週刊:日本近現代史の空の下で。

過去に向きあう。未来を手に入れる。(ガンバるの反対はサボるではありません)

頑張るという美徳:自己犠牲を期待する圧力が時に僕らを縛りつける

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「頑張る」がもつ含意、表面にはあらわれない、もうひとつの意味についての歴史的な考察です。

きょうもがんばろう!そう言って日々頑張っているあなたは、いったい誰のために頑張っていますか?

頑張らなければ、正しい姿であらねば、こうしなければ、…という圧力に日々さらされている現代日本人、とりわけ、社会や組織のなかでその圧をいちばん強く受けている、若者と女性に向けて書きました。

「頑張りすぎないママが好き」と題した、月刊誌ヴェリィ(VERY)編集長、今尾朝子さんのコラムを読みました(朝日新聞2018年1月6日p21)。

今尾さんは、

昨年を振り返ってみると、ママたちに「頑張ろう」というより、「頑張らないで」というメッセージを伝える機会が増えた一年だったなと思います。

と書いています。何故か。ママたちが頑張りすぎているから、だそうです。いまどきのママたちは、

自分がやらなければ、家庭が回らないことが多すぎる。育児休業から復帰したからには仕事だって頑張りたい。自分自身に完璧を求めるつもりはなくても、周りができているであろうことができない自分に罪悪感を覚えてしまう。

という心境なのだそうです。

では、「頑張る」とは、一体全体どういうことなのか。これが、今回の主題です。

広辞苑(第6版・2008年)では、

①我意を張り通す。「まちがいないと─・る」
②どこまでも忍耐して努力する。「成功するまで─・る」
③ある場所を占めて動かない。「入口で─・る」

となっています。

現在、多くの人たちはおそらく、②の「どこまでも忍耐して努力する」の意味で、この「頑張る」という言葉を使っている、と思っているはずです。

数年前から僕は、この「頑張る」というコトバの、歴史的変遷や時代との連関、日本社会における意味などについて、明治以降の文献を手がかりに調べていますが、そこから見えてきたことです。じつは、いま一般的に使われている「頑張る」の本当の意味は、「忍耐して努力する」では、ありません。

「頑張る」に、もっとも必要なのは、一種の「自己犠牲」の要素です。自分を犠牲にして、「誰か」(←これも問題、後述)のために献身的に努力する行為(もしくは、そのフリ)こそが、現代日本で日常語と化した「頑張る」の本質なのだと、僕は考えています。

別のいいかたをすると、役割を果たす(もしくは、そのフリ)、ということです。母親として、妻として、働く女性として、求められた役割をきちんと果たす、期待に応えることが、頑張る、ということです。頑張る行為には、「正しさ」が求められます。だから、できない自分に罪悪感を覚えてしまうのです。

今尾さんは、こうも書いています。

自分のために頑張りたいときは必死になればいいけど、ママだけが頑張りすぎて疲れてしまうのはちょっと違う。

たしかに、ちょっと違います。自分のために頑張るのは、本当の「頑張る」では、ありません。いや、それも違います。

元来の「頑張る」は、まさしく、自分のために頑張ること、だったのですが、いま使われている「頑張る」は、多くの場合、自分以外のために頑張ることです。

もちろん、人のために頑張ることは素晴らしいことですし、誰かに尽くすことで自身の喜びも得られます。現在、頑張る人といえば一般に、

職場でも家庭でも、頑張る人は尊敬され、重宝されます。
~矢作直樹『自分を休ませる練習』p16

という存在です。それはほんらい、自分がやりたくてしていることです。自発的に「やる気」を出し、積極的に取り組む姿が尊敬され、重宝されます。ですが、社会や組織でそれがデフォルト化されると、自律のふりをした他律的な行為となり、自発的な貢献を強要されることになります。自分らしくないのに自分らしく、という、奇妙なことになってしまいます。「頑張る」が重たいのは、努力する行為そのものが重たいということ以上に、自己犠牲を強要されるのが、とても重たいのです。自分らしさからどんどん乖離していくのが、辛いのです。だから、頑張りすぎて疲れてしまうのです。

「誰」のための頑張りなのか、というのも、重要な点です。僕らが「頑張る」とき、しばしば、自分のためでも、特定の誰かのためでもなく、世間体とか、体裁とか、そんなものをとりつくろうために、「頑張る」を口にしていませんか。「頑張る」が美徳になって以降、頑張っている人を嘲笑するようなことは、なくなりました。かつて、「あいつ、頑張ってるな」は、「あいつ、まだ強情を張ってるのか」といった、呆れや、嘲笑のニュアンスがありましたが、いまは、とにかく頑張ってさえいれば、つまり、頑張る姿を示したり、「頑張ってます」と言ったりしていれば、人から悪口を言われることはありません。…という、いわば社会生活を営む上でのタテマエ的な挨拶言葉として、「頑張る」が使われているケースが、ふだんの生活ではよくあるように思います。

ところで、頑張っている人のことを、「頑張り屋さん」と言ったりします。現在、この「頑張り屋さん」は、好意的に使われていて、「あの子はほんとうに頑張り屋さんで」などと褒めたりします。ですが、かつての「頑張り屋さん」は違います。

鉄道王」とも呼ばれた実業家、初代根津嘉一郎氏は、財界きっての頑張り屋さんとして有名でした。戦後、昭和27年の雑誌に、「頑張り屋、根津嘉一郎」という記事が載っています。ここでは、根津について、

