週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

昭和18年7月の特高月報:かなり物騒だった戦時下の民衆

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戦時下の民衆が必ずしも、横暴な軍に、なすすべもなく、ただ従うだけだった、というわけではない一例を、さきのブログに書きましたが、今回は日本国内の労働者の様子です。

内務省警保局保安課が、「特高月報」なるものを毎月発行していました。全国各地から送られてきた情報をとりまとめたもので、共産主義運動、無政府主義運動などのほかに、労働運動、農民運動、宗教運動など、さまざまな「運動状況」が記されています。

昭和18年7月20日発行の「7月分」、その概説から。

熾烈なる決戦の連続下に於いて銃後生産戦線の中核を成す産業労働界の使命たるや蓋し重大なるものあり、然るに最近の労働情勢を概観するに後記する如く生産設備の破壊或は連続計画的生産阻害、電車の顚覆、鉱山倶楽部にダイナマイトの装填、工場寄宿舎に対する放火等々好ましからざる事案頻発の傾向あり。
此の種事案は表面的には一応労働統制の強化乃至は労働管理の低調に対する忿懣の疏通口を斯る直接的行動に求めたるものと認めらるるも、之を思想的観点に於て深く検討するとき勤労大衆の感情は諸種の要因を孕んで相当尖鋭化しつつありと言ふを得べく、労働部門に於ける治安の脆弱面が奈辺に在るやに付ての周密なる検討と之が対策こそ肝要と認めらるるなり。其の他徴用期間延長を繞る関係者の動向は予想以上に平穏を持しつつあるも、之は労働者が諦観的態度を持し居る結果に外ならず依然として内面的には深刻なる不平不満を内蔵し居るの情勢なるを以て厳戒を要す。

「生産設備の破壊」というのは、川崎市の軍管理工場である日本工学の工場で配電盤が破壊された事件。徴用工員が「徴用期間の更新に対する憤怒」つまり8月いっぱいでクビになる腹いせからやった模様。

「連続計画的生産阻害」というのは、松江市の鉄工所の旋盤工3名が、ことあるごとに工場側に反抗的態度に出ていて、工場内器具等を窃取、それを見つけて叱った職長に「いらぬお世話だ」と論争、同僚には「無理解な工場主だから儲けさす必要はない其の心算で働け」と煽動、対立的ならびに怠業的気運の醸成に努め、悪質落書きをしたり工場機械器具を損壊あるいは窃取したりしたと。

「電車の顚覆」は、三重県で電車軌道に重量約十貫余の石を置いて電車を脱線転覆せしめた事件で、犯行動機は被疑者の会社に対する僻見、つまりは差別的扱いを受けたと極度の憤激鬱憤を晴らすためにやったことだとあります。

以下は略。穏やかでない、というより、かなり物騒な状況であったことがわかります。

特高、といえば、泣く子も黙る特高、何か政府や軍に対し批判めいたことを口にするだけでしょっぴかれるという、怖ろしい特高というイメージです。特高に連行されるのが怖くて、何も本音を口にできなかったんだと、日本が戦争に負けるだとか、和平だとか、そんなことは思っていても口にできない時代だったと、一般にはそう思われていますし、いまでもときどき、新聞の投稿欄には、そんな回想が掲載されていると思います。

そうしたことも、たしかにあったのでしょう。ですが、この特高月報を読むと、むしろ特高が、当時の一般庶民にたいしてずいぶんと手を焼いている、そんな印象も受けるのです。

日露戦争後、1905(明治38)年の9月5日に起こった「日比谷焼打事件」は有名です。これは、『日清・日露戦争をどうみるか』(原朗、2014年)によれば、ポーツマス条約の、賠償金もなければ領土獲得も南樺太だけという内容に憤慨した民衆が、東京市内全体で交番などを焼打ちし、神戸や横浜など各地にも広がり、初めての戒厳令が布かれたもので、「東京市内焼打事件」とか「帝都騒擾事件」などとしたほうが正確なのに、政府がこの事件を小さくみせるために「日比谷」焼打事件という名称にしたものだといいます。

この「日比谷焼打事件」が政府や軍部に与えた衝撃が、とても大きかったものと僕は考えています。それ以後、要するに、政府や軍部は、民衆にたいしてある意味、ビビるようになったのです。民衆がまた暴れないように、ご機嫌をとるようになったのです。

昭和17年のミッドウェー海戦での大敗北後、大本営発表は嘘の大戦果ばかりを流して国民を騙したといわれています。たしかに、海軍はミッドウェーの敗戦を隠しましたし、それは批判されるべきです。その後、嘘の発表が常態化したことも批判されるべきです。ですが、僕はその理由のひとつは、国民が怖かったからではないか、と思っています。

特高月報を読んでみると、昭和16年の太平洋戦争開戦当時、人々がわっと盛り上がったことがわかります。労働者の勤労意欲も上がり、欠勤率は下がります。しかし、その興奮はわずか2、3ヶ月しかもちません。ミッドウェーのころにはすでに「いつまで戦争続くんだよー」的な意欲減退に、特高月報は頭を抱えだします。あとはずっと、基本的には一貫して、意欲は減退しっぱなしです。

太平洋戦争開戦当時、すでに泥沼化した日中戦争で、国民はどんよりとしていました。開戦当初の華々しい戦果は、それを吹き飛ばすカンフル剤となりましたが、それもつかの間。事態はさらに悪化していき、戦局も生産も国民生活もどん詰まりになっていくなかで、特高も政府も軍部も、理想と現実のはなはだしい乖離のなかで、もがき続けます。

