週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

あきらめるのは良いことです:「絶対に諦めない」と「一億玉砕」

朝日新聞「声」の欄に、「「あきらめる」のは悪いこと?」と題した一文が載っていました。投稿したのは、千葉県在住の高校生、矢板祐樹さん。

たいていの日本人は、あきらめることが苦手だと思う。「あきらめずに頑張る」のが良いこと、美しいことだと幼い頃から教えられ、頭に植え付けられている。そんな感覚が僕の中にもある。しかし逆に、あきらめるのは大切なことだと僕は思う。
「あきらめる」と「投げ出す」は、大きく違うと思っている。投げ出すのは、物事を途中で放り出すこと。あきらめるのは、物事に全力で取り組む中で自分の限界を見つけて区切りをつけること。これなら、そんなに悪いことではない、と思えないだろうか。
あきらめずに頑張って、達成感や幸福感を得られる場合もあるだろう。しかし、「絶対あきらめない」と自分を追い込み、不幸な結果を招いてしまう人もいる。その前に、気持ちに区切りをつけることも必要なはずだ。
朝日新聞2018年2月23日16面)

だいたい、その通りです。ただし、冒頭の「たいていの日本人は、あきらめることが苦手」というのは、違います。

たいていの日本人は、逆に、あきらめやすく、実は頑張るのが苦手なのだと、僕は思います。ぶっちゃけ、自分の周りを見渡してみて、「絶対あきらめない」と猛烈ファイトをかましてる、暑苦しい人は思い当たりません。だいたいみんな、あきらめて生きてます。そうですよね?

じゃなきゃ、人気職業ランキング上位のサッカー選手だとかお菓子屋さんだとか何だか知りませんがそういう職につけなかった人たちがそれでもあきらめずに高齢になっても挑戦し続けてるはずですけど。

あきらめの悪いやつは、いるでしょう。ふられた女をしつこく追いかけるだとか、過ぎた失敗をぐちぐちいい続けるとか。でもそれは、「あきらめずに頑張る」姿ではありません。「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった」とかにも書きましたが、ぼくら日本人はもともと、「あっさりしたこと、潔いことを好む」のであって、あきらめの悪いのをカッコ悪いと思っているのです。

ではなぜ、「あきらめずに頑張る」のが美徳とされているのでしょう。

それは、それが日本社会の大前提的な建前だからです。日本は「あきらめずに頑張る」価値観がすみずみにまで行き渡った社会であるとの「フリ」を、みんなでしているからです。

「絶対にあきらめない」だとか、「最後まで頑張る」だとかの勇ましいフレーズを、額面通りに受け取ってはいけません。ブラックな職場では日常用語かもしれませんが。

これと似たような言葉が、昭和20年の終戦前にも、日本国内でしきりに叫ばれていたことをご存知ですか?「一億玉砕」ってやつです。これを、「一億玉砕はありえた」などと、もっともらしく語る人もいるのですが、ありえません。どうやったら一億人が玉砕できるのですか?指揮命令系統はどうするんですか?最後はぐちゃぐちゃの大混乱に陥って戦争どころじゃなくなってしまいます。国家崩壊です。

当時の「一億玉砕」というのは、一種の「気合スローガン」でありまして、「一億玉砕のつもりで」とか「一億玉砕の覚悟で」とかって感じに、いわゆる「不退転の心構え」をあらわしたものです。

「絶対に諦めない」とか「最後まで頑張る」とかも、それと同様で、ほんとうに最後まで諦めずに頑張るということではなく、あくまでもそうした決意、心構えをあらわしたもの。諦めるときは諦めます。ですよね?

「一億玉砕(のつもり)の精神」は、いまも形を変えて、この日本社会に、根強く残り続けています。

「あきらめる」のは、良いことです。為末大氏の『諦める力』には、全力を尽くして全うするという考え方が強い日本人に対し、欧米では「引退が非常に軽い」ことが書かれています(p75とか)。今後、グローバル化が進むとともに、こうした日本独自のガラパゴス的な価値観はどんどん消えていくでしょう。若い人たちは、そんな古臭い価値観にとらわれることなく、どんどんあきらめていってください。

※これは、この前の「1970年代試論:「みんなガンバレ」の時代」に追記した文章をもとに書き直しました。

1970年代試論:幻想としての「みんなガンバレ」の時代

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ」を書いて以来、1970年代が気になっています。

たとえば、(少なくともタテマエとしての)平等社会について。

「頑張れば夢が叶う」的な言説に、「誰でも」という要素がデフォルトで内包されていることは、議論の余地はないものと思います。そして、1970年代に出現した「平等社会」が、「頑張る」促進、そして、「頑張り圧」定着の、大きなファクターになったのではないか、との仮説について。

天沼香は、『日本人はなぜ頑張るのか』(2004年、第三書館)の、「頑張り」を育む「努力差」重視社会」(p97~)と題した節において、『タテ社会の人間関係─単一社会の理論』(中根千枝、1967)の、

伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目する。が、「誰でもやればできるんだ」という能力平等感を非常に根強く有している。

との記述を引用。二宮金次郎野口英世のような、貧しいなかで努力を重ねた、日本で尊敬される人物像を挙げたうえで、

結果はどうあれ(たとえ失敗に帰したにせよ、上々の成果が得られなかったにせよ)、そこに至る過程で「努力した」ことや「頑張った」こと自体が一定の評価を得ることになる。