根津さんは頑張り屋として聞こえていた。生まれたままの大きな赤ん坊で、何事にも、また何人にも、対手{相手、の意}かまわずガムシャラに突っかかっていた。
・・・
その生地がむきだしのところが、当時の財界では全く特異な存在であった。

と書いています。いま読むと、なんだか違和感があります。

戦前の雑誌記事では、根津氏のことを、「一旦言ひ出したら断じて後へは引かぬガン張り屋」(昭和5年)と形容しています。つまりは、頑固一徹、頑固ジジイ。上記の広辞苑では、①の意味になります。自己犠牲の要素など、みじんもありません。むしろ自己主張。あくまでも我を通し、わがままで、ある意味、迷惑な存在です。

娯楽映画の世界では、主人公が奮闘するドタバタ喜劇もののタイトルに、「頑張る」をつけることがよくありました。管見の限りで最古のものは、昭和3年の映画「娘頑張れ」。当時の雑誌記事では、その内容を、「奇術を勉強して松旭斎豚勝の名を得た上村太吉は錦をかざって故郷の恋人お春のもとへ急ぐ……それからはギヤツグを用ひて独得の喜劇です」と記しています。この流れは戦後も続き、昭和38年には有楽町の日劇で、中尾ミエ、園まり、伊藤ゆかりによる、「頑張れ!ハッスル3人娘」と題した舞台が行われています。

かつての「頑張る」には、このように、ときに滑稽なニュアンスが含まれていました。年月の経過とともに、「頑張る」は180度の変化を遂げ、いまでは推奨される美徳となりました。

今尾さんが書く「頑張りすぎている」状況は、今に始まったことではありませんし、ママたちに限ったことでもありません。

横浜市の高校生、ペンネーム・横浜太郎氏の「ガンバレ」と題する詩(1989年)。

毎日ふつうに生きていたいのに
「ガンバッテ」がついてくる
「時間よ。ガンバッテ起きなさい」
「ほら、ガンバッテ食べなさい」
「行ってらっしゃい。ガンバッテネ」
〔略〕
「ガンバッテ ガンバッテ」と言われてるうちに
一息いれるまもなくて
からだの中を流れる血がだんだん濃くなって
鉛のように重たくなって
ガンバレナイ人はいつのまにか消えて
ガンバッタ強い人はもっとガンバッテ
〔略〕
毎日ふつうに生きていたいので
「ガンバレ」は嫌いです

この詩が発表された1980年代は、「頑張れば夢がかなう」とか、「あきらめなければ夢はかなう」といった、いまよく耳にする「成果にコミット」した励ましのフレーズが、さかんに使われるようになりはじめた時期です。その傾向が顕著になり、多くの芸能人やスポーツ選手、経営者らがインタビューなどでそのテの発言を多くするようになったのは、2000年代に入ってからです。

成功した人たちは、だいたいが頑張って成果を出してきた人たちですから、それはそれは頑張ってきたのでしょう。でも、成果をあげることが素晴らしい、ではなく、頑張るプロセスが素晴らしい、とするのは、読者がそうした夢物語、ファンタジーを求めたからでしょう。

いっぽう、1990年代初頭のバブル崩壊後、「頑張っても報われるとは限らない」職場の広がりとともに、鎌田實医師の『がんばらない』(2000年)を筆頭にした「頑張る」批判が、日本社会の一部に起こります。

一例を挙げると、
・教師は生徒に、「やれば、できる!」「頑張ってやりなさい」と励ますが、それを繰り返し聞かされていると、「できないのは自分の頑張りが足りないからだ」「自分がダメだからだ」と思い込む生徒がいる。(1995年、関根正明・武蔵野音楽大学講師)
・頑張る人を美しく表現することは、頑張れない人に×をつけ、頑張らなければならない構造を温存させる。なんとも残酷な言葉だ。(2000年、辛淑玉
・頑張れば何でもできると思うのは幻想。一握りの成功者が「頑張れば夢はかなう」と言うのは傲慢。(2008年、山田太一
などなど。

なぜ、こんなことになってしまったのでしょう。

ドイツと日本を比較した研究が、一つのヒントを与えてくれます。ヨーロッパ文学の小林康彦氏の論文「独訳が難しい日本語─頑張れ!」(2005年)によれば、言語的にユニークなのは「頑張る」ではなく、励ましの言葉「頑張れ」です。

和独辞典に出ている「頑張る」としてのドイツ語訳(〔略〕の8語)は、今現在頑張っている様子や過去に頑張ったことを説明・表現する場合、つまり「~は頑張っている」や「~は頑張った」というような場合には頻繁に、そしてごく自然に使われる。しかし、「頑張れ!」と激励・応援する場合にこれらの語が使われることはほとんどない。

小林氏によれば、ドイツ人は口を揃えて「ドイツ人は日本人のように何でもかんでも、頑張れとは言わない」と言い、そのうちの一人はユーモアまじりに、「それでも日本人に負けないくらい頑張っていると思うよ!」と返してきたといいます。

ドイツ人といえば、いわずと知れた「ゲルマン魂」。サッカーのワールドカップで見せる、ドイツチームの気迫と執念に満ちたプレーは、日本チームの比ではありませんから、「日本人に負けないくらい頑張っている」というのは、相当に謙虚な表現です。

そもそも、日本社会の日常生活のなかで「頑張る」や「頑張れ」が今のような意味で使われはじめたのは、僕の調べによれば、昭和にはいってからで、当時はその見本として、もっぱら欧米人が挙げられていました。