特高月報についてはまたいずれ、詳しく書いてみたいと思いますが、国会図書館などで複製版が見られますので、興味のある方は是非に。

追記。

一国の戦争はその国民の同意なしには不可能であり、軍や政府は人びとの傍観を決して許さずにその手法や勝目についての啓蒙、説得をつねに試みる、強制はあくまでも最後の手段である
~一ノ瀬俊也『飛行機の戦争1914-1945─総力戦体制への道』(講談社現代新書、2017年)p367

 

企画院総裁・鈴木貞一の聴取書から:語られてこなかった戦時下の民衆の姿

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今の日本には過去を振り返る力があるのだから、戦時中に起きたことにきちんと向き合うべき、とのカズオ・イシグロ氏の考えを出発点に前回は書きました。

これまで僕たちがきちんと向き合ってこなかったことのひとつに、当時、アジア各地で、軍人ではない日本の民衆たちが、どんな傍若無人なふるまいをしていたのか、という実態があるように思います。

今回紹介するのは、元陸軍軍人で企画院総裁だった、鈴木貞一の戦後証言です。以前と同様、国立公文書館所蔵の聴取書から、その一部を紹介します(昭和34年9月17日、平11法務06419100-3)。

それによれば、鈴木貞一は昭和14年4月に、中国大陸の占領地の現地視察に出かけ、北京、南京、青島、徐州等の各地を巡視したといいます。

現地を見ての結論は一口にいうと「これは大変だ」ということであり、当時新聞記者の質問に対しても「要するに日本人は支那から引き揚げろという結論だ」と話した。
すなわち、南京では目抜きの場所は全部日本側で占拠しており、かつての蒋や汪の住んでいた家も全部接収しており、北京でもこれはと思う家は尽く取っており、開封では新都心計画の名の下に旧来の家を片端から壊しており、上海でも租界外におけるよい所は皆日本側で取っている。
上海で久留米出身の洋服商たる私の友人(石橋某)を訪ねると、彼は私に「自分は、上海に来て約30年、粒々辛苦の末今日やっとここまで築き上げて来たのだが、最近渡って来る人々は皆手ぶらで来てただで取っている。鈴木さん一体日本はこれでよいのでしょうか。」と聞かれた。このように、支那占領各地の実情は支那の民族運動に同情を持ってきた自分達の気持ちとは似ても似つかぬものになっていた。英米支那でやったことよりも更に悪い。そして事ここに至ったのは単に軍のせいだけでなく日本民族全体の動きであり、その支柱をなすものは日本の財界でその下に一旗上げようとする中小企業者がついているせいであることもよくわかった。
私は帰京の上現地で見た実情をそのまま報告した。軍中央でも「実に困った」と口ではいうが、さればとて軍と結んで深入りしている財界の存在は、軍の統制を一層困難にし簡単には修正できない情況であった。しかも日本では聖戦完遂と呼ばれていた。

戦後よく言われるフレーズに、「横暴な軍部」や、「軍部の暴走」といったものがあります。ようは、ぜんぶ軍が悪いのだと。軍が国を牛耳って、とんでもない方向に引きずっていったんだと。国民は、庶民は、軍のせいでひどい目に遭ったのだと。

軍のやったことを弁護する気は毛頭ありませんが、当時のファクトとして、はたして、それだけだったのでしょうか。ここで鈴木貞一が語る「聖戦完遂の実態」も、また事実だったのではないでしょうか。

南京といえば虐殺ばかりに焦点が当てられがちですが、そのあとに「一旗上げようとする中小企業者」たちが、南京や他の都市でどんな振る舞いをしていたのか、ということにも、もっと関心が注がれるべきでしょう。

また、日米開戦に至った重要な理由のひとつに、アメリカが要求した、中国大陸からの撤兵の拒否、という要素がありますが、このように、「軍と結んで深入りしている財界の存在」が、撤兵をいっそう困難にしたのではないか、僕はそう思っています。

ことは財界、中小企業者に限りません。科学技術者についてはすでに別のブログで書きましたし、日本国内の一般庶民については、渡辺清『砕かれた神』(岩波現代文庫2004年)や半藤一利『B面昭和史』(平凡社2016年)などで語られています。それらから見えてくる戦時下の民衆の姿とは、戦後になって語られるような、横暴な軍になすすべもなくただ従うだけしかなかった、という姿とは大きく異なります。

ところで、鈴木貞一はいろいろと悪評のある人物です。ウィキペディアでは「「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人」などと書かれていますが、彼が東条英機の腹心の部下だったとする点については、さてどうでしょうか。資料がにわかに出てこないので、正確に書けませんが、1941年6月の独ソ戦勃発後、ドイツとの同盟関係を破棄すべきと主張した数少ない人物のひとりが、この鈴木貞一だったはず。好き嫌いや、批判すべき点(とりわけ開戦決定の経緯に関して!)があることはともかくとして、時流を読む力には長けていた、珍しいタイプの軍人だったのではないかと、僕はみています。鈴木貞一についても、いずれ、きちんと書いてみたいと思います。

カズオ・イシグロ氏の日本論から:「どん底からの逆転」神話の嘘と罪

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先日ノーベル文学賞に選ばれたカズオ・イシグロ氏は、2年前のインタビューのなかで、日本は戦争という過去を忘れすぎているが、すでに「ショックに対する抵抗力の強い国」になったので、それに向き合うべきだという考えを語っています。

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タイトルにある「忘れられた巨人」というのが、日本がこれまで向き合ってこなかった、戦争という過去のことです。

