週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

日本人の正体に関する仮説:「変身」する仮面ライダーは僕らの化身

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近現代を生きる僕ら日本人には、2つのアイデンティティ(もしくはパーソナリティ)があります。

ひとつは、「104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」 」に書いたような、あっさり・さっぱりとしたタイプ。

ものごとを「なんとかなるさ」とか、「明日は明日の風が吹く」とかいうように楽観的(もしくは他律的)に考え、「なんとか」の内容を徹底的につきつめることなく、最後はその「なんとか」なるものに任せてしまう、ある意味、無責任でテキトーなあり方。

奮闘努力の精神に乏しく、あきらめやすく、粘り強さに欠けた国民性。

和辻哲郎が『風土』に書いたように、思い切りのよいこと、淡白に忘れることを美徳とし、ぱっと咲き、ぱっと散る、桜の花に象徴される気質。

これがデフォルト、いわば土着のアイデンティティです。

もうひとつは、それとは真逆のアイデンティティ。「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった」に書いたように、「国民性は造られるべき」との考え方にたって提唱された、「勤勉」に代表される、あるべき日本人像。

奮闘努力の精神に溢れた、あきらめず、粘り強い国民性。

「非常時」の戦時中から、戦後の高度経済成長期にかけて、日本国民に刷り込まれたもので、端的にいえば、「がんばる日本人像」です。

この相矛盾したパラレル状況について、月刊教育誌「児童心理」の特集「ねばり強い子」(1980年7月号)で、大橋幸(当時東京学芸大学教授)は、こう書いています。

日本人の多くは、「さっぱり」した人間や物(特に食物)を良しとする伝統の中に、今日もなお生き続けている。言い換えれば、「ねばり強さ」とは対照的な文化の中で、日常生活しているわけである。

テストの成績も、部活の成績も、およそ教育の場で価値のある課題や目標は、ねばり強くなければ達成不可能なので、ねばり強さが要求されます。反面、人間関係のうえでは、執念深かったり、こだわり続ける性格は好ましくなく、「あっさり」が求められます。かくして日本の子どもは、矛盾したパーソナリティを同時に要求されることになる、と、大橋教授は書きます。

わが国では、「いかにもスポーツマンらしく、さっぱりした性格」といった表現が何の不思議もなく用いられている。しかしよくよく考えてみると、この表現は少々おかしい。優れたスポーツマンであるためには絶対的に「ねばり強く」また「執念深く」なければならず「スポーツマンらしく、さっぱりした」という表現はそれ自体矛盾している。

この矛盾、子どもたちはもちろん、すべての日本人が抱えるこの矛盾を痛快に解決してくれるのが、あまたの変身ヒーローではなかったかと、僕は思うのです。

歴代の仮面ライダーや、ゴレンジャーにはじまるスーパー戦隊シリーズなど、「特撮変身ヒーロー番組 年表(年代別 変遷の歴史) - NAVER まとめ」には、たくさんの変身ヒーローが列挙されています(個人的には、「インドの山奥~」のレインボーマンが好きでした)。

日本のヒーローが変身すると強くなる理由」では、日本のヒーローと、欧米のヒーローの違いを、こう説明しています。

日本のヒーローは変身する。変身することによってパワーアップして敵と戦います。変身前は普通の人間で、変身後は超人というケースが多いです。〔略〕欧米のヒーローとして有名なスーパーマンは、普段、クラークケントとして生活して、何かの危機が発生するとスーパーマンとして現れます。でも、クラークケントの時でもスーパーパワーは持っています。正体を隠しているだけで、どちらの状態でもスーパーパワーを持っています。つまり、スーパーマンは変身によってパワーアップしているのはないわけです。スーパーマンのあの衣装はいわば「立場」を表明しているものであって、そこにスーパーパワーはありません。それはスパイダーマンやフラッシュでも同じです。バッドマンはその衣装が装甲にもなっていて防御力を上げているのですが、それでも衣装がスーパーパワーを与えているということはありません。

ふだんの生活はデフォルト、土着の国民性で暮らし、いざ、頑張りやら踏んばりやら粘り強さやら奮闘努力の精神やらを要求される場面になると、別人に変身してパワーアップする。もしくは、その「ふり」をする。

それが、僕らがこの国の近現代史のなかで身につけた処世術ではなかったでしょうか。

つまり、場面に応じて器用にアイデンテイティの切り替えのできるやつ、すなわち、「要領のいいやつ」が、この日本ではいちばんおいしい思いをすることができる、ということなのではないかと。はなはだ残念なことに、「正直者は馬鹿を見る」というのが、僕らの現実なのではないかと、日本の百年の歴史を振り返って、思うわけであります。

104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」

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104歳の現役美術家・篠田桃紅さんのインタビューを、NHKあさイチ(2017年12月14日放送)で見ました。なかでも、「日本の100年を見つめて思うこと」が、僕にはとても興味深かった。

日本人ってのはいったい、心配性なのか楽天性なのか、どっちかもわかんない。
心配してんのかしら本当に、日本の将来ってものを。
楽天的に、何とかなるさと思ってんのかしら。
私はなんだか、後者のような気がする。
そりゃ絶対、何とかなるわよね、何とか。
その何とかの何になるのか、どういうふうになるのか。
そういうことまで考えないわよね、日本人って割と。
何とかなるさで、その何とかっていうのに任せちゃってるみたい。
徹底的なんてことはしないでしょ、日本人は。
どっかふわっと残してるわよ。
西洋人はやるとなったら徹底的ですよ。