戦の勝利は最後の5分間にある」の有名な名言で、最後まで頑張りぬく大切さを説いたナポレオンを筆頭に、「蓄電池一つに十五年」の発明王エジソン、「全英国を敵手に頑張り通して八年、つひに大英帝国最初の労働宰相たる栄冠を戴いた」ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド、などなど。

「頑張る」は当初、欧米列強に日本が肩をならべるために待望された、「舶来モノ」のメンタリティでした。同時期にしきりといわれた「日本精神」と同様、「お国の役に立つ、あるべき日本人像」が、当時の「頑張る」「頑張れ」には込められていました。

『しぐさの日本文化』で「頑張る」の考察に一章を費やした多田道太郎は、「頑張る」が好感をもって迎えられ、日常生活で多用されるようになったきっかけを、昭和11年のベルリンオリンピックでアナウンサーが絶叫した「前畑ガンバレ」だったとしています。それにちなんで、8月11日が「ガンバレの日」になっているようなのですが、これより前から「頑張る」が流行語だったことを、僕は当時の文献で確認しています。おそらく、多田少年(このとき11歳)にとって、「前畑ガンバレ」がよほど印象的だったことから、こうした見当になったのでしょう。ちなみに、このときの前畑ら日本代表選手のオリンピックでの活躍は、「わが日本の威力を全地球の上に輝かした世界的選手諸君」(当時の新聞投書)と国民に受け取られました。

自分のため、ではなく、お国のために、ガンバレ。同調圧力でデフォルト化された自己犠牲的な努力。「前畑ガンバレ」の翌年には日中戦争がおこります。とりわけ、日中戦争が泥沼して以後、太平洋戦争までの期間は、「頑張れ」の怒号が日本中を席巻しました。ここで、当初の語義とは真逆の「自己犠牲」ファクターが「頑張れ」に刷り込まれていったと思われます。

「頑張る」「頑張れ」が、心温かい言葉だった時もありました。戦後の高度経済成長期です。戦後の焼け野原からの復興を遂げた日本は、やがて、国をあげて豊かさに猛進する時代に突入します。その恩恵をもっとも受けたのは、貧しい人たち、恵まれない人たちでした。彼らが豊かさを手に入れていく合言葉として、「頑張る」「頑張れ」がさかんに使われました。

頑張れば、誰もが豊かになれる。幸せになれる。なんとかなる。そう思えた時代は、1970年代に黄金期を迎えます。「頑張る」「頑張れ」には、いまでも、その頃の優しさの名残があります。だからこそ、いっそう、残酷なコトバでもある、僕はそう思います。

戦時下の日本人は、頑張っても夢はかないませんでしたが、戦後再出発した日本人は、今度は、頑張って夢をかなえました。少なくとも、人々は、そう信じました。豊かになる、一等国になる、大国になる。その夢をかなえた人々は、自分たちが一丸となって頑張ったと信じた、社会のあり方や価値観を絶対視して、次の時代に継がせます。戦後高度経済成長以後に生まれ育った僕ら(僕は1965年=昭和40年生)は、それを受け継いだ世代です。

母が子に、おばあちゃんが孫に、「勉強でも何でも頑張りなさい。頑張ったら必ずいいことがあるから」と激励し、「頑張る」こと、続けることの大切さが、民間伝承のように語り継がれていきます。「何事も達成するためには頑張らなくてはならない」(『自分を変える習慣力、三浦将、2015年』)との思いが、僕らの心に定着します。

「頑張る」が提唱されだした昭和初期の段階では、推奨された「頑張る」は、それとはちょっと違うものでした。当時の大衆娯楽雑誌『キング』に、著名な建築家、伊東忠太の「最後の瞬間まで頑張れ」と題した一文が載っています。

欧米人の特性は我国民の夫れに比して著しい相違がある。彼等は恬淡寡欲に非ずして何処までも功利主義であり、従って随分執拗であり、往々悪辣陰険なる手段もやり兼ねぬ。外交上の問題に於ても、吾人がいつ迄も古武士流の徳義を固守しているが為彼等の翻弄する所となり失敗を蒙ること少なくない。
〔略〕若し我が国民がこの欠点を自覚し、百難に耐ふるの執念と、千辛萬苦を忍ぶ根気を養成し、小心大膽の精神を以て最後の瞬間まで努力をつゞけることが出来たならば、何事に於ても欧米諸国に一歩も譲る処は無いのである。

桜の花の散り際のように淡白で、ものごとに執着しない日本人にくらべ、欧米人は功利主義で執拗で手段を選ばない。…サッカーで言われる「マリーシア」(ずる賢さを意味するポルトガル語)を思わせます。勝つための頑張り、成果をあげるための頑張りが、当初は求められていたのですが、「タテ社会の人間関係」(中根千枝)の日本社会で庶民の間に深く浸透していくうちに、その意味が変容していったようです。

「頑張れ」という励ましは、言外に、価値観の共有を前提としています(=何を頑張るかなんて、いわずもがな!)。価値観を共有していた高度成長期(=みんなで豊かになるぞ!)なら、それでよかったのです。受験やスポーツ競技など、目指す方向が自明であるとき、「頑張れ」は強力な応援のフレーズになりえますし、実際、受験界では古くから「頑張る」「頑張れ」が使われていました。「ガンバリズム」という言葉も、管見の限り、昭和2年の受験雑誌が最も古い使用例です。

しかしそれは、自分で考え、行動する、自律的な個人のあり方とは、相容れないものです。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』は「僕たち人間は、自分で自分を決定する力を持っている」(漫画版p301)と説きますが、この本が出版された昭和12年には日中戦争が始まり、以後、多くの日本人が、「自分で自分を決定する力」を行使することなく、自主的思考が不十分で権威に追従したことで、結果、多くの戦争犠牲者を生むことになりました。