以下、抜粋です。

戦後、日本は恐らく、「(第2次大戦については)忘れることをエンカレッジ(encourage) された」のだと思います。米国が日本を占領しはじめた頃には、第2次大戦はもう「過去」で、既に冷戦という差し迫った問題が浮上していたからです。〔略〕日本がもし戦争責任や戦争犯罪について、裁判などで誰が悪かったのかということを追及し続けていたら、国としてはバラバラになっていたと思います。少なくとも奇跡的とも言える経済的復活を遂げることはできなかったでしょう。ドイツも日本も、第2次大戦中に独裁政権ファシズムを経験したことを考えれば、戦後、成し遂げたことは素晴らしい。日本は80年代に米国経済を凌駕するまでになっただけでなく、言論の自由や民主主義という価値を定着させ、強固な民主主義を築きました。これは、ある程度「過去を忘れる」ということをしなければ恐らく実現できなかったでしょう。〔略〕ただ、今日、日本はあまりに多くを忘れすぎており、それは問題ではないかという見方は確かにあると思います。

さて、日本は戦争を忘れることをencourage=奨励されてきたのでしょうか。僕は逆に、戦争をremember=思い出し続けてきたのではないか、と考えています。

ただし、ファクトベースではなく、自分たちにとって望ましい物語として、です。

望ましい物語とは、こうです。強国アメリカを相手に勝てるはずもない戦争で徹底的に痛めつけられた日本は戦後、一面の焼け野原から立ち上がり、ガムシャラに努力して、奇跡の復活を成し遂げたのだと。

そこでは、戦争=亡国の失敗と、戦後=奇跡の成功が、強いコントラストをもって物語化されています。どん底からのサクセスストーリーは、スポ根ドラマの定番パターンでもありますが、高度経済成長期に一世を風靡したスポ根ドラマとはおそらく、当時の人々の内面をイメージ化したものなのでしょう。

奇跡の復活を強調し、ヒロイックな昂揚感に浸るには、それとは真逆の前史がなければなりません。それが戦争の記憶です。戦場や空襲での悲惨な体験が繰り返し語られる理由のひとつには、それを確認することで、奇跡がいかに奇跡であるかを再認識できることにあるのではないでしょうか。

また、日本人としてのアイデンティティは、国民的な(ある種の)イベントによって認識、形成、強化されるものだとも考えています。その意味で、悲惨な戦争体験とは、日本人が日本人であるために欠かせないイベントであり、しかもその最大のものは、1945年8月15日の玉音放送だったのでしょう。

別の言い方をすると、終戦の8月15日をもって、日本人はまさしく日本人となったのです。「終戦」とは、ある意味、「日本人」の始まりの日なのです。

日本人が日本人であり続けるには、悲惨な戦争体験と玉音放送は必須であり、だからこそ、奇跡の復活が強烈なインパクトを持ってきます。戦争という過去をrememberし続けることが、戦後の成功、自尊心の復活のためには欠かせないのです。

1964年の東京オリンピックも、日本人にとって重大なイベントです。玉音放送という「どん底のイベント」から、女子バレー「東洋の魔女」の大活躍を頂点とした「歓喜のイベント」へと、わずか20年たらずのうちに日本が猛然と駆け上がっていったことは、日本人が日本人というアイデンティティを確固たるものとすることに、決定的な意味を持ったでしょう。感覚的にいえば、1964年の東京オリンピックは、20年前の敗戦の「リベンジ」であって、この時代を生きた人々の意識には、それらが一体となって位置づけられているはずです。

カズオ・イシグロ氏の話をさらに続けます。

戦後何年も経った今、日本については一つの興味深い「問い」が浮上しています。これは米国のある知識人が言っていたことですが、日本は今や「ショックに最も強い国(shock-proof country)」となったということです。日本は、敗戦や不況など、どんな大変な事態が発生しても、もはや国の体制がひっくり返ったりはしないほど極めて安定した「ショックに対する抵抗力の強い国」になった、ということです。新興国や途上国だったら、大変なショックが生じれば、国の安定が損なわれ体制が変わることもあり得る。しかし、欧米や米国、日本、カナダなど世界のごく一部の国は、大変な事態が起きてもそのショックを吸収出来るだけの「ショックに対する抵抗力を持つ国」だとみなされている、ということです。つまり、日本が第2次大戦中に起きたことについて「忘れよう」としなかったら、今の日本はなかったと思いますが、ここまで「ショックに耐えうる国」とみなされるに至った今、日本は過去を振り返るだけの力を備えた国になったのではないですか、ということです。今の日本には過去を振り返るだけの力がある。私は、自信と力をつけた今こそ日本は第2次大戦について日本と中国、アジア諸国との間で事実について異なる認識の問題に取り組むべきだと思います。

 戦争という過去に向き合うべきだとする、イシグロ氏の見解には僕も賛成です。イシグロ氏は、被害者としての一面だけでなく、加害者としての一面にも目を向けるべきだという考えなのでしょう。それにも賛成します。

が、僕が過去に向き合うべきだとする大きな理由は、ほかにあります。それは、悲惨な戦争体験から奇跡の復活成功へと語られるヒロイックな昭和時代の物語が、いまを生きる僕たちを苦しめている、ということです。そんな、どエラい偉業を達成した諸先輩方にくらべ、僕たちはなんて見劣りをするのだろうという自己卑下、自己否定につながっているからです。

しかし、歴史の事実を直面すれば、いまを生きるぼくらが自己卑下する必要など、まったくないことがわかります。

戦後の高度経済成長を担った諸先輩方は、しばしば、ただガムシャラにやってきたことを誇らしげに強調します。たしかに、大変な日々だったのでしょう。が、それは向かうべき方向があらかじめ明確だったからで、考えたり、悩んだり、立ち止まったりする必要がなかったからです。個人も国家も、そして世界も、向かうべき方向の模索から立ち上げなければならない今日では、ガムシャラ成功論は通用しません。せいぜい、従業員をガムシャラに働かせたいブラック経営者あたりが熱く説教するぐらいでしょう。戦略も持たず(思考判断を外部依存して)ただガムシャラにやれば明日が見えてくる、なんて、今ぼくらが直面している現実からすれば、ある意味、なんて気楽で、なんて楽しい日々だったのだろうかと、皮肉のひとつも言いたくなります。