以前書いた、「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった 」で僕は、勤勉な日本人像とはまったく異なる、いわば「デフォルトの日本人像」を示しました。

大正末の小学校六年生用国語読本に掲載された「我が国民性の長所短所」には、奮闘努力の精神に乏しく、遊惰安逸に流れ、飽きやすく諦めやすく、一念を通す粘り強さに欠けた国民性が書かれていますが、これは、1913(大正2)年生まれの篠田さんが10歳のときの読本です。

それから20年後、1933(昭和8)年に出された『ガンバリズム─金儲けの探し方と見つけ方考へ方』という題名の本では、金儲けの原則のひとつに「ガンバリズム」を挙げています。「明日は明日の風が吹くといふ気持ち」ではなく、何か一つの目標を考えついたら、諦めずに「頑張って」みれば、「金儲けは立ちどころに湧いて参ります」と説いています。

篠田さんの言う、「何とかなるさ」と楽天的に考える日本人の姿と、この「明日は明日の風が吹くといふ気持ち」は、おそらく同じことを言っています。

「あるべき日本人像」が盛んに言われだしたのは、僕の調べでは1930(昭和5)年頃で、篠田さんは当時17歳。おそらく、篠田さんの人格形成において、このやたらと理想主義的で勇ましい「あるべき日本人像」は、ほとんど影響なかったはずです。

そして、いまだになお、篠田さんがこうした日本人像、徹底的にやる西洋人との比較を語っているというのは、僕ら日本人の心根が、「あるべき日本人像」には染まっていないということを意味していると思います。

たとえばサッカー日本代表。海外、とくにヨーロッパで活躍する、「われらが」原口元気その他の日本人選手は、徹底的な西洋人の流儀をじかに学んでいるから戦える。いっぽう、国内リーグの日本人選手は、デフォルトの「何とかなるさ」的思考から抜け出せていないがために、「何とか」に任せてしまっているから(=他律的思考)、いざとなると、リーダーシップ不在のメダカの群れみたいな無責任集団になってしまうのではないかと思ったり。

なお、篠田さんの言葉には、つづきがあります。

そういうところがやっぱり、日本人ってのは曖昧模糊としたところを残してる。
それが、人間が考え得ないものがあるって、謙虚な美しい性格なのか、無責任極まるものなのか、それはわかんない私には。
両方だとは思う。無責任でもあるし。

ひとつの解釈として、日本は地震津波、台風といった、人間の制御を超えた「天災」が多いため、この土地で暮らす流儀として、「何とかなるさ」という思考スタイルを身につけた、のかもしれません。

根拠はありませんが。

天皇陛下が国民を統合し続ける理由:日本人という求心力は案外と脆い

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「象徴天皇としてあり続けるためには、主権者である国民の理解や支持が必要であり、自ら積極的に動いて国民を統合していくことこそ天皇の役割だと考えているのでしょう」と、瀬畑源・長野県短大准教授は、天皇陛下が考える「象徴」の役割を指摘しています(朝日新聞2017年12月9日朝刊3面)。

日本国憲法の第一章第一条は、

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

となっています。国民主権のもと、国民みんなの考えによって、天皇はその地位にあり、天皇は、「日本国民統合」の象徴であるとされているわけですが、国民統合って、何でしょう。東日本大震災のときのキャッチフレーズ「ひとつになろう日本」みたいなものでしょうか。ではなぜ、この民主主義のもとで、ひとつにならなきゃ、いけないんでしょうか。

天皇陛下は、なぜ、日本国民を統合するために、自らが積極的に動く必要があると考えているのでしょうか。

以前書いた、「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった」では、いまの僕らが考える「日本人らしさ」が、じつは思ったよりも浅い歴史しかないことを指摘しました。

また、「カズオ・イシグロ氏の日本論から:「どん底からの逆転」神話の嘘と罪」では、こう書きました。

日本人としてのアイデンティティは、国民的な(ある種の)イベントによって認識、形成、強化されるものだとも考えています。その意味で、悲惨な戦争体験とは、日本人が日本人であるために欠かせないイベントであり、しかもその最大のものは、1945年8月15日の玉音放送だったのでしょう。別の言い方をすると、終戦の8月15日をもって、日本人はまさしく日本人となったのです。「終戦」とは、ある意味、「日本人」の始まりの日なのです。

日本人という民族は、ずいぶんと古くから、この日本列島で代々暮らしつづけていますが、日本人という自意識、アイデンティティをもつようになったのは明治期以降ですし、そのアイデンティティも、「イベント」によって強化されてきた、僕はそうとらえています。

日本人というアイデンティティが、実は案外と脆いものだということを、天皇陛下は知っているのではないでしょうか。放っておくと、ばらばらになってしまう、幼稚園児が砂場でつくった家のように。

防衛研究所が所蔵する、「天皇制の問題に就て」と題した史料を読んだことがあります。第一復員省資料課が、昭和21年2月に作成したものです(中央-全般その他-153)。以下は、その一部抜粋です。「〓」は読めなかった箇所、{ }内は僕のメモ。若干不正確かもしれませんが、参考までに。