以前に僕は、

この国は、ひとりひとりが自分で考えて判断することよりも、既存の社会のあり方や価値観を疑いもなく受容し、規範を忠実に守り、求められた役割を忠実に遂行することを、推奨しつづけてきたのではないでしょうか。

と書きました。これは、教育心理学者の藤原喜悦氏の主張(1991年)を援用したものですが、この「既存の社会のあり方や価値観を疑いもなく受容し、規範を忠実に守り、求められた役割を忠実に遂行すること」こそが、まさしく、いま、ママたちばかりか、日本中の人々を疲弊させている「頑張る」の本質です。

頑張るとは、現在、多くの場合、求められた役割を忠実に遂行する=期待に沿う、なのであり、頑張れとは、求められた役割を忠実に遂行しろ=期待に沿え、なのです。

多田道太郎は、「頑張る」の考察のなかで、

結婚式を終えたカップルを駅頭におくる若人たちが、つい無意識に「頑張ってきてね」などという。結婚という事業も頑張らなければできないという、これは集団的無意識の表現なのであろうか。
~『しぐさの日本文化』講談社学術文庫、2014年、p33

と疑問をなげかけていますが、「頑張ってきてね」を「求められた役割を忠実に遂行してきてね」と言い換えれば、なるほど、皆ニヤニヤしながら激励をするわけだと、納得もいきます。

自発的な努力を期待する「頑張れ」圧力には、観客がスポーツ選手に叫ぶ「頑張れ」もあれば、互いに励ましあう「おまえも頑張れ」もありますが、日本社会を支配する「頑張れ」圧力は、基本的に、高いところから低いところに、目上から目下へと向けられます。年配から若者へ、強者から弱者へと向かいます。女性や若者が、もっともその圧力にさらされているはずです。だから、ママたちは頑張りすぎて疲れてしまうのです。

さらにいえば、高齢化社会とは、「頑張れ」圧力がそれまでよりも強力に作用する社会であり、放置しておけば、今後さらに強化される恐れがあります。

…という現状への危機感ともいえる言説が、いま、各所からあがりはじめているように、僕には思えます。

嫌なものは嫌だと言おうと。

僕の知人が先日、欅坂46の「不協和音」に出てくる歌詞「僕は嫌だ」に、

時代の同調圧に抵抗する若者の心を悔しいことに秋元康が見事に詞にしている。

と書いていました。

先日の新聞記事「(逃走/闘争 2018:5)働き方、「正解」に縛られない」(朝日新聞2018年1月8日p29)の見出しには、「「日本のため」より自分の声に正直に」
と書かれ、記事中には、元SMAP稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾がサイトに公開した動画にある、

「逃げよう」「自分を縛りつけるものから」

という言葉を紹介しています。

「やりたくないこと やらない」(朝日新聞2017年3月13日p11)で、東大東洋文化研究所教授の安冨歩氏は、

システムに支配されないためには、システムの中にいる私たちが立場に縛られず、自分自身となることです。そして、一人ひとりがその場でシステムの要求に従わないようにするしかありません。「しないといけない」とプレッシャーを感じることは、しない。そして、「したい」と思うけど足がすくむようなことは、やるのです。たとえば、「専業主婦だから掃除しなきゃいけないのに、自分はできていない」と思って胸が苦しくなるなら、掃除なんてそこまでしなければいいんです。〔略〕システムを変えるには、ものすごいエネルギーがいります。でも、小さなボイコットが多発すれば、システムは作動不良を起こし、違う方向に動き出すんです。

と語っていますが、戦時下の国民は、じつは案外、システムを変えるほどではないにしても、この「小さなボイコット」をしていました(→「昭和18年7月の特高月報:かなり物騒だった戦時下の民衆」を参照)。

戦時中、旧制高校で「反骨バンカラ学生」だったという小川再治氏(元東京学芸大学教授)は、当時のこんなエピソードを書き残しています。

某高級軍人が当時一高を訪ねた時、「ゾル帰れ」の落書きがあったという話を聞いた。「ゾル」とは当時の高校生が軍人を指す蔑称だった。また、私は偶然浦和高校生が応召学生を送る集会を上野駅前で見たが、軍人が見たら立腹しそうな「大いなる自由を愛せ」の大のぼりが立っていた。
~『孤高異端』2008年、p93

戦時中に「大いなる自由を愛せ」とは、たいした度胸です。彼ら浦高生が掲げたように、僕たちも、自分を縛りつけるもの、既存社会が強要する規範、システムの支配をボイコットして、大いなる自由を愛しませんか。嫌なものは嫌だと、言いませんか。

小田嶋隆氏は、

我々は自分自身であることより、自分たちが帰属する組織の規範を強く意識している。
朝日新聞20171212p37

と指摘していますが、その伝統は、そんなに古くからのものでも、日本民族に固有のものでもないし、ぶっちゃけてしまえば、僕らは、「自分たちが帰属する組織の規範」というタテマエに、日々忠実に生きているわけでもありません。

「頑張る」とは、ある意味、「頑張ってるフリ」、つまり、頑張るという「お約束」もしくは、「頑張っているプレイ」の面もあります。正しき美徳、タテマエとしての「頑張る」さえ口にしておけば万事オーライ、誰かのために献身的に努力するフリや、役割を果たすフリ。