ガムシャラという方法論は、戦時下から継承したものです。泥沼化した日中戦争から後の日本は、冷静な情勢分析よりも、国全体が勢いにまかせて、ただガムシャラに、つき進んでいったように見えます。

「どうせ日本は負けると思った」とは、戦後しばしば言われることですが、「できそうもない難題に果敢に挑戦すること」自体は、日本では賞賛されることです。その代表的な成功例が、見事に復興を果たしたばかりか世界第二位の経済大国にまでのぼりつめた戦後日本そのもの、でしょうか。「やってもみないのに、最初からダメだとあきらめるな」的なフレーズは、ドラマや日常生活で頻繁に使われます。そう考えてみると、「強国アメリカを相手に勝てるはずもない戦争」を始めた日本も、賞賛されるべきとなります。おかしな話です。「果敢な挑戦」の美徳をもつこの国では、いっぽうの「果敢な挑戦」を否定し、もう一方の「果敢な挑戦」を肯定します。

ともあれ、果敢な挑戦の結果、国家は存亡の危機に瀕し、多くの兵士や国民が、命や、家族や、家や、プライドさえも失います。が、ガムシャラは人々の行動規範として生き残り、高度経済成長の成功によって肯定されます。敗者の方法論だったガムシャラは、戦後、勝者の方法論へとなりました。

「歴史の事実」の詳細についてはいずれ書くことにしますが、悲惨な戦争体験から奇跡の復活成功など、しょせん、その時代を生きた人々にとって都合良く作られた物語なんだ、ということがわかれば、いまを生きる僕らにだって、自信とやらが生まれてきます。

そういう意味で、僕らはそろそろ、過去にきちんと向き合わなければなりません。無意味な自己卑下から脱却し、僕らのリアルを取り戻すために。

どん底からの逆転」神話をありがたがっている限り、僕らに明日はありません。

追記1:「これまで僕たちがきちんと向き合ってこなかったこと」について、さらに書きました→「企画院総裁・鈴木貞一の聴取書から:語られてこなかった戦時下の民衆の姿

追記2:こちらも是非お読みください。→「過去に向きあう。未来を手に入れる。

航空燃料国産化と日米開戦:国立公文書館所蔵の知られざる聴取書群から

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あまり知られていないことですが、昭和31年からおこなわれた、旧陸海軍人を中心としたヒアリングの記録が国立公文書館に保管されており、誰でも閲覧することができます。その史料について、拙著『終戦史』では、こう紹介しています。

元海軍大佐の豊田隅雄(法務省司法法制調査部参与)らが実施した聴取は、1956年(昭和31年)12月11日の石川信吾を皮切りに1967年(昭和42年)1月25日まで約10年の間、確認できたものでは旧陸海軍軍人を中心として60名以上、聴取件数では100件以上の大がかりなものである。〔略〕聴取書は現在、「戦争犯罪裁判関係資料」の一部として国立公文書館で保管、公開されている。まとまった簿冊としては、「聴取書綴(A級戦犯者ほか)」(平11法務06475100)、「聴取書綴」(平11法務06477100)がある。また豊田らの聴取活動については豊田隅雄『戦争裁判余録』(泰生社、1986年)に詳しい。~拙著『終戦史』p22

聴取の全体像については改めて記すとして、今回はそのなかから、軍令部第四課長だった栗原悦蔵・元海軍少将からの聴取書の一部を紹介します(昭和36年6月2日、平11法務06449100-4)。

昭和16年9月頃の海軍の手持ち燃料は650万トン程度、さらに、陸軍民間のものを合計すれば800万トン乃至900万トン程度で、戦争になった場合も最初の1年半や2年は何とか賄える見込みもあったが、それ以後は南方からの補給による以外には方法はなかった。
しかも、オクタン価の高い航空燃料は、4エッチ鉛が国産が出来ず専らドイツからの輸入に仰いでいたのだが、6月独ソ戦勃発後はその輸入も困難になって、航空機の高性能発揮上、由々しき問題であった。そこで何としてもこの4エッチ鉛の国産化をやらねばとの切羽詰った要求から、その生産を長野県の日本曹達と郡山の保土ヶ谷曹達に命じたが、幸その全巾の協力と必死の努力によって比較的短時日の間に生産可能となり愁眉を開いた。この問題も戦争への踏切の一つの大きな山であった。
〔略〕
布哇作戦につぐ馬来沖海戦でもまたも海軍航空隊が英東洋艦隊主力、プリンス・オブ・ウェルス、レパルスの両戦艦を撃滅したとの情報に接したとき、会議中であった永野総長は椅子からスッと立ち上がって「参内」と云われた。
陛下は総長の奏上を大変よろこばれ、軍令部に鴨40羽を下賜になった。軍令部副官鹿目善輔氏の世話で宮内庁から鍋を借り、鴨のすき焼き会で祝宴を催した。席上富岡一課長等意気当たるべからず、有頂天になっているのを見て、私は、「この大戦果の陰の功労者に恩を致さねばならぬ、それらの人の為に乾杯しよう」と提議した。永野総長は「それは一体誰だ」と反問されたので、私は「それは4エッチ鉛の国産に成功した日曹や保土ヶ谷曹達、浅深度魚雷発射等の技術陣である」旨答えた。お蔭で私は、前記の両会社に市村氏とともに御礼に行かされたが、会社側は非常に喜ばれた。