三、天皇制の危機
1.今次世界大戦を転機として世界は圧倒的に民主主義化せらる(民主主義にも各種の形態あるも其傾向として勤労の国家性と)生産機関の社会化は必然
2.世界一環の思想濃化しつつあり
社会は一なる米を中心とする世界連邦との傾向英を中心とする欧州連邦の傾向此場合各国主権は如何になるか
3.航空機の発達により戦争の形態は勿論政治形態の変化は必然的に主権をある程度制限する傾向あり
〓令えば戦争惹起の場合に於いても国際的聯合解決の傾向を生ず
原子爆弾に対する国際的支配の問題、広地域主義の国際的教育、労働条件の国際化
飛行機による交通の発達は世界的領域の観念にて主権を制限す
言語にしても各国文化の国際性を生ず
以上の如き諸要素は国家の特殊性を薄くす
天皇神聖にして侵すべからずの観念も当然変更せらるべきなりとの議論の台頭あり)
更に国内的「デモクラシー」の趨向を見るに
議会中心の「デモクラシー」は国際的には崩壊しつつあり
国際的には其国の執行権を強化するという考え方が支配的なる
議会を通して強大なる政府を造り以て政府の執行権を強化する
という傾向が支配的にして英国が其の範なり
即ち強力なる背景を有する人材の手によって政治をやることが最近の世界の動きなり米国も亦大統領の権限は議会ではどうにもならぬ程強化さ大統領の執行権は今時戦争にて益々強化せられたり然るに現在の日本の民主主義は全く逆行しつつあり
仮令は各の趣旨よりすれば小選挙区制を可とするに拘らず大選挙区制を採用して小党分立の弊を助成しあり
斯くして政治的混乱を愈々激化し其混乱の中に天皇制は翻弄さるる危険性に直面す
将に天皇制は嵐の中心に在りというべし
第四、結言
以上民間の研究を結論付くれは日本国民の意志は圧倒的に天皇制支持てありなから客観的状勢は之れと反対に天皇制は極めて危険に瀕しているといふ事が出来る
従って天皇制を支持せんか為には自然放置の呑気な態度は許されぬ
日本に関する限り天皇制は心配なしとの楽観的態度は禁物てある
然らは之か援護の具体的方法如何といふ事になるのてあるかそれは玆〓{ここでは、か?}
差控へたい、只要は国内的には積極的闘争の展開にあり対外的には天皇〓理論の完成と之か宣布てあるといへるのてはなからうか
(了)

進むべき道が自明だった時代。自主的思考を放棄できた時代。

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あなたの周りに、孫に何でもしてあげた挙句、孫をダメにしてしまった、「優しい」おばあちゃんはいませんか。

ここでその詳細を書くのは控えますが、僕の周りには、います。しかも、一人ではありません。だからきっと、日本全国、そこらじゅうに、そんな「優しい」おばあちゃんがいるのではないか、って気がします。

なぜ、そのおばあちゃんは、そんなことをするのだろう。そう考えたことで、ある仮説にたどり着きました。

その「優しさ」の最大の特徴は、たぶん、先回りしてしまうことです。未来という荒野を先行して切り拓き、きれいでまっすぐな道を作り、さあ、あなたはここを歩くだけでいいのよと、微笑んで待ち構えているのです。…あくまでイメージですけど。

おばあちゃんは、かわいい孫が進むべき道はただ一つだと思っています。疑いもなく思っています。向かう方向は自明であって、だから、孫が自らの頭で悩んだり、迷ったりする必要はないと思っています。悩んだり、迷ったりすることに価値があるとは思っていません。そんなことは時間と手間の無駄だと思っています。

何を立ち止まっているの?
ガムシャラに行けばいいのよ。がんばれば、必ずいいことがあるんだから!

ガムシャラに頑張って豊かさを手にしたと自負する世代は、ガムシャラが成功の合言葉だと思っています。わき目もふらず、一心不乱に、ひたむきに、努力をし続けた者に、素敵なゴールが待っているのだと思っています。

でも、ほんとうの荒野を進むのに、ガムシャラはいけません。どこにどんな危険が潜んでいるか、わかりませんし、方角だって、常に間違っていないか確認しながら進まなければ、どうなるかわかったものじゃありません。ですよね?

おばあちゃんは、孫の自主的思考を奪っていたのだと思います。

新聞に、こんな投書が載っていました。終戦当時に19歳だった男性からの投書です。「戦争末期、空襲の際に防空壕に逃げ込みながら「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と考えた」と書いてありました(無職・日野資純・静岡県・89歳、2015.3.15朝日新聞)。

自主的思考が不十分だったのは、戦時中に限らないと僕は考えています。戦後の高度経済成長期も、日本人は、ひたすらガムシャラに働いてきたからです。ほんとは、戦後の占領期から高度経済成長期の途中まではあまりガムシャラとは言えないのですが、そこはとりあえず、置いといて。

自主的思考が不十分だった期間は、たぶん、「非常時」と言われだした満洲事変(1931(昭和6)年)から、バブル崩壊(1990(平成2)年)あたりまで、約60年間です。あ、バブル崩壊wikiでは1991年からとなってましたが、僕の経験では1990年。当時、六本木交差点の本屋で読んだ雑誌に、「バブルがはじけた」とか書いてあった記憶があるので。

つまり、日本人はこの60年間もの長い間、自主的思考を放棄してきたのです。満洲事変以後の日本は、かたくなに、進むべき道は自明と考え、国際社会との間に摩擦を起こし、泥沼の戦争に突入して、国家存亡の淵に立たされたのが昭和20年。ここで「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と国中が反省すれば違ったのでしょうが、なにしろ悪いのはぜんぶ軍部のせいにして免責された日本人は戦後、豊かさ一直線に邁進します。どん底からの再出発ですから、これ以上悪くなりようがないし、給料は年々アップで毎年目に見えて暮らしは豊かになっていきます。