として、

日本人が「頑張る」背景には、「能力差」よりも「努力差」のほうが称揚されるという社会規範が横たわっているのである。

としています。

天沼氏は、「「頑張る」は日本人に固有の民族性ではなく戦時中の刷り込みです」で、すでに述べたように、「頑張る」の歴史的推移を考慮に入れておらず、「頑張る」を日本民族のコア・パーソナリティとしていますが、ぼくは、こうした社会規範が日本社会に固有のものだとは考えていません。

また、天沼氏は「戦後長らく、経済効率万能的思考のもと、モーレツ社員や企業戦士が身を粉にして「頑張って」きた結果、日本は驚異的な経済成長を遂げた」(同上、p146)としていますが、それにも同意できません。

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ」に書いたとおり、「モーレツ」(および、モーレツ的価値観)が日本社会に出現したのは、1964年の東京オリンピックのあと。つまり、1955年から1973年までの高度経済成長の、後半期。「根性」が流行し、「四十年不況」を境にして産業界に少数精鋭主義がうまれ、「猛烈社員」への称賛が生まれて以後のことです。

高度経済成長の前半期、つまり、「三丁目の夕日」が舞台になった時代、「スーダラ節」が流行した時代は、当時のサラリーマンのあいだで「遅れず・休まず・働かず」といった「三ズ主義」が流行っていたように、日本人は、さほど頑張ってはいませんでした。高度経済成長中、一貫して、日本人がモーレツに頑張って働いてきたというのは、勘違いです。

さらに、『日本人はいつから働きすぎになったのか─〈勤勉〉の誕生』(礫川全次平凡社新書、2014年、p214)では、こんな指摘がされています。

1951年(昭和26)3月に公開された映画『我が家は楽し』(松竹)は、その当時の(1950年代はじめの)サラリーマン一家の生活を描いている。
映画は、父親(笠智衆)が、会社から帰ってくるシーンから始まる。駅を出て家路を急ぐが、外はまだ明るい。途中、草野球をやっている長男を見つけ、「おーい、カズオ、もう帰らんか」と呼びかける。どう考えても、午後6時前である。帰宅した父親は、和服に着替え、その後、一家揃っての夕食。今日では、ほとんど絶滅した光景である。
経済学者の日高普は、その著書『日本経済のトポス』(青土社、1987)の中で、サラリーマンが5時に退社し、家族と夕食をとるという習慣がなくなったのは、「1950年代半ば」だったと書いている。妥当な指摘だと思う。右の映画が公開された当時においては、父親が夕食前に帰宅するのは、ごく当たり前のことで、映画の中だけの話ではなかったのである。

つまり、高度経済成長がはじまる前の日本社会は、さらにのどかな光景が広がっていました。いまでは、敗戦後の日本人は、頑張って頑張って、焼け野原からの復興、そして「奇跡の」高度経済成長を達成したのだという、一本調子なイメージが一般的かもしれませんが、案外、そうでもなかったのです。

さて、歴史経済学の権威、中村隆英氏の『昭和史(下)』によれば、1970年代のはじめ、可処分所得のバラつきがいちじるしく小さくなり、日本社会が「中流」化をしました。また、メディア史の佐藤卓己京都大学大学院教授によれば、それまでごく限られたエリートのものだった大学受験は、1970年代に大衆化(「受験戦争」という言葉が新聞紙面に定着したのは、1970年代)、「ピンからキリまで進学する」時代となりました(『青年と雑誌の黄金時代──若者はなぜそれを読んでいたのか』2015)。

この頃、「月刊生活指導」という、学校教師が読む雑誌に、藤原喜悦・東京学芸大教授が、能力差について書いています(『月刊生活指導、1972.10臨時増刊』)。

昔は中学校というと、大体20%近くしか行かなかった。〔略〕ところが、いまは義務教育で全員が中学校に行く。その中学校へ来ている生徒が、なかなか簡単には解決できないような問題を一生懸命やらされている。〔略〕これが昔の中学生だった私たちと、いまの子どもたちとずいぶん違っているところではないかと思います。どこが違うのかといいますと、一般的に言えば、非常に大きな能力差をかかえているということです。できない者はほんとうにできない。〔略〕そうすると、{評価で}1をつけられる人はいつもきまってしまいます。それで「おれはまた1か」ということになり、通信簿は少しも変わりばえがしないということです。できる子どもたちは、「この前は4だったけれども、今度は5になるかしら」と、期待におののいてくるが、最低の子どもは「また1か」「また2か」ということになりやすい。こういうように、非常に大きな個人差をかかえている青年たちを、私たちは中学や高校で取り扱わなければならない。

この文章が発表された1972年は、井上陽水が「東へ西へ」で「ガンバレみんなガンバレ」と歌った年。まさに、「みんなガンバレ」の時代でした。「みんな」の時代になって、みんなが中学に、そして高校に、大学に行く時代となって、「できない子」をどうするかという問題が出てきました。同年、都立城北高校(いまの桐ケ丘高校)の教諭が、同じく「月刊生活指導」に、「勉強についていけない生徒」を書いています(『月刊生活指導、1972.11』)。そこでは、生徒に「きみたちは城北高校を望んできたのか」と質問すると、能力がないからここに来た、だから入学当初からやる気がないのだ、と答えたとして、「はじめから「やる気がない」生徒たちに対して私たちがなすべきことは、「能力がない」というかれらの迷妄を打破してます「やる気」をおこさせることである」と書いています。