 1941年12月8日から始まった太平洋戦争。そこに至る経緯をいろんな角度から、つぶさに追っていくと、その開戦は、さまざまな出来事が折り重なった先に起こった偶然だったように思うことがあります。この航空燃料国産化の話も、そのひとつです。

日本曹達の社史(70年史、1992年)には、このように書かれています。

二本木工場(新潟県上越市、同社最大の主力工場)では、航空燃料高オクタン価添加剤の四エチル鉛の製造を主体とするようになっていた。四エチル鉛の研究は、海軍の要請で昭和11年から行っていた。海軍燃料廠の加納大佐が創業者でもある中野友禮社長(昭和15年退陣)とともに二本木工場を訪れ、技術陣に航空燃料の重要性を説き熱心に協力を要請。その熱意に動かされ、“お国のため”に研究を引き受けることになった。
日曹技術者、大我勝躬の著作『墨蹟』によれば、加納大佐は次のように言ったという。
「現代の戦争は航空機の戦争である。〔略〕問題は航空機燃料である。〔略〕最近の航空機用エンジンは圧縮比が大きくなっておりそれだけオクタン価の高いものを必要とする。それにはアンチノック剤(耐爆剤)が必要であるが、残念ながら日本では製造していない。この耐爆剤である四エチル鉛がなければ戦争することはできない。是非軍に協力して、四エチル鉛の製造研究をやってもらいたい」

 日本曹達では、昭和14年に製造工場を建設、昭和16年3月に完成、4月に操業開始。日本初の四エチル鉛の自給態勢を築きます。軍はこの四エチル鉛国産化を高く評価、陸軍航空本部土肥原大将の名で感謝状が贈られ、海軍省軍需局長御宿中将が毎月1回、二本木工場を訪ねて従業員の労をねぎらった、とのことです。

大陸を戦場とした日中戦争とは異なり、太平洋を戦場として、アメリカやイギリスと戦った太平洋戦争は、基本的に海軍の戦争です。開戦前、海軍内の一部に強硬な意見があったことはよく知られたことですが、この技術革新がなかったら、はたしてどうだったでしょう。燃料の問題は、船舶の損耗予測とならんで、開戦の判断に大きな影響を与えた要素だったはずです。

さまざまな人が、さまざまな場所で、さまざまな尽力を積み重ねることで、僕らの歴史は形作られていきます。僕らは決して、破滅に向かって努力しているのではなく、明るい未来を夢見て、いまを懸命に生きています。それは当時も、いまも、まったく変わらないはずです。

科学技術の進展はすばらしいことで、それに尽くした努力はすばらしいものですが、それが結果的には、1945年の「終戦」、日本国はじまって以来の敗戦という、大変な国難につながっていったという歴史は、皮肉なものです。

(それにしても、有頂天になった軍令部の「鴨のすき焼き会」とは…)

吉田自由党:幻の「憲法改正→1955年に再軍備」案

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65年前の1952(昭和27)年、憲法を改正したうえで再軍備を行うという政策案を、当時の与党・自由党が準備していました。自由党、といっても、現在の小沢一郎のではなく、自由民主党の前身、吉田茂率いる自由党のことです。

その自由党が、サンフランシスコ講和条約が発効した時、つまり、日本が独立を回復した時に、「再軍備を1955(昭和30)年と予定して憲法改正を行う」との政策案を発表しようとしていたところ、吉田茂首相の命令によって、その案がボツになったという話を、先日の投稿に書きましたが、今回の総選挙では憲法改正が争点のひとつとなっているので、続報を書きます。

読売新聞1952年4月11日朝刊「憲法改正再軍備 自由党政調会で取上ぐ」によると、

自由党では講和発効を機会に発表する党の新政策案を立案中であるが、その検討が進むにつれて「自衛力漸増か、憲法改正再軍備か」の問題が、すべての政策に先立つ先決問題として焦点的に浮かびあがり、近く党としてこの問題に対する明確な態度を決定しなければならない情勢に迫られてきた。
憲法改正再軍備に対しては吉田首相はじめ党幹部はこれまで自衛力漸増という言葉によって否定的な態度に終始して来たが、党内には最近の情勢から党としても最早や正式に再軍備を認め、さらに進んではそのための憲法改正についても真剣な検討に着手すべき段階に来ているという議論が高まり、七、八両日の政調首脳会議(秘密会議)では水田政調会長、田中副会長は『何等かの形で憲法改正を検討すべき段階に来ている』と主張し、愛知、西村両副会長は『ここ二、三年はあくまで自衛力漸増の線で行き憲法改正はさけるべきだ』と主張して完全な対立をみせた。
〔略〕党としては党内の意向を首相に具申して、いわゆる自衛力漸増から再軍備への切換えをいついかなる形で国民の前に明確にするかについて首相の真意を打診することになろう。

憲法改正に反対する派も、その主張は『ここ二、三年は憲法改正は避けるべき』となっています。「自衛力漸増から再軍備への切換え」は既定路線で、その時期に関して対立しているように読めます。

同月22日、吉田茂は田島宮内庁長官と「重要会談」を行っています(毎日新聞1952年4月22日夕刊か)。おそらくここで吉田は田島に、「お言葉の中で陛下が独立日本の国民と苦労を分たれる決意を示されるよう強く助言」をしています。要は、天皇退位説の打ち消しです(朝日新聞1952年5月4日朝刊一面)。

追記1:文藝春秋2003.7p107によれば、田島の案は吉田茂首相らの同意が得られず、吉田が出した別案を宇佐美毅・小泉信三安倍能成が支持したとある。また、古川隆久2011『昭和天皇』p340によれば、「お言葉」は、小泉信三安倍能成田島道治の進言によった」とあり、ここでは吉田が田島案に対して別案を出したことは記されていない。