考える必要はありませんでした。

でも、いまに生きる僕たちは、考える必要に直面しています。どう考える、どう生きる、どう進む。頑張るにしたって、何をどう頑張る。誰かのためではなくて、自分のために。あるいは、自分が大事にする、何かのために。

時には立ち止まったり、振り返ったり、横道にそれたり、立ち戻ったり。効率が悪くても、ひとつひとつをクリアしていくしか、ないですよね。

おばあちゃん、かわいい孫を「善導」するのは、もうやめませんか。やり直しはきかないんですから。

過去に向きあう。未来を手に入れる。

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当ブログの説明は「過去に向きあう。未来を手に入れる。」です。当初は「史料で日本の近現代史の再構築を。」だったのを変更しました。僕にとっては、ほぼ同じことを言っているつもりなのですが、その意味を説明します。

先日、朝日新聞のオピニオン欄に「フェイクとどう闘うか」と題し、米エモリー大学教授の歴史学者、デボラ・E・リップシュタット氏のインタビューが掲載されました(20171128朝刊17面)。

「米国の作家フォークナーがこんな言葉を残しています。『歴史は死なない。過ぎ去りもしない』。歴史は古い事実だけではありません。起きたのは過去かもしれませんが、現代性のあるものです」
ヒトラーの風評を変えようとしたアービング氏ら否定者は歴史に関心を寄せたいのではなく、現在を変えたいのです。彼らがやろうとしているのは、歴史を改めて違う形にすることで、いまと未来を変えようとしているのです」

歴史は、ときに創られるものです。個人の歴史が、意識的あるいは無意識的に、しばしば誇張され、あるいは矮小され、忘れられ、書き換えられるのと同様、国の歴史にも創作があります。そのほうが、いまを生きる人にとって、少なくともそのうちの誰かにとって、都合がいいからです。過去を書き換えることは、現在と未来を書き換えることにつながります。

日本の近現代史にも、創作があります。創作に満ちあふれている、といったほうがいいかもしれません。だから、拙著『終戦史』 のプロローグを「「終戦」というフィクション」としました。

創作の核心部分のひとつは、昭和20年8月の「終戦」にいたる戦争を、すべて「狂気の軍部」の暴走によるものだとし、国民は軍部にだまされたのだ、としたことです。このストーリーが戦後成立し、日本の人びと(および占領軍)に受容され、浸透し、デフォルト化していく過程はなかなか複雑なので、ここでは詳しく触れませんが、当時から異論がありました。

映画監督の伊丹万作は、終戦直後の昭和21年、「戦争責任者の問題」と題した一文を雑誌に寄せています。伊丹は、「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという」と述べたうえで、町会、隣組、警防団、婦人会といった民間の組織が、熱心、かつ自発的に、だます側に協力していたとします。

「戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか」
青空文庫

すべてを「軍部」のせいにするのは、アメリカの占領政策上、都合のいいものでした。その「軍部」に、大日本帝国憲法下で大元帥だった昭和天皇が含まれないという点は、スルーされました。多くの国民にとっても、都合のいいものでした。戦後日本の再出発は、過去を書き換え、日本軍をばっさりを切り捨てるところから始まったのです。

ですが、ここで国民が免責されたことは、その後の日本にとって、果たして、本当に良いことだったのでしょうか。

もちろん、終戦までの長い期間、つまり、満洲事変以後の「非常時」に、あるいは、日中戦争以後の閉塞感が増すばかりの暮らしに、そして、激しい空襲による死の恐怖に、ずっと直面しつづけた日本人をおそった疲労と絶望、「虚脱」状態(ジョン・ダワー『増補版・敗北を抱きしめて(上)』p92)を考えれば、その措置は妥当なものだったといえるのかもしれません。

ですがその後、わずか数年で、国民の間に伝統回帰的な風潮がめばえ、子どもたちの自主性や個性を尊重する「新教育」に対する反発から、昔ながらの問答不要のしつけを学校に求める声が強まったことや、昭和39年の東京オリンピック後に、軍隊ばりの、あるいは軍隊顔負けの「根性」ブームが起き、その後、体罰、しごき、精神論が教育現場で猛威をふるったことは、多くの国民が「ちっとも懲りていない」ことを示しているように見えます。人々は、戦争はもう二度とごめんだと言いながら、そのいっぽうで、「軍国主義」下の精神論を、民主主義の平和国家に生まれ変わったはずの戦後日本で復活させたのです。

その後の日本は、高度経済成長によって「経済大国」となるわけですが、その自負が、戦前戦中となんら変わりない精神論とリンクした成功神話となり、「戦後の経済的復興は頑張りによって成し遂げられた」(2002年4月、新聞投書)という言説が、あたかも自明の事実であるかのように、人びとの間で語られていきます。

やはり高度経済成長期(もしくは、高度成長期半ば、東京オリンピック後の「四十年不況」を契機)に、「日本人は勤勉だ」という誤解(『自分の半径5mから日本の未来と働き方を考えてみよう会議』出口治明・島澤諭p63では「思い込み」)が定着し、そうした「理想の日本人像」(←いったい、誰にとって?)が、いつまでも僕たちにのしかかり、僕たちを規定し、僕たちを追い立て、戦後の新教育で浸透するはずだった自主性や個性の発揮が社会全体で阻まれているかに思える状況を鑑みれば、いまこの時代に、現在進行形で生きている僕たちは、そして、この先も生きていく僕たちは、未来を手に入れるために、過去に向きあう必要があります。