もともと頑張るのが苦手で、「奮闘努力の精神に乏しく、遊惰安逸に流れ、飽きやすく諦めやすく、一念を通す粘り強さに欠けた国民性」の僕たちが「要領よくやってきた」という側面もあります(ですよね?)。頑張りすぎて疲れてしまう人は、おそらく、とても優しい人です。生真面目に、既存社会が設定した正解、あるべきモデル像で自分を縛りつけてしまっているのだと思います。

先日の新聞に掲載された、作家・朝井リョウ氏の寄稿から(朝日新聞2018年1月7日p7)。

嫌だと思ったことを嫌だと言っていいんじゃないかって。
・・・
俺が嫌だと思った言葉を受け流すってことは、次の世代にその嫌な言葉が流れ着くってことかなあって。
・・・
新しい方法で元号が変わるってなったとき、自分ももっと、自分なりのやり方で、嫌だと思うことにNOを突き付けていいのかもって思ったんだよね。
・・・
あらゆる変化は、分厚いように見えて実はとても柔らかい思い込みで編まれていた縄から私たちを抜け出させ、新たな選択肢に手を伸ばすきっかけをくれる。これまでそうだったのだから、それが世間の常識だからという呪いの言葉から解放され、自分だけの人生の形を追い求める号砲となりうる。

僕たちはきっと、もっと楽しく、生きられるはずです。

※続きを書きましたので、あわせてどうぞ。→「「頑張り圧」という悪弊、頑張らないという戦略

※こちらもどうぞ。→「「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ

※2018年1月11日22:00初稿公開、2018年1月14日15:20第二稿公開、2018年1月16日10:30タイトル変更、その他、随時微修正。

平和≒戦争:「戦争は絶対にダメ」は、逆に戦争へのエンジンとなりうる

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「戦争は絶対にダメ」という言説が「無条件」で受容される社会は、戦争が「無条件」で肯定された、かつての日本と本質的に同じで、自主的思考より、求められた役割を忠実に遂行することが賞賛される社会は、戦争へ進む危険を常にはらんでいると思います。

昨夏に感じたことを、今になって書きます。

毎年、8月の終戦記念日のあたりになると、戦争を体験したお年寄りたちが、新聞やテレビなどのメディアに登場して、「戦争は絶対にダメだ」と語ります。いつからか、それはこの国の恒例行事となっています。

平和を尊ぶ精神は素晴らしいもので、文句のつけようがありません。それに、彼らの実体験を知れば、その悲惨な体験をくぐりぬけてきた彼らが「戦争は絶対にダメだ」と訴えるのは、しごく当然にも思います。

ですが、それを聞かされる僕らの側(彼らを取材し、そのことばを伝えるメディア、ジャーナリズムをふくめて)が、その言説を無批判に受け入れることは、危険だと思います。

なぜなら、「戦争はダメ」という高い理念をかかげ、しかもそれを「絶対に」とするのは、ひとつの主張に対し一切の異論反論を許さないという考え方であり、それはかつて、満洲事変以降、国際社会に対して独自外交という高い理念を掲げて邁進、衝突し、とうとうアメリカとの戦争にまで踏みこんでしまった当時の日本を主導した考えと、共通しているからです。

いま、平和を「無条件に」肯定し、戦争を「無条件に」否定する勢力とは、事態がいったん変われば、戦争を無条件に肯定し、「鬼畜米英」を叫んだかつての勢力のような存在へと、すんなりと移行してしまうのではないか、僕は、それを危惧しています。

もちろん、戦争はダメです。通常の外交努力を放棄して、一国の主張を力づくでもって、相手国や国際社会に認めさせようとするなど、言語道断。どの時代であっても、許されるものではありません。

ですが実際には、この世界の歴史のなかで、人類は戦争を起こし続けてきました。日本だってそうです。戦国時代なんて合戦につぐ合戦です。「戦争は絶対にダメだ」というのなら、織田信長豊臣秀吉徳川家康も、その他おおぜいの戦国武将たちも、厳しく批判しなければなりませんし、大河ドラマでヒーロー扱いするなど、もってのほか(ですよね?)。

理由のない戦争などはありません。戦争をなくそうとするのなら、理由にまで踏み込んでいかなければなりません。「絶対にダメ」と主張するだけなら、それはキレイゴトです。キレイゴトが、毎年8月15日になると、この国を覆いつくすこと自体、僕らが戦時中から本質的にまったく変わっていないことを示しているのではないでしょうか。

「鉄板」化の果てにあるものは、自主的思考の放棄です。

進むべき道が自明だった時代。自主的思考を放棄できた時代。」では、「戦争末期、空襲の際に防空壕に逃げ込みながら「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と考えた」と書いた、当時19歳だった男性の新聞投書を紹介しました。ここでは、その掲載全文を紹介します。

戦争末期、空襲の際に防空壕に逃げ込みながら「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と考えた。ある日の空襲は特に激しく、母屋は全焼。隠れていた防空壕も、熱と煙で息苦しくなった。蒸し焼きになると思い、近くの池に飛び込んで九死に一生を得た。
戦後70年の今、戦前・戦中の価値観を評価する風潮がある。「命を投げ出しても守るべき価値がある」という主張を聞くが、私の若いころもそうだった。特攻隊員が心ならずも納得させられたのは、こうした論理だったのではないか。
戦後の平和憲法には、私が必死に求めていた個人の生命を最優先する主張が明確に入っていた。「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)。
しかし、自民党の改正草案では「全て国民は、人として尊重される」となっている。「個人」は国家などの組織に対抗する概念で、地位や職業と切り離した「一人の人」だ。だが「人」は生物学的な概念に過ぎず、人間性を軽視している。このことの危険性を、私たちは自覚すべきではないか。
(無職・日野資純・静岡県・89歳、2015.3.15朝日新聞)。