追記2:文春新書2010『昭和天皇と美智子妃─その危機に』(加藤恭子)p142、田島日記の4月22日の記述「早朝、おことば案最終整理及首相案賛成の理由ノート作る。十時拝謁前に侍従長とその事打合す。御召し、10-11。首相訪問 11・15-2。おことばのこと、陛下御軫念のこと」。おそらくここで田島が折れて吉田案に賛同、天皇に拝謁した後に吉田を訪れている。

その2日後(4月24日)、吉田茂は皇居を訪問。昭和天皇に「講和発効後の諸問題、独立記念式典の行事などについて御説明」をしています(読売新聞1952年4月24日夕刊)。「戦禍の反省と憲法尊重を念願される陛下の御希望」(朝日新聞5月4日朝刊一面)は、ここで昭和天皇から吉田に伝えられたのかもしれません。だとすれば、昭和天皇憲法尊重の意向は、やはり、自由党内での憲法改正再軍備の議論に釘を刺したものと考えられます。

翌日(4月25日)、吉田茂自由党幹事長の増田甲子七と「三十五分にわたり要談」をします。そこで吉田が「基本政策の中の憲法改正問題に消極的な態度を示したため」、政調会が立案した独立後の基本政策を4月28日に発表すること自体がとりやめになります。会談後、増田は吉田の意向として、「憲法改正については世論の要求があれば我々もこれを採り上げるが、現在は未だその段階に至っていない」などと語りました(読売新聞・毎日新聞1952年4月25日夕刊)。

後日、この日の会談は、吉田が増田に対し、「戦禍の反省と憲法尊重を念願される陛下の御希望に副うため」「自由党が講和発効に際して発表しようと政調会で立案中の同党新政策案から再軍備を昭和三十年と予定して憲法改正を行うとの項の削除を命じた」ものだったと伝えられます(朝日新聞1952年5月4日朝刊一面)。じっさいには、「項の削除」だけではなくて、それも含めた基本政策の発表自体がボツになったわけですが。

さて4月28日。講和条約が発効、日本が主権を回復して独立国となった日です。朝日新聞の夕刊一面に、午前11時に発表された吉田茂の談話を掲載しています。そこには、

われわれは国情と国力の増進に順応してわが国自らの防衛力を作り上げ、進んで他の自由諸国と共に世界の平和と自由を援護する決意をなすべきである。

と書かれています。また、同じく一面に、吉田の「独立後初の記者会見」の一問一答を掲載。見出しには「憲法改正せず」とあります。再軍備についての質問に対する答。

再軍備うんぬんは簡単なようであるが、簡単なことではない。よく国力を整えて日本の独立安全を守るに足るだけの国力の養われた後において起る問題でそれ以前には軍備は置かない。〔略〕日本の国力が充実し、たえ得るような事態にならなければ再軍備はできない。徒に再軍備といえば、かえって国の内外に不安を生ずる。再軍備の考えは持っていない。したがって憲法改正はしない。日本を日本自ら守るとすれば、いつかは置かなければならないが、それはすべての手段を尽した後においてやるべきことである。

再軍備の考えは持っていない。したがって憲法改正はしない」と言っておきながら、内実は、「今は」改憲再軍備はしない、であり、いずれ国力がついた暁には、改憲再軍備をする、と言っているように読めます。じっさい、読売新聞は同日夕刊一面で「国力充実後に軍備」と見出しに書き、リードに「首相がこの会見で特に「国力充実後に軍備する方針」との決意を強調したことは注目される」としていますし、毎日新聞も同日夕刊一面で「再軍備、国力回復後」と見出しに書いています。

「首相、再軍備に慎重 お言葉へ特に進言 自由党新政策、憲法改正の項削る」(朝日新聞1952年5月4日朝刊一面)の記事内容はさきに書いた通りですが、省略した箇所を以下に記しておきます。

新日本発足のときをえらんで陛下のお言葉を懇請し、終戦以来、各方面に取りざたされた天皇退位説を打消して象徴としての天皇の地位を確立し、陛下の新たな御決意を願おうというのが吉田首相のここ数ヶ月にわたる念願であった。今回のお言葉はこの首相の願望をきっかけとし、陛下の御意向を体した田島宮内庁長官が首相と連絡して起草に当ったが、御決意を懇願する首相の念願にもかかわらず戦禍の責任を御一身に負われようとする陛下の御祈念は深く、また民主憲法の精神はあくまで尊重すべきだとの御意向であったと伝えられている。

昭和天皇憲法尊重の意向に沿い、吉田茂が「世論がハッキリした方向を示すまでは再軍備をいわず、憲法はいずれ改正するにしてもその“精神を発揮する”との陛下のお言葉を尊重する」と、この記事はみています。それにしたがえば、やはり、改憲再軍備に強く反対をしていたのは、吉田茂ではなく、昭和天皇であったことになります。

では、「さらにうがった見方をすれば、吉田が天皇に退位の断念を迫り、それと引き換えに、天皇が吉田に改憲再軍備の断念を迫った結果、双方が折り合う形で、天皇の留位と、改憲再軍備の先送りが実現した、ようにも思えます」という僕の推測は、どうでしょうか。

先日放送のドキュメンタリードラマ「華族 最後の戦い」(NHK・BSプレミアム)佐野史郎さんが演じた、元内大臣木戸幸一は、この前年の1951年10月17日、は、巣鴨プリズンに面会に来た次男の孝彦を通じ、次のような要旨を天皇側近の松平康昌に伝言するように依頼しています。