これまで自明の事実であるかのように語られてきた歴史(=どん底からの逆転劇)は、高度経済成長という、「実は努力しないでもそれなりに“右肩上がり”で来られた時代」(ひろさちや、2006.9)を謳歌した世代にとっては心地よいものだったのかもしれませんが、僕たちにとっては、迷惑な話です。

日本的な精神主義がもたらした結果は高度経済成長という成功ではなく、空襲で何もかもが破壊された焼け野原、昭和20年の終戦=敗戦という失敗なのです。

僕の主張をごく簡単にいえば、ブラック企業の精神風土を、実証的に叩き潰そう、ということです。

そしてそれは、ひとつのアプローチとしては、史料に基づいて、日本の近現代史の再構築をしていくことに他なりません。

たとえば、一ノ瀬俊也『飛行機の戦争1914-1945─総力戦体制への道』(講談社現代新書、2017年)は、太平洋戦争がじつは「国民の戦争」(p14)であったことを、「主として海軍の宣伝パンフレットや市販戦争解説書、そしていわゆる日米仮想戦記などの史料」(p7)を使って、詳細に解き明かしています。一ノ瀬氏によれば、戦時下の国民が対米戦争を航空戦主体のものと認識していたにもかかわらず、戦後の日本人は戦争を大鑑巨砲主義、戦艦の戦争と記憶しつづけてきた理由のひとつが、「戦後に盛んとなった、戦争指導の“真相”暴露的な報道が、航空戦に協力した民衆を免罪するため、戦争を戦艦主体として書き換えたこと」だとしています。

僕自身は、「終戦」に強いこだわりを持っています。「終戦の8月15日をもって、日本人はまさしく日本人となったのです。「終戦」とは、ある意味、「日本人」の始まりの日なのです」とも書きました(カズオ・イシグロ氏の日本論から:「どん底からの逆転」神話の嘘と罪)。終戦なんて、もう70年以上前のことで、いかにも古臭い、かび臭いと感じる人もいるでしょうが、書き換えられた過去を書き戻さない限り、僕らは、未来を手に入れることができないと思っています。

過去に向き合い、未来を手に入れましょう。

日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった

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日本人とは、何でしょう。

日本のはじまりを、かりに、農村社会が成立した弥生時代からとすれば、およそ2千年以上前となり、長い歴史があるわけですが、日本人が自分自身を日本人だとする自意識が生まれたのは、つい最近のことです。

司馬遼太郎は、幕末には「日本人は実在しなかった」と書いています。薩摩人や長州人、土佐人はいたが、日本人という自意識をもつのは、坂本竜馬ただ一人であったとしています(『竜馬がゆく(三)』文春文庫、1975年p217)。坂本竜馬だけだったかはともかく、日本人に日本国民の自覚が芽生えたのは、明治期もなかばを過ぎ、日清戦争のあたりからだったとする説があります(『日清・日露戦争をどうみるか』(原朗、2014年)p77)。当時、多くの日本人は、徳川家康のことは知っていても、明治天皇のことはあまり認識していませんでした。自分たちの国=日本が、隣の大国=清と戦うということを通して、国民意識が生まれ、定着していきます。日清戦争によって日本国民が誕生した、ともいえるわけです。

では、日本人の自覚をもった日本人は、自分たちのことを、どんな国民だとみなしたのでしょう。

僕らがいま、日本人らしさを問われて、すぐに思い浮かぶのは、たとえば「勤勉」とかでしょうか。勤勉さ、つまり、仕事や勉強などに一生懸命に励む性質は、伝統的な日本人気質であるとか、国民性の特長であるとか、世界的にも有名であるとか、ざっとぐぐるだけで、いろいろと出てきます。

はたして、本当にそうでしょうか。

大正末の小学校六年生用国語読本に掲載された、「我が国民性の長所短所」には、こう書かれています。

狭い島国に育ち、生活の安易な楽土に平和を楽しんでいた我が国民は、とかく引込み思案におちいり易く、奮闘努力の精神に乏しく、遊惰安逸に流れるかたむきがある。温和な気候や美しい風景は、人の心をやさしくし、優美にはするが、雄大豪壮の気風を養成するには適しない。
〔略〕
あっさりしたこと、潔いことを好む我が国民は、其の長所として廉恥を尊び、潔白を重んずる美徳を発揮している。しかし其の半面には、物にあき易く、あきらめ易い性情がひそんではいないか。堅忍不抜あくまでも初一念を通すねばり強さが欠けてはいないか。
(『尋常小学校国語読本巻一二』1923年、南博『日本人論』2006年p88からの抜粋)

こうした短所を挙げたうえで、「之を補って大国民たるにそむかぬりっぱな国民とならねばならぬ」としめくくられています。

奮闘努力の精神に乏しく、遊惰安逸に流れ、飽きやすく諦めやすく、一念を通す粘り強さに欠けた国民性って、勤勉とはまるで相容れない気質です。ちなみにこれ、いまから94年前、関東大震災の年(大正12年、1923年)のものですが、昭和のはじめごろにかけて書かれた日本人の気質は、大概がこんな感じです。

『逝きし世の面影』(渡辺京二)で描かれる、幕末期に訪れた外国人が見た、のんきな日本人の姿とも符号します。日清・日露の両戦争、そして第一次世界大戦を経て、大国意識が生まれていたとは言っても、幕末から半世紀以上、日本人は割とのんきに過ごしていたのです。