「頑張れば夢がかなう」といった、現実というよりむしろファンタジーといえる言説は、管見の限り、学校教育の現場から出てきたと推測されるのですが、おそらくそれは、こうした、できない子、やる気のない子が大量発生した状況に対し、「やればできる」と教師らがハッパをかけたことによるものであり、それに対し、彼ら「落ちこぼれ」たちが、「ひとつの目標を持ったら、それをやりとげるまで頑張ること。それが、オレたちのツッパリさ」(by横浜銀蝿)と応えた、ということではないか、と思います。

1970年代に出現した「平等社会」(一億総中流社会)は、努力量が称揚の尺度になるという価値観を生みました。当時から教育現場では「できない者はほんとうにできない」という圧倒的な能力差が存在していましたから、その平等社会とは、当初から「一見平等社会」であり、「建前としての平等社会」でしたが、ともかくも教師たちは生徒たちに対して「やればできる」とハッパをかけましたし、そればかりか、社会全体が、「やればできる」教に染め上げられていました。

当時の人々がそう思い込んだ理由のひとつは、おそらく、焼け野原からの復興~奇跡の高度経済成長という成功体験があり、それを成し遂げたという自負があったこと、そしてもうひとつは、その時代の恩恵をもっとも受けたのが、それまで貧しかった人たちだったこと、だと思います。

つまり、それまで社会の底辺で貧しい暮らしを送っていた大勢の庶民が、戦後復興から高度経済成長に至る過程で豊かさを手に入れたことが、「やればできる」と思い込んだ大きな要因であったと思います。それまでは、農家の子は農家、漁師の子は漁師となり、ムラ社会のなかで、大それた夢も持たず、先祖代々と同じような暮らしを営み続けるのが当たり前でした。ところが、社会全体が格差縮小に向かうと同時に、進学、受験が大衆化し、小学校から中学校、さらには高等学校、はては大学にまでも、みんなが進むようになりました。自らが望み、努力をすれば、目の前には輝かしい未来が待っている、そう信じることができました。

ですが、この「平等社会」は、長くは続きません。というか、『新・日本の階級社会』(橋本健二講談社現代新書、2018年1月、p7)によれば、格差は高度経済成長を通じて縮小し、1975年から1980年頃にもっとも小さくなりましたが、その後は反転上昇に転じ、1980年前後から今日にいたるまで格差の拡大は続いているとしています。

「一億総中流社会」という言葉が定着し、人々が日本社会を「一億総中流社会」とひろく認識しだしたときにはすでに、格差の拡大は始まっていました。人々がみずからを「中流」と認識し、「平等社会」と思っていたときにはすでに、格差も、能力差も存在していたにもかかわらず、人々は自らが成し遂げたと思い込んだ成功体験から、「やればできる」というファンタジーを信じ、「みんなガンバレ」と、あたかもただガンバリさえすれば豊かな暮らしや幸せや成功がその先に待ち受けているかのように、お互いを励ましあってきたのですが、残念ながらその先には、バブルとその崩壊、失われた○十年、そして、橋本健二氏が主張するような、固定化された下層階級がうまれてしまった、といったところかなと思います。

「みんなガンバレ」の時代は、そのはじまりと同時に終焉がはじまっていたにもかかわらず、その現実に目を向けることなく、「頑張れば豊かになれる」「頑張れば幸せになれる」「頑張ればなんとかなる」という、根拠のない神話にしがみつき、拡大するいっぽうの格差は放置され(橋本健二氏)、頑張れない人はふるい落とされ、結果、いまのいびつな社会が形成されてきた、ということだとすれば、いまの社会の根本的な欠陥を生み育てたのは、この国に暮らす、すべての人々だということになります。

ところで、根拠のない神話に人々がしがみついた、といえば、昭和20年の終戦のときも、そうでした。

「決定的な破局に瀕しながらも、「神国」日本が負けるはずがなく、土壇場で「神風」が吹いて勝利が日本の上に輝くといった宣伝に、最後の望みをかける人も少なくなかった」(『資料日本現代史2敗戦直後の政治と社会①』p479)

結局のところ、104歳の篠田桃紅さんが語るように、「何とかなるさで、その何とかっていうのに任せちゃってる」のが、ぼくら日本人なのかもしれません。

小磯内閣への「本間報告書」には戦時下民衆のリアルの一端が

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特高月報ネタが好評みたいなので、あまり知られていない重要資料「本間報告書」について書きます。

本間報告書とは、小磯内閣の時に内閣の私的顧問だった本間雅晴陸軍中将が、内外のさまざまな動向を広く収集、報告していたものです。とりわけ、当時の国内の民衆のようすがリアルに記されている点が貴重です。

一部を抜粋します。

 昭和19年9月25日

一、決戦に相当の成功を収めたる後之れを機会に外交戦を以て戦争を終局に導くべきや或は戦争を更に継続して最後まで滅敵進軍すべきやに付いて両論衝突し国論遂ひに分裂することを予想し今から肚を決め置く要ありとして識者間に相当の準備を為すものあり。
二、日本の創造せる重要なる決戦兵器が10月中旬に完成するとなし、又物的戦力が今秋が山だとの見透しと更に米大統領選が11月と睨合せ大体11月から12月頃に決戦が行はれるものと国民が想像している。決戦に対しては大衆は大いに期待しあるも有識層は懐疑的なり。