陛下に御別れ申上げたる際にも言上し置きたるが、今度の敗戦については何としても陛下に御責任あることなれば、ポツダム宣言を完全に御履行になりたる時、換言すれば講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとり被遊、御退位被遊が至当なりと思ふ。(『東京裁判資料・木戸幸一尋問調書』初刷p559)

これは木戸の持論で、巣鴨プリズンへ出頭する直前、1945年12月10日に、昭和天皇に別れの晩餐に招かれた際にも、ポツダム宣言の完全履行後の退位を直接訴えていました。講和条約の発効を控えた昭和天皇の脳裏には、木戸のこの主張が浮かんでいたことと思います。

ですが、当時、政治外交分野の米最高責任者だったウィリアム・J・シーボルトの10月24日の日記には、

条約が実施されたら、天皇は退位するという噂は本当か松平康昌に尋ねた。松平は、退位は一時検討されたが、天皇は自分の感情よりも国の安定の方が重要だと考え、退位はしないという決断に達したそうだ。

とあります(原文は英語)。また、田島宮内庁長官の残した文書では、翌月11月9日の拝謁の際、昭和天皇が「退位論につき、留意の弁」を述べており、田島は昭和天皇の在位の意向をふまえて「お言葉」案を練っていたといいます(茶谷誠一象徴天皇制の成立』p240)。

いっぽう、このとき昭和天皇の侍従だった徳川義寛は、のちに朝日新聞社の岩井克己氏に対し、退位問題に最終的に決着がついたのは、1952年3月だったと思うと語っています(徳川義寛侍従長の遺言──昭和天皇との50年』p170)。

これらをみるに、その決着プロセスの詳細は不明ながらも、おそらくは徐々に固まっていき、4月の段階ではほぼ確定的となっていたのでしょう。

そう考えていくと、吉田茂昭和天皇に迫ったのは「退位の断念」というより、「在位の表明」と考えるべきかもしれません。

あるいは、吉田茂昭和天皇との間ではすでに在位論で固まっていたとしても、それを増田幹事長らが知らなかったと仮定すれば、吉田が増田に対し、昭和天皇の退位をもちらつかせて、自由党内にあった憲法改正再軍備論をつぶしにかかった、ということなのかもしれません。

自由党再軍備を予定していた昭和30年といえば、高度経済成長が始まった年です。幻の自由党案の通り、じっさいにこの年に再軍備が行われていたら、日本はずいぶんと違った国になっていたことでしょう。

それにしても、国力回復後に再軍備って、なにか隔世の感があります。

さて、こうして当時の議論を追っていくと、吉田茂の4月28日の発言、「再軍備の考えは持っていない。したがって憲法改正はしない」に代表されるように、憲法改正再軍備がセットで捉えられていたことがわかります。

再軍備のための憲法改正であり、憲法改正とはすなわち再軍備のためでした。

あれから65年。日本国は一度の憲法改正再軍備もせずに、ここまできました。その是非はともかく、僕は、日本国憲法を、鉄の掟、金科玉条にはしないほうがいいと思っています。鉄の掟は思考停止を生み、戦前戦中のいわゆる軍国主義日本と同じ状況を作り出しかねないからです。

漫画家のこうの史代さんは、こう語っています。

核兵器がいまだになくならないのは、持っていればみんなが一目を置き、黙って言うことを聞くと思われているからでしょう。でも、広島や長崎についてもっと知る機会があれば、決して、そんな考えにならないと思います。こんな兵器を使う者のことは、誰もが、恐れても、心の中では信用しないからです。(朝日新聞2017年10月7日朝刊17面)

いま、軍事力が日本の平和を守る有効な手立てになるとは、僕は思いません。それより、世界じゅうに信用される国になることが、結果的に日本を守ってくれることになると思います。

自衛隊も要りません。

自衛隊を、「国際救助隊」にしてしまえばいいと思います。そう、1960年代のイギリスで放送された、あの人形劇。トレーシー一家とスーパーメカが活躍する「サンダーバード」のように。

災害救助を中心として、世界のあらゆる国に、要請に応じてすぐさま駆けつけ、人命救助にあたる専門の組織を、日本の国家予算を注ぎ込んで作り上げるのです。すでに自衛隊東日本大震災をはじめ、国内外の災害救助で実績を積み上げていますし、日本は世界最先端の科学技術も有しています。できるはずです。

国際救助隊をもつ国を、誰が攻撃できるでしょう。

詳細はまた改めて述べますが、対米戦争に至るまでの、かつての日本を振り返ってみると、そこには、「一等国」への憧れといったものがありました。世界から一目置かれる国家になりたい、との思いです。結果的にはそれがどんどんと間違った方向に進んでしまったわけですが、敗戦・占領を経て独立を果たした後の日本は、高度経済成長によってGNP世界第二位(1969年6月10日に経済企画庁が発表した国民所得統計(速報)で明らかに)となり、「経済大国」となります。それは、かつての日本が憧れた「一等国」の座を、違う形で実現したものともいえます。

僕ら日本人は、何故だかわかりませんが、世界から一目置かれる存在でいたいのだと思います。「スゴイデスネー、ニッポン!」と、言われ続けたいのです。「すごい国ニッポン」の究極の姿が、国際救助隊を持つ国ニッポン、なのではないでしょうか。

戦後の日本外交の基本線は、権謀術数ではなく、誠実さにあったと僕は思っています。外交と軍事は国家の両輪です。誠実な外交にふさわしい、誠実な軍事とは、軍事力を「黙って言うことを聞く」ために使うのではなく、相手国の信用を得るために使うことで、実現できるのではないでしょうか。