ところが、満洲事変(1931年、昭和6年)のあと、日本人像は大きく変貌していきます。

文部省は満洲事変の翌年、国民精神文化研究所(精研)を設立します。ここで重要になってくるのが、「日本精神」(国民精神)というキーワードです。ちょっと長いのですが、当時の新聞に掲載された、国民精神文化研究所長・粟原謙氏の、「わが国民精神文化研究所の使命」という談話を紹介します。

 かの世界大戦は有史以来の大事変であり、政治上、経済上、思想上、世界各国に多大の影響を与えたが、我国ももとよりその波動を免るることは出来なかった、しかしてその最も憂うべきは左傾思想の伝播であった。かの大逆事件以来一時全く影をひそめて居た社会主議者等も、この大戦を契機として再び活溌な活動を開始したのであった。
 則ちマルキシズム、レーニズムの如き左傾思想が我が国において異常な流行を見るに至った、左傾思想の理論、文芸に関する出版物の多きこと恐らくロシアを外にしては世界中日本に及ぶものはないであろうとは、欧米を旅行したもののしばしば口にするところである。唯物的極左思想は、一面においては労資の争いに乗じて危険な極左的実際運動となって現れた。そして左傾思想は労働者のみならず、学生等の間にも恐ろしい勢いでひろがり、我が一般社会は少なからず不安におそわれた。
 しかのみならず、一般に国民は久しく外来の学問文化に馴れ、その個人主義思想、唯物思想に浸潤せられて我国固有の文化は、殆んど閑却せられて、極左思想に乗ぜられ易き間隙を多分にもって居た
 かかる時勢に鑑み、現時盛んに行われて居るマルキシズムに関し十分なる批判を加え、その欠陥を明にすると共に、又大いに積極的に我が国固有の文化を研究し、その外国と異る美点、特色を究明し進んで我が国独自の学問文化を発揚して漫りに外国のそれに心酔するの弊風を矯むるの急務なることは、識者の等しく痛感する所であった。この時勢の強い要求に応じて生れたものが、我が国民精神文化研究所であって、この研究所こそは、我が国民が従来有すべくして有せざりし国民精神指導の重大なる役割を果す為の機関である。
 我が国は古来皇室を中心に家族的発展をなし、君民の結合の鞏固なること世界に比類なき国柄である。二千六百年の歴史を通じて現れている我が日本精神、我が国体の優秀さに就いては、国民の等しく信じて居るところであるが、従来それが遺憾ながら学問的に体系づけられて居なかったように思われる。
 現下の社会情勢には幾多の解決さるべき、改革さるべき問題がある。それに対し何等かの活路を見出さんとの欲求は、真面目に社会情勢に対し目を注ぐものの等しく懐くところのものであろう。しかもそれらは文化の本質を異にする外来思想によりて満さるべきものでなく、真に我が国独自の文化により、我が日本精神により、我が国柄に最も適したる方策によりてのみ満さるべきものであることは、我々の疑わざる所である。
 我が国民精神文化研究所はこの点に鑑み、その事業の一として国民精神文化の学理的研究を行わんとするものである。左翼思想の非なることはいうまでもないが、それが対策は取締のみをもってもとより十分ではない。思想的にもこれに対抗するに足る日本精神の学問体系が確立されなければならぬ研究所はそれが為め、先ず熱心な研究の第一歩を踏み出して居る。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・中外商業新報 1932.12.2(昭和7) 思想問題(6-149))

当時の日本は、左傾思想、共産主義が流行しており、文部省は大学生の「赤化」問題に頭を悩ませていました。国民精神文化研究所の設置の目的は、外来思想である共産主義に対抗するため、我が国の独自性=日本精神を「闡明」し、「マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設」をするため、でした(辻田真佐憲『文部省の研究』2017年p101)。

「闡明」(せんめい)とは、それまではっきりしなかった事を明らかにすること、です。

日本精神ということば自体は、前述の国語読本の翌年、安岡正篤が『日本精神の研究』を、そして大川周明が『日本精神研究』(第1~7巻+別冊)を著していましたから、すでに存在はしていました。ただ、これまでの日本精神は「大和魂」の別称といった意味合いで、抽象的な概念といえるものでした。日本人としての自覚が芽生えた日清戦争(1894~1895)からまだ半世紀も経っていないのですから、はっきりしなくても当然なのですが、日本政府は迅速な対応を迫られていました。

内務省警保局は昭和8年4月、思想対策の根本策として、「建国精神(日本精神)の確立と精神運動の作興、右のため特に古典の研究を盛ならしむること」をはじめとする7項目にわたる題目を決定。つづいて8月、政府内に設置された思想対策委員会が、思想善導方策具体案について閣議で説明し、承認を得ましたが、その内容は、「積極的に日本精神を闡明しこれを普及徹底せしめ、国民精神の作興に努むることをもってその根幹となすも、一面において不穏思想を究明してその是正を計ることまた緊要なりと思慮せらる」となっています。文部省はそれを受けて10月、各地方庁に、思想善導機関である思想問題研究会の設置を促す通牒を発しました。

こうした政府の動きと歩調をあわせるように、民間の言論も活発になります。たとえば、新潮社は同年11月から、『日本精神講座』全12巻の刊行を開始します。第一巻の巻頭には、「日本精神に還れ!!」というスローガンが掲げられ、「日本は国際連盟脱退を機会として、欧米追随の時代から完全に離れた。日本は今後、独自の道を正しく、勇敢に歩むべきだ」との宣言がなされます(南博『日本人論』2006年p183)。