自主的思考を放棄することは、思考のアウトソーシング、他律依存です。思考停止を強いる言説は、戦争へのエンジンです。

戦後の日本社会は、自主的な思考、人それぞれの個性や自主性を尊重することを尊重してきたのでしょうか。終戦後、

わずか数年で、国民の間に伝統回帰的な風潮がめばえ、子どもたちの自主性や個性を尊重する「新教育」に対する反発から、昔ながらの問答不要のしつけを学校に求める声が強まったことや、昭和39年の東京オリンピック後に、軍隊ばりの、あるいは軍隊顔負けの「根性」ブームが起き、その後、体罰、しごき、精神論が教育現場で猛威をふるったこと(過去に向きあう。未来を手に入れる。

を思えば、残念ながら、僕にはそうは思えません。

この国は、ひとりひとりが自分で考えて判断することよりも、既存の社会のあり方や価値観を疑いもなく受容し、規範を忠実に守り、求められた役割を忠実に遂行することを、推奨しつづけてきたのではないでしょうか。

先日手にとった本に、僕の考えと同じことが書いてありました。

「戦争」という言葉を聞いただけで思考停止に陥り、反射的に「反対」という言葉を頭に浮かび上がらせるのは、非常に危険な思考停止である。戦争に無条件に「反対」することは、状況が変われば、無条件に「賛成」することにつながりかねないのである。
~倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書、2017年)p292

「戦争は絶対にダメ」という言説が無批判であふれる社会は、その傾向が強まれば強まるほど、逆に戦争への道を進んでいく、僕にはそう思えてなりません。

日本人の正体に関する仮説:「変身」する仮面ライダーは僕らの化身

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近現代を生きる僕ら日本人には、2つのアイデンティティ(もしくはパーソナリティ)があります。

ひとつは、「104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」 」に書いたような、あっさり・さっぱりとしたタイプ。

ものごとを「なんとかなるさ」とか、「明日は明日の風が吹く」とかいうように楽観的(もしくは他律的)に考え、「なんとか」の内容を徹底的につきつめることなく、最後はその「なんとか」なるものに任せてしまう、ある意味、無責任でテキトーなあり方。

奮闘努力の精神に乏しく、あきらめやすく、粘り強さに欠けた国民性。

和辻哲郎が『風土』に書いたように、思い切りのよいこと、淡白に忘れることを美徳とし、ぱっと咲き、ぱっと散る、桜の花に象徴される気質。

これがデフォルト、いわば土着のアイデンティティです。

もうひとつは、それとは真逆のアイデンティティ。「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった」に書いたように、「国民性は造られるべき」との考え方にたって提唱された、「勤勉」に代表される、あるべき日本人像。

奮闘努力の精神に溢れた、あきらめず、粘り強い国民性。

「非常時」の戦時中から、戦後の高度経済成長期にかけて、日本国民に刷り込まれたもので、端的にいえば、「がんばる日本人像」です。

この相矛盾したパラレル状況について、月刊教育誌「児童心理」の特集「ねばり強い子」(1980年7月号)で、大橋幸(当時東京学芸大学教授)は、こう書いています。

日本人の多くは、「さっぱり」した人間や物(特に食物)を良しとする伝統の中に、今日もなお生き続けている。言い換えれば、「ねばり強さ」とは対照的な文化の中で、日常生活しているわけである。

テストの成績も、部活の成績も、およそ教育の場で価値のある課題や目標は、ねばり強くなければ達成不可能なので、ねばり強さが要求されます。反面、人間関係のうえでは、執念深かったり、こだわり続ける性格は好ましくなく、「あっさり」が求められます。かくして日本の子どもは、矛盾したパーソナリティを同時に要求されることになる、と、大橋教授は書きます。

わが国では、「いかにもスポーツマンらしく、さっぱりした性格」といった表現が何の不思議もなく用いられている。しかしよくよく考えてみると、この表現は少々おかしい。優れたスポーツマンであるためには絶対的に「ねばり強く」また「執念深く」なければならず「スポーツマンらしく、さっぱりした」という表現はそれ自体矛盾している。

この矛盾、子どもたちはもちろん、すべての日本人が抱えるこの矛盾を痛快に解決してくれるのが、あまたの変身ヒーローではなかったかと、僕は思うのです。

歴代の仮面ライダーや、ゴレンジャーにはじまるスーパー戦隊シリーズなど、「特撮変身ヒーロー番組 年表(年代別 変遷の歴史) - NAVER まとめ」には、たくさんの変身ヒーローが列挙されています(個人的には、「インドの山奥~」のレインボーマンが好きでした)。

日本のヒーローが変身すると強くなる理由」では、日本のヒーローと、欧米のヒーローの違いを、こう説明しています。

日本のヒーローは変身する。変身することによってパワーアップして敵と戦います。変身前は普通の人間で、変身後は超人というケースが多いです。〔略〕欧米のヒーローとして有名なスーパーマンは、普段、クラークケントとして生活して、何かの危機が発生するとスーパーマンとして現れます。でも、クラークケントの時でもスーパーパワーは持っています。正体を隠しているだけで、どちらの状態でもスーパーパワーを持っています。つまり、スーパーマンは変身によってパワーアップしているのはないわけです。スーパーマンのあの衣装はいわば「立場」を表明しているものであって、そこにスーパーパワーはありません。それはスパイダーマンやフラッシュでも同じです。バッドマンはその衣装が装甲にもなっていて防御力を上げているのですが、それでも衣装がスーパーパワーを与えているということはありません。