昭和19年10月12日

三、近時重臣層の関心の重点は外交妥協にあり、政府は此の重臣群の意欲に押されて徹底抗戦意志力を弱化するの已むなきに至り、やがて対米英妥協の手段を取るに至らんとの見解が巷間に流布され、之れに対し陸軍中堅層は対政府不満を抱き又戦争発端当時の為政府を繞る一群は若し之れが表面化することあらば即ち現内閣運命の終点なりと伝え以て本問題は現内閣の試金石として有識者は其の賛否何れの陣を不問ず注視静観しあり。
四、内閣は外交妥協に乗出す時、爾余の機関、並団体は順応するも翼賛壮年団のみが強硬論一本調子で政府に楯を突く処あり。故に今の中に之れが去勢策を講ずべしと閣内の一部に主張するものありと巷間に噂されあり。
而して此の理論を繞りて翼壮こそ徹底抗戦派の本城たらしめんと感激するものあり。

昭和19年10月19日

三、現内閣今日までの「スローモー」は今次大戦果に依って国民から「帳消」にされたるを以て爾今政策の実行面に於て国民を指導引率するに足る政治追撃戦を敢行されたしと希望する者多し。

ここの「今次大戦果」とは、台湾沖航空戦とみられます。次も同様。

昭和19年10月20日

四、大戦果の為め小磯内閣の寿命は延長せりとの観を与へ、民間は現内閣に信頼するの空気濃厚となり、官界人は又腰を据へてやろうと云ふ態度を示し来たれり。

昭和19年10月23日

三、地方視察より帰来せるものの談は左の点に於て概ね一致す。
1 県庁の役人、特に課長以下属僚が権力を振り廻して威張り散らすこと目に余るものあり。又彼等の貪官汚吏的行為は反感を唆り、増産意欲を衰頽せしむること大なり。
2 各地方統制会幹部は旧来営利業者出身多く其頭を其儘として態度のみ役人気取りとなり其地位を利用して私利を営まんとする徒輩多し、大改革を必要とす。
3 民心の悪化顕著なり。其原因多々あるも転廃業者、徴用工、棒給生活者等に於て著しく赤化の温床たらんとしつつあり。
又一般農民の自己中心的傾向も漸く甚だしからんとする傾向あり。
四、米軍の比島上陸は台湾沖の大戦果の喜びに冷水を浴びせたる結果を生じ、国民は敵大輸送船団に対する我空軍の無力に失望し、月産2500と称する飛行機は机上の数字なりや、若くは多数の不合格機をも包含する数字なりやとの疑問を起しつつあり。
某陸軍将校の談によれば比島に在る飛行機は100機中真に飛び得るもの40機にして整備資材等能力甚不十分なり。

昭和19年10月30日

二、内閣顧問の発表を見たる一般国民は恰も同時発表なりし20代30代の勇士が必死爆撃に挺身する壮烈なる第一線部隊に思ひ較べ其の顔振れが余りにも戦時色の希薄さに失望したるのみならず、太平洋決戦の真只中に於て「政府は是れでよいのか」との感を深くせしもの少なからず。

昭和19年11月1日

一、右翼方面の意見
(イ)現内閣は戦勢有利に転換せざるまま米英側と妥協するに非ずやとの危惧の念を有し、之が戦意昂揚と両立せざるものあるやに感ぜられしが今次大阪に於ける総理の演説に於て此点に関する政府の態度を明示せられ安心を与へたり。
六、対米英決戦場に於て神風必死隊の登場し、国民は此の報道を聞いて感泣しある反面、政府の政治措置として現れたる人事の発表を見て彼等は極度の対政府失望感を露呈しあり。
右は翼壮、産報、農報等中堅指導者の総合的意見にして全国青壮年階級も同様なりと見られるべし。

昭和19年11月10日

一、比島沖海戦の戦果偉大なりしに拘はらず、米国の誇大虚構且執拗なる放送の為世界は米国の大勝利を信ずるに至り「ソ」連並中立国に与へし影響少からず。最近に於ける宣伝戦は明白なる敗北なり。其責任を宣伝機構上の欠陥に帰するもの多きも現機構を以て尚ほ為し得ること少からざるべし。

昭和19年11月21日

一、レイテ島戦況の見透しに対し海軍側は沈黙冷静を守りあるに対し陸軍側は極めて楽観的態度なり。
ガダルカナル撤収以来今日まで度々陸軍側観測が必ずしも当たらざりし結果世間では亦此の観測に疑を抱きあり。

昭和19年12月23日

一、比島戦況の我軍に楽観的にならざるに対し、陸軍省部内に於ては、比島は天王山に非ず、又、斯くなりたるは海軍の制海権喪失に起因す、との意見散出し恰も陸軍当局者は戦況に対する見透に就き確乎たる自信を失ひたるかの如き観あり。

昭和20年1月26日

一、地方民心は慚次戦局に対し絶望的に陥りつつあり「マニラ」陥落するに至らば相当の動揺を免かれず。

昭和20年1月31日

一、議会に於ける問答中新聞に現れたるもののみに就て見るに「非死必殺の新兵器生れつつあり(八木技術院総裁)」「飛行機生産は楽観して可なり(遠藤航空総局長官)」「油は十分の分量あり(吉田軍需相)」「食料は心配の要なし(島田農商相)」「国内の治安は良好なり(大達内相)」等々
何もかもうまく行って居ると云ふ形なり。
之等を「ラヂオ」にて聞き何と云ふ出鱈目ばかり言ふのかと憤慨して「ラヂオ」を叩き毀したるものあり。
そんなにうまく行って居るのに敗戦を重ねて行くのはどういう次第かと訊ねる農民あり。