日米開戦の反省もふまえて、国際救助隊の創設を、まじめに主張します。憲法改正をするなら、是非ともそこに、国際救助隊の明記を。

東條“親切”内閣

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「国民に対し親切第一」と東條英機が内閣首脳への初訓示で語ったという、朝日新聞記事(昭16.10.22夕刊)。

特にお願いしたいことは「親切」ということである。ご承知の通り国民の多数が戦地において死を賭して幾多の辛苦を重ね、銃後の国民はまた一億一心、滅私奉公を重ねているのである、かかる際においては行政官吏たるものは常に国民一般の立場に立って考えることを忘れることなく、人に接すること懇切に、部内互いに相和し、事務の遂行に当たらんことを望む次第である。

訓示には「事務」という言葉が何度も出てきて、とてもこの時期の首相のものとは思えず、やはり東條は優秀な「事務方」だったのだろうなと思います。支那からの撤兵を強く拒み、結果、対米戦に突入してしまった彼の本心は、この「親切第一」だったのではないかと。
一国のリーダーとしては、やはり、「親切」よりも「決断」をしてくれてたらと思います。

ところで、当時の日本は、いまの北朝鮮と同様に、アメリカとの対立を深め、経済封鎖を受けていました。世界で孤立し、「ならず者国家」とみられていたことも、いまの北朝鮮と似ています。というか、北朝鮮が当時の日本をモデルにふるまっているようにも見えます。その日本の指導者、横暴な軍部を率いる独裁者というイメージで世界から見られていたであろう東条英機が「親切第一」を説いていたという事実。いまの北朝鮮にも案外、こんな実情があるのかもしれません。それにしても当時の日米関係、疑心暗鬼の探り合いより、誠実に腹を割った話し合いがあれば、史実とは違った展開をみせたのかもしれないと僕は思います。

 

※後日、加筆修正します。

日本は本当にソ連参戦を知らなかったのか:その1.海軍編

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2013年に僕が刊行した『終戦史 なぜ決断できなかったのか』は、その一年前に放送したNHKスペシャル「終戦」の出版化という体裁をとりながらも、放送には盛り込めなかった内容や、その後の追加取材で得られた知見、僕なりの独自解釈なども盛り込んだ内容となりました。

欲張って「てんこ盛り」にしてしまい、ややわかりづらいものとなってしまった反省もありまして、当ブログでは拙著のなかから、いくつかのトピックを時々とりあげ、できるだけわかりやすく書いていきたいと思います。

1945(昭和20)年の日本の終戦経緯について、一般的に、次のように捉えられているものと思います。

陸軍、もしくは軍部の見当違いの構想に引きずられた政府と外務省は、こともあろうにヤルタで対日参戦の密約を交わしたソ連に望みを託して英米との和平交渉の斡旋を頼み、アメリカの原爆投下に続くソ連の参戦でその甘く愚かな幻想はうち砕かれ、最後は昭和天皇の聖断によってポツダム宣言を受諾。最後まで徹底抗戦を主張し続けた陸軍は実力行使を企てたものの、クーデターはすんでのところで抑えられ、8月15日の玉音放送で国民は敗戦を知った。~拙著『終戦史』p10

拙著では、こうした通説のいくつかの部分についての修正を試みているわけですが、今回は、ソ連参戦についてとりあげます。

当時の日本は、ソ連が「まさか」対日参戦するとは夢にも思わなかった、ソ連が米英との間で対日参戦の密約を交わしたヤルタ会談の内容も知らなかった、そして、

ソ連仲介による和平工作ほど愚かな政策はなかった」(半藤一利編『日本のいちばん長い夏』(文春新書、2007年)p175、拙著『終戦史』p224)

というのは、本当でしょうか?

当時のイギリスが傍受・解読をした、日本軍の電報の抜粋をいくつか紹介していきます。これは、ヨーロッパに駐在していた武官たちが日本に送った電報で、彼らがさまざまな情報源から入手した情報が伝えられています。

まずは海軍武官電。いずれも、スイスの首都ベルンからのものです。
昭和20年5月24日。

「フランスの報告によると、ヤルタ会談において、ロシアは極東における戦闘について期日を設定したという。この期限が切れる前に日本が降伏しなければ、対日戦争において、英国および米国に加勢する、というのである」~拙著『終戦史』p36

昭和20年6月某日(たぶん5日)。

「複数の報告によれば、ヤルタ会談において、ロシアは、欧州における戦争終結後も対日戦争が長引くようであれば、積極的に参戦したいとの意向を言明した、そして、ルーズベルトは、死ぬまでロシアとの友好を唱え、その信条に徹底して拘り、ロシア軍が活動を開始すべき凡その期日を8月後半とすることに概ね合意した」~拙著『終戦史』p38

昭和20年6月某日(たぶん11日)。

「以下の理由から、最後の瞬間にソ連が対日参戦することは十分ありえることである:
(1) 外交面。 ヤルタ会談で合意された期日(本年7月末と云われる)までに、英国および米国の対日戦争が終わらなければ、ソ連は参戦する」~拙著『終戦史』p40

また、これらの解読文とほぼ一致する内容が、海軍が当時作成したレポートに記され、内部で配布をされていたことも、日本国内の史料からわかっています。

すなわち、少なくとも海軍にはヤルタ密約情報が伝わっていた。参戦時期の予想についてはややブレがあるが、ヤルタ密約で取り決めたのが「ドイツ降伏後2、3ヶ月」、実際のドイツが降伏したのが5月8日だから、おおむね正確な予想を、ドイツ降伏後一ヶ月の段階で得ていたことになる。~拙著『終戦史』p41

少なくとも海軍は当時、ソ連が対日参戦をする可能性を、じゅうぶんに知っていたことになります。