週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

平和≒戦争:「戦争は絶対にダメ」は、逆に戦争へのエンジンとなりうる

IMG_2550

「戦争は絶対にダメ」という言説が「無条件」で受容される社会は、戦争が「無条件」で肯定された、かつての日本と本質的に同じで、自主的思考より、求められた役割を忠実に遂行することが賞賛される社会は、戦争へ進む危険を常にはらんでいると思います。

昨夏に感じたことを、今になって書きます。

毎年、8月の終戦記念日のあたりになると、戦争を体験したお年寄りたちが、新聞やテレビなどのメディアに登場して、「戦争は絶対にダメだ」と語ります。いつからか、それはこの国の恒例行事となっています。

平和を尊ぶ精神は素晴らしいもので、文句のつけようがありません。それに、彼らの実体験を知れば、その悲惨な体験をくぐりぬけてきた彼らが「戦争は絶対にダメだ」と訴えるのは、しごく当然にも思います。

ですが、それを聞かされる僕らの側(彼らを取材し、そのことばを伝えるメディア、ジャーナリズムをふくめて)が、その言説を無批判に受け入れることは、危険だと思います。

なぜなら、「戦争はダメ」という高い理念をかかげ、しかもそれを「絶対に」とするのは、ひとつの主張に対し一切の異論反論を許さないという考え方であり、それはかつて、満洲事変以降、国際社会に対して独自外交という高い理念を掲げて邁進、衝突し、とうとうアメリカとの戦争にまで踏みこんでしまった当時の日本を主導した考えと、共通しているからです。

いま、平和を「無条件に」肯定し、戦争を「無条件に」否定する勢力とは、事態がいったん変われば、戦争を無条件に肯定し、「鬼畜米英」を叫んだかつての勢力のような存在へと、すんなりと移行してしまうのではないか、僕は、それを危惧しています。

もちろん、戦争はダメです。通常の外交努力を放棄して、一国の主張を力づくでもって、相手国や国際社会に認めさせようとするなど、言語道断。どの時代であっても、許されるものではありません。

ですが実際には、この世界の歴史のなかで、人類は戦争を起こし続けてきました。日本だってそうです。戦国時代なんて合戦につぐ合戦です。「戦争は絶対にダメだ」というのなら、織田信長豊臣秀吉徳川家康も、その他おおぜいの戦国武将たちも、厳しく批判しなければなりませんし、大河ドラマでヒーロー扱いするなど、もってのほか(ですよね?)。

理由のない戦争などはありません。戦争をなくそうとするのなら、理由にまで踏み込んでいかなければなりません。「絶対にダメ」と主張するだけなら、それはキレイゴトです。キレイゴトが、毎年8月15日になると、この国を覆いつくすこと自体、僕らが戦時中から本質的にまったく変わっていないことを示しているのではないでしょうか。

「鉄板」化の果てにあるものは、自主的思考の放棄です。

進むべき道が自明だった時代。自主的思考を放棄できた時代。」では、「戦争末期、空襲の際に防空壕に逃げ込みながら「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と考えた」と書いた、当時19歳だった男性の新聞投書を紹介しました。ここでは、その掲載全文を紹介します。

戦争末期、空襲の際に防空壕に逃げ込みながら「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と考えた。ある日の空襲は特に激しく、母屋は全焼。隠れていた防空壕も、熱と煙で息苦しくなった。蒸し焼きになると思い、近くの池に飛び込んで九死に一生を得た。
戦後70年の今、戦前・戦中の価値観を評価する風潮がある。「命を投げ出しても守るべき価値がある」という主張を聞くが、私の若いころもそうだった。特攻隊員が心ならずも納得させられたのは、こうした論理だったのではないか。
戦後の平和憲法には、私が必死に求めていた個人の生命を最優先する主張が明確に入っていた。「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)。
しかし、自民党の改正草案では「全て国民は、人として尊重される」となっている。「個人」は国家などの組織に対抗する概念で、地位や職業と切り離した「一人の人」だ。だが「人」は生物学的な概念に過ぎず、人間性を軽視している。このことの危険性を、私たちは自覚すべきではないか。
(無職・日野資純・静岡県・89歳、2015.3.15朝日新聞)。

自主的思考を放棄することは、思考のアウトソーシング、他律依存です。思考停止を強いる言説は、戦争へのエンジンです。

戦後の日本社会は、自主的な思考、人それぞれの個性や自主性を尊重することを尊重してきたのでしょうか。終戦後、

わずか数年で、国民の間に伝統回帰的な風潮がめばえ、子どもたちの自主性や個性を尊重する「新教育」に対する反発から、昔ながらの問答不要のしつけを学校に求める声が強まったことや、昭和39年の東京オリンピック後に、軍隊ばりの、あるいは軍隊顔負けの「根性」ブームが起き、その後、体罰、しごき、精神論が教育現場で猛威をふるったこと(過去に向きあう。未来を手に入れる。

を思えば、残念ながら、僕にはそうは思えません。

この国は、ひとりひとりが自分で考えて判断することよりも、既存の社会のあり方や価値観を疑いもなく受容し、規範を忠実に守り、求められた役割を忠実に遂行することを、推奨しつづけてきたのではないでしょうか。

先日手にとった本に、僕の考えと同じことが書いてありました。

「戦争」という言葉を聞いただけで思考停止に陥り、反射的に「反対」という言葉を頭に浮かび上がらせるのは、非常に危険な思考停止である。戦争に無条件に「反対」することは、状況が変われば、無条件に「賛成」することにつながりかねないのである。
~倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書、2017年)p292

「戦争は絶対にダメ」という言説が無批判であふれる社会は、その傾向が強まれば強まるほど、逆に戦争への道を進んでいく、僕にはそう思えてなりません。