ここから読みとれること。

政府や軍にとって、「戦果」とは、無条件降伏ではない、条件つきの講和、しかも、できるだけ有利な講和に必要だったものですが、それだけでなく、悪化する民心をつなぎとめるために欠かせないものでした。台湾沖航空戦の「大戦果」は、(すくなくともいっとき)国民に歓迎され、小磯内閣への不興を帳消しにする効果がありました。

国民は「米軍の比島上陸」に失望する一方、「20代30代の勇士が必死爆撃に挺身する壮烈なる」姿、「対米英決戦場に於て神風必死隊の登場」に感泣しました。

ガダルカナル撤収以来今日まで度々陸軍側観測が必ずしも当たらざりし結果世間では亦此の観測に疑を抱きあり」「何と云ふ出鱈目ばかり言ふのかと憤慨して「ラヂオ」を叩き毀したるものあり。そんなにうまく行って居るのに敗戦を重ねて行くのはどういう次第かと訊ねる農民あり」といった記述から、少なくともこの時点では、国民はいわゆる「大本営発表」をあまり信じていませんでした。

など。

※とりあえず初稿アップします。本間報告書は他にも興味深い記述があるので、後日追記するかもです。

情報求ム:ブルガリア首都ソフィアでソ連の対日参戦情報を得た「梅田」氏

Bulgaria

来年、ブルガリアの首都ソフィアに行く計画を立てています。観光ですが、戦時中のソフィアに、「梅田」を名乗る正体不明の人物がいたとの情報を知ってから、気になっていた地なのです。

戦時中、ブルガリア駐在陸軍武官秘書としてソフィアに赴任していたことがあり、戦後は広島県可部町で町会議員などをしていた、吉川光(きっかわ・あきら)という人物が、こんなことを書き残しています。

吉川氏は、1943年6月10日からソフィア赴任。ブルガリア三国同盟側についたもののソ連には中立を守った、とのことでしたが、1944年9月6日深夜、突如ソ連軍が武力進駐。その後、11月1日にイスタンブールに脱出するまでの間を、ソ連が包囲するもとで過ごしたといいます。

そのソ連占領下の出来事でした。

そのころ、ソフィアに「梅田」と名乗るただ一人の日本人がいた。日本の竜谷大学卒業の僧侶で、自費留学中戦争で送金が不能となり、朝日新聞の通信員であると自称していた正体不明の怪物で、日本公使館筋は反間諜者の疑いありと敬遠し、日本軍部からも要注意人物として接触せぬようにと注意があった。しかし私にはいか物食いの性癖も手伝い、また放浪の日本人として興味と同情もあって彼と内密に交際し、若干の物質的援助もおしまなかった。10月末のある夕方、彼からの電話呼び出しで公園の一隅で密接した時のことである。彼は突然私の耳許に口を寄せてささやいた。「ドイツ降伏後三ヶ月以内にソ連は対日参戦する」と。その情報入手経路は休暇で帰省した駐米フィンランド公使館二等書記官ラムステットから聞いたとのことである。ラムステット書記官の父は、初代の駐日フィンランド公使で日本語をよく話し日芬協会会長の親日家で私も面識があった。この情報は実は、そのころ日本参謀本部が目の色を変えて捜し求めていたテヘラン会議の内容であった。

吉川氏はその内容を武官の清水大佐に伝え、「確度丙で日本へ打電した」ものの、日本からは何の反応もなかった、としています。確度丙というのは、低確度、つまり、あまり確かではない、ガセネタかもしれない、という意味です。

この回想の真偽も不明ですが、当時の世界各地において、各国のスパイたちが、虚実さまざまな情報交換をしていたであろうこと、そして、その諜報戦に日本の陸海軍武官らも加わっていたこと、などは、拙著『終戦史』に、判明したその一端を書きました。軍が雇った民間スパイがいたという話も聞いたことがあります。

とりわけ、ブルガリアのような小国、立地上、大国にその運命を左右され翻弄されてきた国では、さまざまな奇奇怪怪な駆け引きが、歴史上繰り返されてきたのではないか、そんな歴史の雰囲気を、現地に行って、体感したいと思っています。

この「梅田」氏についての情報提供を、求めています。ご遺族の方など、おられましたら、是非ともお話をお聞かせいただけませんでしょうか。

フォームメールか、masato.yoshimi@gmail.com(@を半角にしてください)からご一報ください。ご連絡をお待ちしております。

参考資料:吉川光『「民族協和」の満州国─元関東軍将校の従軍記』(靖国偕行文庫392.9G国)

※吉川資料の存在については、数学史家・木村洋氏から教えていただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。

「頑張る」は日本人に固有の民族性ではなく戦時中の刷り込みです

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これまで「頑張る」というコトバがどのように使われてきたか、過去の文献からたどってみました。

■昭和6年:人生の競争に、遊戯ではない真剣な生活事業の競争に、誰が『頑張れ、頑張れ!』と声援してくれるか。

昭和6年4月の雑誌に掲載された一文から。書いたのは、早稲田大学教授で哲学者の、帆足理一郎。

観衆の乱打する拍手、『頑張れ頑張れ!』と我が名を呼ぶ声、競技者は夢中になって、まっしぐらに決勝点へ突進する。我が名を連呼して、勢いづけてくれるファンが多数であれば、あるほど、自分は彼等の期待に背いてはならぬ。我が脚は折れようとも、心臓は裂けようとも、観衆の助成に感激して、突進せざるをえない。かくて競技者は頑張り、危ない処で最後の勝利を収める。だが、人生の競争に、遊戯ではない真剣な生活事業の競争に、誰が『頑張れ、頑張れ!』と声援してくれるか。