ふだんの生活はデフォルト、土着の国民性で暮らし、いざ、頑張りやら踏んばりやら粘り強さやら奮闘努力の精神やらを要求される場面になると、別人に変身してパワーアップする。もしくは、その「ふり」をする。

それが、僕らがこの国の近現代史のなかで身につけた処世術ではなかったでしょうか。

つまり、場面に応じて器用にアイデンテイティの切り替えのできるやつ、すなわち、「要領のいいやつ」が、この日本ではいちばんおいしい思いをすることができる、ということなのではないかと。はなはだ残念なことに、「正直者は馬鹿を見る」というのが、僕らの現実なのではないかと、日本の百年の歴史を振り返って、思うわけであります。

104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」

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104歳の現役美術家・篠田桃紅さんのインタビューを、NHKあさイチ(2017年12月14日放送)で見ました。なかでも、「日本の100年を見つめて思うこと」が、僕にはとても興味深かった。

日本人ってのはいったい、心配性なのか楽天性なのか、どっちかもわかんない。
心配してんのかしら本当に、日本の将来ってものを。
楽天的に、何とかなるさと思ってんのかしら。
私はなんだか、後者のような気がする。
そりゃ絶対、何とかなるわよね、何とか。
その何とかの何になるのか、どういうふうになるのか。
そういうことまで考えないわよね、日本人って割と。
何とかなるさで、その何とかっていうのに任せちゃってるみたい。
徹底的なんてことはしないでしょ、日本人は。
どっかふわっと残してるわよ。
西洋人はやるとなったら徹底的ですよ。

以前書いた、「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった 」で僕は、勤勉な日本人像とはまったく異なる、いわば「デフォルトの日本人像」を示しました。

大正末の小学校六年生用国語読本に掲載された「我が国民性の長所短所」には、奮闘努力の精神に乏しく、遊惰安逸に流れ、飽きやすく諦めやすく、一念を通す粘り強さに欠けた国民性が書かれていますが、これは、1913(大正2)年生まれの篠田さんが10歳のときの読本です。

それから20年後、1933(昭和8)年に出された『ガンバリズム─金儲けの探し方と見つけ方考へ方』という題名の本では、金儲けの原則のひとつに「ガンバリズム」を挙げています。「明日は明日の風が吹くといふ気持ち」ではなく、何か一つの目標を考えついたら、諦めずに「頑張って」みれば、「金儲けは立ちどころに湧いて参ります」と説いています。

篠田さんの言う、「何とかなるさ」と楽天的に考える日本人の姿と、この「明日は明日の風が吹くといふ気持ち」は、おそらく同じことを言っています。

「あるべき日本人像」が盛んに言われだしたのは、僕の調べでは1930(昭和5)年頃で、篠田さんは当時17歳。おそらく、篠田さんの人格形成において、このやたらと理想主義的で勇ましい「あるべき日本人像」は、ほとんど影響なかったはずです。

そして、いまだになお、篠田さんがこうした日本人像、徹底的にやる西洋人との比較を語っているというのは、僕ら日本人の心根が、「あるべき日本人像」には染まっていないということを意味していると思います。

たとえばサッカー日本代表。海外、とくにヨーロッパで活躍する、「われらが」原口元気その他の日本人選手は、徹底的な西洋人の流儀をじかに学んでいるから戦える。いっぽう、国内リーグの日本人選手は、デフォルトの「何とかなるさ」的思考から抜け出せていないがために、「何とか」に任せてしまっているから(=他律的思考)、いざとなると、リーダーシップ不在のメダカの群れみたいな無責任集団になってしまうのではないかと思ったり。

なお、篠田さんの言葉には、つづきがあります。

そういうところがやっぱり、日本人ってのは曖昧模糊としたところを残してる。
それが、人間が考え得ないものがあるって、謙虚な美しい性格なのか、無責任極まるものなのか、それはわかんない私には。
両方だとは思う。無責任でもあるし。

ひとつの解釈として、日本は地震津波、台風といった、人間の制御を超えた「天災」が多いため、この土地で暮らす流儀として、「何とかなるさ」という思考スタイルを身につけた、のかもしれません。

根拠はありませんが。

天皇陛下が国民を統合し続ける理由:日本人という求心力は案外と脆い

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「象徴天皇としてあり続けるためには、主権者である国民の理解や支持が必要であり、自ら積極的に動いて国民を統合していくことこそ天皇の役割だと考えているのでしょう」と、瀬畑源・長野県短大准教授は、天皇陛下が考える「象徴」の役割を指摘しています(朝日新聞2017年12月9日朝刊3面)。

日本国憲法の第一章第一条は、

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

となっています。国民主権のもと、国民みんなの考えによって、天皇はその地位にあり、天皇は、「日本国民統合」の象徴であるとされているわけですが、国民統合って、何でしょう。東日本大震災のときのキャッチフレーズ「ひとつになろう日本」みたいなものでしょうか。ではなぜ、この民主主義のもとで、ひとつにならなきゃ、いけないんでしょうか。

天皇陛下は、なぜ、日本国民を統合するために、自らが積極的に動く必要があると考えているのでしょうか。

以前書いた、「日本精神・前編:「日本人らしさ」の源流は、満洲事変後にあった」では、いまの僕らが考える「日本人らしさ」が、じつは思ったよりも浅い歴史しかないことを指摘しました。