ちなみにこの年の3月、日本は国際連盟脱退を通告します。国際連盟総会で松岡洋右率いる日本代表団が議場から退場したことはよく知られていますが、帰国した松岡は、国民に対し、「国民は安易な気分で生きていてはならぬ、日本精神に目覚め我等の行くべき道を真につかんで、真っしぐらに進まねばならぬという事だ、お互いに非常時の意識をもっとはっきりさせねばならぬと思う」との所感を述べています(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・報知新聞 1933.4.28(昭和8) 外交(125-144))。

松岡はここで、「非常時」と言っています。その後の日本で盛んに使われる言葉です。「非常時」と「日本精神」は、まさに松岡が訴えたように、密接な関係にあります。この「非常時」を理由にしたプロパガンダに、僕らはこれからも、気をつけなければなりません。

ともあれ、日本精神は赤化対策という国内問題のみならず、満洲事変後、国際的に孤立を深める日本国が依拠すべきメンタリティともなっていきます。このように、日本精神の確立とは、ソ連の共産思想、そして、欧米の民主主義にものみこまれまいとする動き、我が国のオリジナリティを確立しようとの模索でしたが、重要なのは、それがあくまでも相対的な模索だったこと、そして、「国民性は造られるべき」との考え方に立脚していたことです。

大川周明は昭和5年、「日本精神及日本思想に就て」と題した海軍大学校での講演で、「百姓でさへも理想を以て進めば此通りの歩み方をし、此通りの発展をするのであります。若し日本の総ての階級の人に、斯う云ふ昔ながらの日本の理想が復活して来たならば、日本は非常に立派な国になって、天業恢弘の理想を実現する事が出来ると思ひます」「正しき指導者が世に立って、日本的理想を掲げて日本国民を率いるならば、日本国民は確かに偉大なる国民となり、確かに偉大なる仕事を為して、真に世界史の新しい頁を書き初める事が出来ると思ひます。私はさう云ふ時代の来ること、さう云ふ指導者の現はれる事を、日々夜々祈って居るものであります」と、日本精神はいわば日本人としての「理想像」であると主張しました(防衛研究所所蔵・⑦教育-学校ー01-96)。

日本史学者の津田左右吉も、「日本精神はこうであるべきであるという主張」だとし、日本思想史家の伊藤千真三は、「国民性は造られるべきもの」だとの考えが一般に広まり、各国ともに優秀な国民性をつくることに注目している、としています。(南博『日本人論』2006年p187、190)

つまり、「日本精神」が掲げた日本人像とは、生来の日本人らしい気質ではなく、むしろ、元来の日本人らしさから、目指すべき日本人像への「変身」を強要するものであり、なおかつ、ここで提示された「あるべき日本人像」とは、いわば官製の理想像、お国の役に立つモデル像であって、その実現に向け、国をあげての「自分さがし」運動が展開されていた、ということになります。

そして、いま僕らが「日本人らしさ」として思い浮かべる「勤勉さ」とは、まさに、当時の国家が国民に要求した「あるべき日本人像」の資質であり、それが戦中・戦後を通して、僕らに刷り込まれたものだということができます。

昭和11(1936)年といえば二・二六事件ですが、この年の12月、坂口安吾は「日本精神」と題した文章を新聞に掲載します。

 ヨーロッパ精神は実在するか、また実在するとせば如何なるものがそれであるか、といふことが西洋の思想界でもだいぶ問題になつてゐるといふことで、私もヌーヴェル・リテレールのアンケートで同じ質問の解答を読んだ記憶がある。ヴァレリイとかロマンローラン、クロオデル等といふフランス文壇の大御所達が顔を並べて答へてゐたが、個々の意見は記憶にない。概してヨーロッパ精神はすでに実在しない。実在するとせば世界精神としてゞあらうといふ意見が多いやうに思はれた。
 このことは我々にも常識的に考へられることであり、また常識的ならざる立場からでも一応は否定できないことであつて、今日ヨーロッパ精神を指摘することは難しい。
 同様に我々の立場でも日本精神を独立した形において指摘し把握することは、今日はなはだ難事である。日本精神も今日では必然的に世界精神に結びついてゐる。また結びつかざるを得ないのである。
〔略〕
青空文庫

「外国かぶれをすること自体が日本精神の一特質であるのかも知れないのである。これは冗談や自嘲ではない」と、皮肉まじりにしめくくられています。坂口安吾は「巷に横溢する日本精神」(昭和10(1935)年3月19日朝日新聞「鉄箒」)が、腹立たしかったのでしょう。

日本人だなんだという前に、おれはおれだ、と。

(後編につづく)

※後編をかく前に、「104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」」を書きました。

ネバーギブアップとは、歴史的には批判されるべき悪徳

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ネバーギブアップ、つまり、絶対にあきらめない、というのは、不屈の精神をあらわす美徳であるように、一般には思われています。

はたしてそうでしょうか。

日本の近現代史をみる限り、ネバーギブアップとはむしろ亡国の思想であり、決して賞賛されるべき考え方とは思えません。

太平洋戦争がはじまった翌日のラジオ放送(1941年12月9日)。情報局第二部第一課長の松村秀逸大佐は国民をこう鼓舞しています。

三千年余、鍛へに鍛へて来た、已むに已まれぬ大和魂を発揮するの秋は来たのである。されば
渾身の力を出せ
不退転の勇気を奮ひ起せ
必ず勝つ、必ず勝つ
最後まで頑張って、頑張って、頑張り通せ
然らば勝利の太陽は、燦然として日本の上に輝くであらう