この文章には「一般の観衆が野球その他のスポオトに興味を移して、以前の如く、角力に熱狂しない」などとありますから、ここに書かれた競技者の突進は、野球の走塁のことを指しているようです。

それはともかく、このときすでに、「頑張れ!」という応援が存在していたことと、同時に、「頑張れ!」という応援が、ふだんの生活では使われていなかったことがうかがえます。

「頑張る」が、受験界でも古くから使われていたこと、「ガンバリズム」という言葉も、昭和2年の受験雑誌にすでに使われていたことは、コチラにすでに書いています。

■昭和6年:日本はあくまで満洲に頑張らねばならぬ。

上記記事から約半年後の昭和6年9月18日、満州事変が発生。大日本育英会創立者の政治家・永井柳太郎は、新聞への寄稿文のなかで、

満洲における日本の存在が、ひとり日本の存立のためのみでなく、東亜全局の平和保持のための絶対条件であることを信ずる限り、日本はあくまで満洲に頑張らねばならぬ。今日は日本国民にとりて試練の秋である。政府よ、国民よ、正しかれ、強かれ、しかして明るかれ!

と訴えました(報知新聞、昭和6年11月、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(102-115))。

外交官の杉村陽太郎は、昭和8年、雑誌に「頑張る新日本」と題した一文を掲載します。そこで杉村は、「人間は無理を平気で押し通し、倒れても止まずといふ意気で頑張るところに向上があり発展がある」として、「国家が死か生かの大戦争になると結局国家的な精神力の旺盛な国が勝つ」のだから、「真の国民精神に培ひ、更生新日本の意気で世界の人類に呼びかけねばならぬ」と説きました。

このように、時局とともに、「頑張る日本、頑張る日本国民」といった言説があらわれるようになります。

■昭和14年:「蒋介石のガンバリは敵乍ら強靭、あっぱれ」「石に噛り付いても此のガンバリ競争には勝利せねばならぬ」

昭和12年から始まり、泥沼化していった日中戦争が、「頑張る」を日本国民に要求するようになります。

7月に勃発した事変は、同年12月の南京占領をもって日本軍の勝利に終わったかに思わました。日本国内はお祭り騒ぎになり、商店街に祝賀アーチが立てられ、昼は旗行列、夜は提灯行列が行われ、東京は提灯の“火の海”と化しました。

ですが、蒋介石は屈することなく、なおも抗戦を続けます。戦争は長期化、泥沼化の様相を呈し、「「戦争」は一体何時終るのかナー」といった嘆息(ちくま新書『理想だらけの戦時下日本』井上寿一)が、国民の間で囁かれることとなります。

昭和12年は、戦前の日本の経済力が最高潮だった年(『基本国力動態総覧』)でしたが、日中戦争によって次第に民需が圧迫され、国力は徐々に下降、人びとの暮らしには閉塞感がただよいはじめます。しかし、ここで戦争をやめるわけにはいきません。国内のあちこちから、「頑張れ」の大合唱が湧き起こりはじめます。

たとえば、昭和14年刊行の『体操の研究授業』。「此の前古未曾有の非常時に直面して」時局に即した小学校体育の実践を説いています。

蒋介石のガンバリは敵乍ら強靭、あっぱれ」としつつ、「蒋介石は敗れても、取られても最後の勝利を叫び続けている」「之に負けたら我等は滅亡である。石に噛り付いても此のガンバリ競争には勝利せねばならぬ」として、ガンバリ養成のための体育を強調、「何事も辛棒強く行はせることが肝要であらう。耐久走とか障害物競走とかいった種目は、今後益々重視したいと思ふ」「逆上のやり方などでも、握りがどうの、踏切りがどうの、姿勢がどうのと文句ばかり言っていないで、十回も二十回も続けて行ふやうにするのである」と説いています。

当時の小学生の回顧にも、昭和14年頃のこととして、「体育の課目に重点がおかれるようになった。その当時、教育方法に「練成」という新しい方法概念が導入され、子どもたちは日頃の鍛錬によって強い体に鍛えておくことが奨励されるようになっていたのである。〔略〕学校で、新たに三つの鉄棒を備えたのは、ちょうどそのころのことだった。これまでも鉄棒はあったが、今度のは、それとは比較にならない高さであった」(岡野薫子『太平洋戦争下の学校生活』1990年)とあるから、こうした考えが現場に導入されていったのでしょう。

この時期刊行された人生訓を説く本には、やたらと「頑張り」が登場するようになります。たとえば、新潮社創立者・佐藤義亮は「前進、前進──、この頑張りで、何処々々までも押し進んで行くのみであります」(『向上の道:生きる力 第二編』昭和13年)と訴えています。貴族院議員の永田秀次郎は、雑誌寄稿の「頑張れ日本」(昭和14年)と題した一文に、「今は何といっても胸突八丁、頂は近いのである、汗が出る、呼吸も苦しくなるが、国民はヘコたれないで頑張るのである。〔略〕この時を逸しては頑張る機会はない」と、国民を鼓舞しています。

