」等々をタイトルに含んだ記事は多数存在します。

ですが、朝日新聞の見出しにおける「頑張る」系ワードの出現件数は著しく減少。昭和24年までの紙面が一日わずか2ページと少ないこともありますが、敗戦後、昭和24年まではたったの計4件。その後ページ数が回復しても、十数年間は年間ヒトケタ台と、戦前戦中、とりわけ、太平洋戦争中の突出頻度に比較して、隔世の感があります。

占領下の日本人は、自らの進路を自らの手で決めることすらできませんでした。「まともに働いていても食えない、というよりは、まともに働いていては食えない」時代でしたし、政府にしても「まず生きるための仕事をもらいたい、国民にもそういうものを植え付けたいというだけのことで、行き当たりばったりですよ」(産業政策史回想録・吉田悌二郎氏)と、何をどう頑張ったらいいか、途方に暮れていたというのが実態でした。『菊と刀』では、東京でのある日本人男性のこんな言葉を伝えています。

もう爆弾が落ちてくる心配がなくなって、ほんとにほっとした。ところが戦争がすむと、まるで目的がなくなってしまった。みんなぼうっとしていて、物事をうわのそらでやっている。私がその通り、私の家内がその通り、国民全体が入院患者のようだ。われわれはみな、何をするにものろのろとやり、茫然としている。

朝日新聞「声」の欄をみても、「頑張る」よりもむしろ、「元気一ぱい働こう」など、さまざまな励ましの言葉が使われています。当時の多くの日本人は、かつての官制スローガン、軍国主義と結託した「頑張る」ではなく、新しく明るい、「再建日本」にふさわしい言葉をさがしもとめていたのではないでしょうか。

「頑張り主義」は、敗戦によって、大失敗に終わったのです。日本の、日本人の「頑張り」がもたらしたもの、それは、空襲で徹底的に破壊された、焼け野原の町でした。

■日本人≠頑張る民族

天沼香・東海学院大学教授(歴史人類学、日本近現代史)は、「頑張る」をテーマに、2冊の著作(1987年、2004年)を刊行し、「頑張り」の精神を、日本人に固有の民族性、行動原理の核の一つだと結論づけています。

ですが、これまでの文献を読むかぎり、「頑張り」の精神とは、昭和に入ってから、とりわけ満洲事変以後の時局にともなって喧伝されたものです。泥沼化した日中戦争を続けるための、いわば「方便」として使われ、さらに太平洋戦争では「頑張り通し得る伝統的尊き精神力を持てる国民」にまで昇華してしまいました。

要は「火事場の馬鹿力」で難局打開を夢見た、きわめて都合のいい精神主義であったといわざるをえません。