そして、サイパン玉砕を伝える「写真週報」1944年7月26日号では、「頑張らう一億決死の覚悟で」と題し、こんな文章が掲載されています。

戦ひは、最後の最後まで頑張る者、踏みつけられようが、叩きつけられようが、『貴様らには絶対に負けないぞ』と確信する者、即ち相手が負けたといふまでは、決して戦ひをやめないぞといふ強烈な意志が、勝利を得るのです。

ちなみに、このサイパン玉砕、そしてマリアナ沖海戦での敗戦ですが、

サイパン奪回の中止、マリアナ諸島放棄の決定は、一時、陸海軍両統帥部の作戦関係者を、ぼう然自失の状態に陥れた。戦略的勝算が失われたという印象によるのである。(『戦史叢書・陸軍航空の戦備と運用<3>大東亜戦争終戦まで』)

とされてます。ようは、この1944年6月をもって、日本は軍事的に、アメリカに負けたのです。以後の戦闘は、米軍にとっては残敵掃討戦となった(山田朗『近代日本軍事力の研究』)にもかかわらず、日本は戦争をやめようとしません。

翌年、1945年。「主婦之友」3月号では、大本営陸軍報道部の親泊中佐が「頑張り生活」を説きます。

これからの戦を勝ち抜いてゆくには、国民全体の不屈不撓の頑張りといふことが何よりも重大な要件となって来ました。極端に申せば、頑張るといふことが唯一の勝利への道となりませう。しかし、頑張りといっても、『頑張っていたら兵隊さんが勝ってくれる。』といふ消極的な、他力本願的なものではなく、『勝つために頑張る。』といふ積極的な、自力主義のものでなくてはならぬと思ふのです。

当時、日本国内に吹き荒れたのは、絶対にあきらめない、すなわち、ネバーギブアップ旋風です。当時のいわゆる徹底抗戦派が主張したのは、要するにネバーギブアップの精神です。終戦時の「クーデター騒ぎ」(拙著『終戦史』p11)にかかわった井田正孝(のち岩田姓、戦後は電通総務部長などを歴任)は、自著『大東亜戦争の始末』(1982年)のなかで、「徹底抗戦の意義」にふれています。

始めあれば終りあり。開戦あれば終戦がなければならない。徹底抗戦にも終戦はある。むしろ、より良い終戦を勝ちとる手段として、徹底抗戦の意義が存在する。戦理を知らない人は、徹底抗戦一億玉砕して大和民族が亡んだら、国体護持もあり得ないではないかと言ふ。全く無知といふほかはない。一億人の民族が全滅するなどあり得ないことである。一割の一〇〇〇万人が死ぬのも大変なことである。徹底抗戦一億玉砕とは、あくまでも戦ひ抜く心構へをいふ。大儀を守るために戦ふ不屈の忠誠心を鼓舞するお題目に外ならない。

いつだったか、実家に帰省したとき、小学校の卒業文集を見つけました。そこに書かれていた担当教師のひとことは、当時(1970年代後半)はやった「ネバー・ギブアップ」でした。この「ネバーギブアップ」というフレーズが日本でいつどこから流行するようになったかは、いまは確認できていませんが、戦時下の日本で喧伝された不屈の精神と、地下でつながっているように思えてなりません。

(追記:熱血学園ドラマ「スクール☆ウォーズ」あたりからかと思いましたが、これは1984年放送開始みたいで、違うようです。。。)

死んでも諦めるなという心構えを教え込まれた、おおぜいの若者たちが、体当たり攻撃=特攻で死んでいきました。

戦後、この徹底抗戦の考えは、日本国を亡国の淵に追いつめたものとして、強く批判されます。そしていまでも、軍部への批判とあわせて、批判されつづけています。いっぽうで、ネバーギブアップの精神は賞賛されています。

おかしくないですか?

強い精神力をもって困難を突破しようと試みる、そのこと自体は、基本的には賞賛されるべき姿勢だと思います。でも、ものには限度というものがあります。日経ベンチャー2001年11月号は、「廃業の限界点 頑張りすぎて人生を棒に振らないために」と題した特集を組んでいます。リードにはこう書かれています。

資金繰りに窮した経営者が、高利の市中金融業者からカネを借り、厳しい取り立てに耐えられなくなって、夜逃げや自殺、一家離散に追い込まれる例が後を絶たない。是が非でも会社を守ろうという経営者の頑張りが、逆に悲劇を招いている。苦境に立たされた時こそ、経営者には冷静さが求められる。最悪の事態を避けるためには、「もう廃業するしかない」という限界点を事前に見極めておかなければならない。

経営者に限らず、一個人にも、そして国家にも、苦境のときこそ、この「限界点」の見極めは大切だと思います。

この日本という国では、なにしろ小学校の教師さえもが「ネバー・ギブアップ」を謳うぐらいですから、諦めることを決して良しとしない気分に満ちあふれています。でも、世界に目を向けたら、どうでしょう。「ネバー・ギブアップ」もあるのでしょうが、人々はもっと柔軟に、そしてしたたかに、苦境を生き抜いているのではないか。あまり根拠はないのですが、そう思います。

すくなくとも、1945年の「終戦」にいたる経緯をみるかぎり、「ネバーギブアップ」という美徳に隠された思考停止、判断の外部依存は決して賞賛されるものではない。生きのびるために、自分自身の頭で考えて行動する、それができない「ネバーギブアップ」などは悪徳の教えでしかない。

ぼくには、そう思えてなりません。