■昭和17年の東條首相:戦争は意志と意志との戦ひであります。頑張り合ひの闘ひであります。

昭和16年12月8日、太平洋戦争がはじまりました。

大政翼賛会は、「大東亜戦争に処する国民の心構へを指導する標語」として、「国運を賭しての戦ひだ 沈著平静最後まで頑張れ」を掲げます。その下部組織、中央協力会議が開催した昭和17年9月26日の会議。

冒頭の東條首相は、「戦争は意志と意志との戦ひであります。頑張り合ひの闘ひであります。〔略〕最後の五分間迄頑張り通したものに、勝利の栄光は輝くのであります。〔略〕一億国民が奮起し、而も飽くまで頑張りを必要とする、洵に今日より大なるはなしと申すべきであります。而して米英の頑張りは絶望の淵に臨むあがきであり、日本の頑張りは光明に満てる建設の喜びであります」と、頑張りという言葉を五回も繰返し、大いに「頑張主義」を力説した「頑張り演説」を行いました。

「頑張る」は、もはや国是となったのです。

新聞紙上にも、「頑張る」の単語は頻出します。朝日新聞の見出しにおける「頑張る」系単語の件数は、各年の頁数の差を補正したデータでみると、この時期、著しく突出しています。もっとも多かったのは昭和18(1943)年の、43件。

「ソロモンの前線・航空基地を征く 頑張る「ガ島の仇敵」敵の猛爆下に設定」(3月3日)
「いいか!空襲下の構え/怠るな警報下の緊張 防水第一・水の用意 各人、持ち場に頑張れ」(4月18日)
「“芋飯”で頑張ろう」(7月7日)
「増産に気負う学徒の“頑張り”を善導せよ 勤労職員の真価発揚へ」(8月22日)
「24時間ぶっ通し 防訓日割変る 戦果に応え頑張ろう」(11月6日)
「来年こそ「決勝」の年 持場職場で頑張ろう」(12月31日)

といったように、戦争一色となった世相が反映されたラインナップになっています。
また、これらの言説は、軍部や政府のスローガンばかりではありませんでした。当時、さまざまな人々が、口々に「頑張れ」と言い、国民自らが、戦争遂行という国家目標に向かい、徹底抗戦へと人々を煽り立てていたことがわかります。

■昭和18年:頑張り通し得る伝統的尊き精神力を持てる国民

太平洋戦争後、「頑張る」の言説は歪みはじめます。もともとは「頑張らない」国民性だったはずなのに、「世界一頑張る国民」、との主張までもがあらわれます。

日本初の経済評論家・高橋亀吉が発行する「高橋財界月報」昭和18年7月号では、「経済総力に於て仮りに米国が日本に数倍するとも、経済戦力に於ては日本が米国に優る結果を生ずる」としています。なぜなら、「国民の頑張力の如何は、その国経済戦力の強弱大小を決定する最も重大要素」で、日本人にとってこの戦争は「如何に苦しくとも最後まで頑張り通さねばならぬ戦争」で、かつ、「頑張り通し得る伝統的尊き精神力を持てる国民」だからだといいます。

そして、「戦争に対する銃後国民の頑張力(生産増強と云ふ積極的努力に対する国民の頑張力及び戦争の要求する経済的重大犠牲、生活上の重大苦痛等に対する消極的頑張力)に於ては、日本は世界に於て最も優れ」ているというのです。

■敗戦後:われわれはみな、何をするにものろのろとやり、茫然としている。

敗戦とともに、「頑張る」はいったん下火となりました。

ジョン・ダワーは、『敗北を抱きしめて』で、「頑張る」について、戦時スローガンのなかでも最も使い古された言葉であり、「戦後の再建、平和、民主主義、新日本のために働こうという宣伝にもよく使われた」と書いていますし、プランゲ文庫をみても、「頑張る」「頑張れ」「頑張ろう」「頑張りませう」「頑張るぞ」「頑張って」「頑張らうぜ」等々をタイトルに含んだ記事は多数存在します。

ですが、朝日新聞の見出しにおける「頑張る」系ワードの出現件数は著しく減少。昭和24年までの紙面が一日わずか2ページと少ないこともありますが、敗戦後、昭和24年まではたったの計4件。その後ページ数が回復しても、十数年間は年間ヒトケタ台と、戦前戦中、とりわけ、太平洋戦争中の突出頻度に比較して、隔世の感があります。

占領下の日本人は、自らの進路を自らの手で決めることすらできませんでした。「まともに働いていても食えない、というよりは、まともに働いていては食えない」時代でしたし、政府にしても「まず生きるための仕事をもらいたい、国民にもそういうものを植え付けたいというだけのことで、行き当たりばったりですよ」(産業政策史回想録・吉田悌二郎氏)と、何をどう頑張ったらいいか、途方に暮れていたというのが実態でした。『菊と刀』では、東京でのある日本人男性のこんな言葉を伝えています。

もう爆弾が落ちてくる心配がなくなって、ほんとにほっとした。ところが戦争がすむと、まるで目的がなくなってしまった。みんなぼうっとしていて、物事をうわのそらでやっている。私がその通り、私の家内がその通り、国民全体が入院患者のようだ。われわれはみな、何をするにものろのろとやり、茫然としている。

朝日新聞「声」の欄をみても、「頑張る」よりもむしろ、「元気一ぱい働こう」など、さまざまな励ましの言葉が使われています。当時の多くの日本人は、かつての官制スローガン、軍国主義と結託した「頑張る」ではなく、新しく明るい、「再建日本」にふさわしい言葉をさがしもとめていたのではないでしょうか。

「頑張り主義」は、敗戦によって、大失敗に終わったのです。日本の、日本人の「頑張り」がもたらしたもの、それは、空襲で徹底的に破壊された、焼け野原の町でした。

■日本人≠頑張る民族

天沼香・東海学院大学教授(歴史人類学、日本近現代史)は、「頑張る」をテーマに、2冊の著作(1987年、2004年)を刊行し、「頑張り」の精神を、日本人に固有の民族性、行動原理の核の一つだと結論づけています。

ですが、これまでの文献を読むかぎり、「頑張り」の精神とは、昭和に入ってから、とりわけ満洲事変以後の時局にともなって喧伝されたものです。泥沼化した日中戦争を続けるための、いわば「方便」として使われ、さらに太平洋戦争では「頑張り通し得る伝統的尊き精神力を持てる国民」にまで昇華してしまいました。

要は「火事場の馬鹿力」で難局打開を夢見た、きわめて都合のいい精神主義であったといわざるをえません。

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ

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前回を書いたあとに、ひとつの疑問が生じました。

「頑張り圧」は、いつ日本社会に定着したのだろうか。

多田道太郎が「頑張る」の考察をはじめて書いたのは、1970年11月23日に日経新聞に掲載されたエッセーです。

このことばを多用している。多用──いやむしろ乱用といってもよい。とりわけ若い人たちの手紙や会話には、一つや二つ、このことばが肝心のところで使われていないことはないといってよい。女の子は「頑張ってね」と言い、男の子は「おたがいに……を目ざして頑張ろう」などという。

1970年、すでに当時の若者の間で「頑張る」が乱用されていたことがわかります。

前回に書きましたが、1963年の段階では、元来の「我意を張り通す」の用例が見られます。また、大宅文庫で雑誌記事をみていくと、70年代に入っても、美徳とは思えない用例がしばしば見られます。

例1)1971年の「週刊新潮」→「まだ頑張っている阪大医学部不正入学者二人」

例2)1971年の「財界」→「なぜ“繊維”は頑張るのか/ニクソン大統領の政府間協定という強硬な申し入れにもかかわらず、繊維業界は頑強な抵抗を見せている」

この後は「がんばれサラリーマン」(アサヒ芸能、1972~1973年連載タイトル)といった感じで、いまの意味合いが主流になっていきます。美徳としての「頑張る」が日本社会にあふれ、つまり「頑張る」が日本社会でデフォルト化した、「頑張り圧」の定着時期は、70年代の初頭あたりと考えていいでしょう。いまから50年ほど前、ということです。

元の意味、美徳ではない「頑張る」が、1970年代に入ってからも使われていたことは、世代間の違いによるものではないかと思われます。1924年生まれの多田道太郎はこの頃、50歳前後。彼らが戦時中の「頑張れ」の怒号にも洗脳されず、戦後も元の意味、「いささか「悪い意味」」(多田)で使いつづけたのでしょう。

いまの「頑張る」を広めたのは、当時の若者世代、1947年から1949年に生まれた「団塊の世代」を含む、戦後生まれの世代なのです。

井上陽水が「東へ西へ」で「ガンバレみんなガンバレ」と歌ったのは1972年。まさにこの頃から、「みんな頑張る」時代が到来したのです。

時代背景についてざっくり述べておきます。

1968年、日本はGNPで世界第二位になったことが、翌1969年6月10日に経済企画庁が発表した国民所得統計(速報)で明らかになりました。ここから、日本人が「経済大国」の自負を持つようになります。すでに高度経済成長がはじまって15年。右肩上がりに豊かになる暮らしを、人々は実感していました。

この年、「モーレツ!」ということばが流行します。
石油会社のガソリンのテレビCMで、モデルの小川ローザが発した「オー・モーレツ!」です。子どもたちの間では、このことばをかけ声にしたスカートめくりなどが流行したそうですが、僕は当時4歳だったので、スカートめくりはやってません。ここから、組織の目的に迷わず突進していく「モーレツ人間」や「モーレツサラリーマン」などのことばも生まれました。

あ、高度経済成長中ずっと日本人がモーレツに頑張って働いてきたというのは勘違いです。「三丁目の夕日」や「スーダラ節」の時代の日本人は、当時、サラリーマンのあいだで「遅れず・休まず・働かず」といった合言葉が流行っていたように、さほど頑張ってはいませんでした。状況が一変するのは、1964年の東京オリンピックのあと。「根性」が流行し、「四十年不況」を境にして産業界に少数精鋭主義がうまれ、「猛烈社員」への称賛が生まれて以後のことです。

みんなでいっしょに頑張って、経済大国の座、豊かな暮らしを手に入れたという「成功神話」が、「みんなガンバレ」という思考停止社会を生み、その後、日本社会は、日本人は、「頑張る」といえば聞こえはいいけど実際は頑張るふりさえしときゃいいだろ的な実質他律依存的甘ったれなぬるま湯に浸かったままでバブル崩壊やら失われた何十年やらをずるずると過ごし70歳前後の団塊の世代はいまだに「みんなガンバレ」に埋没するかもしくは「気まぐれ」な日々を満喫するかで僕ら下の世代は次世代の価値観を確立できないでいる、ということではないかと思うのです。

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