また、「カズオ・イシグロ氏の日本論から:「どん底からの逆転」神話の嘘と罪」では、こう書きました。

日本人としてのアイデンティティは、国民的な(ある種の)イベントによって認識、形成、強化されるものだとも考えています。その意味で、悲惨な戦争体験とは、日本人が日本人であるために欠かせないイベントであり、しかもその最大のものは、1945年8月15日の玉音放送だったのでしょう。別の言い方をすると、終戦の8月15日をもって、日本人はまさしく日本人となったのです。「終戦」とは、ある意味、「日本人」の始まりの日なのです。

日本人という民族は、ずいぶんと古くから、この日本列島で代々暮らしつづけていますが、日本人という自意識、アイデンティティをもつようになったのは明治期以降ですし、そのアイデンティティも、「イベント」によって強化されてきた、僕はそうとらえています。

日本人というアイデンティティが、実は案外と脆いものだということを、天皇陛下は知っているのではないでしょうか。放っておくと、ばらばらになってしまう、幼稚園児が砂場でつくった家のように。

防衛研究所が所蔵する、「天皇制の問題に就て」と題した史料を読んだことがあります。第一復員省資料課が、昭和21年2月に作成したものです(中央-全般その他-153)。以下は、その一部抜粋です。「〓」は読めなかった箇所、{ }内は僕のメモ。若干不正確かもしれませんが、参考までに。

三、天皇制の危機
1.今次世界大戦を転機として世界は圧倒的に民主主義化せらる(民主主義にも各種の形態あるも其傾向として勤労の国家性と)生産機関の社会化は必然
2.世界一環の思想濃化しつつあり
社会は一なる米を中心とする世界連邦との傾向英を中心とする欧州連邦の傾向此場合各国主権は如何になるか
3.航空機の発達により戦争の形態は勿論政治形態の変化は必然的に主権をある程度制限する傾向あり
〓令えば戦争惹起の場合に於いても国際的聯合解決の傾向を生ず
原子爆弾に対する国際的支配の問題、広地域主義の国際的教育、労働条件の国際化
飛行機による交通の発達は世界的領域の観念にて主権を制限す
言語にしても各国文化の国際性を生ず
以上の如き諸要素は国家の特殊性を薄くす
天皇神聖にして侵すべからずの観念も当然変更せらるべきなりとの議論の台頭あり)
更に国内的「デモクラシー」の趨向を見るに
議会中心の「デモクラシー」は国際的には崩壊しつつあり
国際的には其国の執行権を強化するという考え方が支配的なる
議会を通して強大なる政府を造り以て政府の執行権を強化する
という傾向が支配的にして英国が其の範なり
即ち強力なる背景を有する人材の手によって政治をやることが最近の世界の動きなり米国も亦大統領の権限は議会ではどうにもならぬ程強化さ大統領の執行権は今時戦争にて益々強化せられたり然るに現在の日本の民主主義は全く逆行しつつあり
仮令は各の趣旨よりすれば小選挙区制を可とするに拘らず大選挙区制を採用して小党分立の弊を助成しあり
斯くして政治的混乱を愈々激化し其混乱の中に天皇制は翻弄さるる危険性に直面す
将に天皇制は嵐の中心に在りというべし
第四、結言
以上民間の研究を結論付くれは日本国民の意志は圧倒的に天皇制支持てありなから客観的状勢は之れと反対に天皇制は極めて危険に瀕しているといふ事が出来る
従って天皇制を支持せんか為には自然放置の呑気な態度は許されぬ
日本に関する限り天皇制は心配なしとの楽観的態度は禁物てある
然らは之か援護の具体的方法如何といふ事になるのてあるかそれは玆〓{ここでは、か?}
差控へたい、只要は国内的には積極的闘争の展開にあり対外的には天皇〓理論の完成と之か宣布てあるといへるのてはなからうか
(了)

進むべき道が自明だった時代。自主的思考を放棄できた時代。

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あなたの周りに、孫に何でもしてあげた挙句、孫をダメにしてしまった、「優しい」おばあちゃんはいませんか。

ここでその詳細を書くのは控えますが、僕の周りには、います。しかも、一人ではありません。だからきっと、日本全国、そこらじゅうに、そんな「優しい」おばあちゃんがいるのではないか、って気がします。

なぜ、そのおばあちゃんは、そんなことをするのだろう。そう考えたことで、ある仮説にたどり着きました。

その「優しさ」の最大の特徴は、たぶん、先回りしてしまうことです。未来という荒野を先行して切り拓き、きれいでまっすぐな道を作り、さあ、あなたはここを歩くだけでいいのよと、微笑んで待ち構えているのです。…あくまでイメージですけど。

おばあちゃんは、かわいい孫が進むべき道はただ一つだと思っています。疑いもなく思っています。向かう方向は自明であって、だから、孫が自らの頭で悩んだり、迷ったりする必要はないと思っています。悩んだり、迷ったりすることに価値があるとは思っていません。そんなことは時間と手間の無駄だと思っています。

何を立ち止まっているの?
ガムシャラに行けばいいのよ。がんばれば、必ずいいことがあるんだから!

ガムシャラに頑張って豊かさを手にしたと自負する世代は、ガムシャラが成功の合言葉だと思っています。わき目もふらず、一心不乱に、ひたむきに、努力をし続けた者に、素敵なゴールが待っているのだと思っています。

でも、ほんとうの荒野を進むのに、ガムシャラはいけません。どこにどんな危険が潜んでいるか、わかりませんし、方角だって、常に間違っていないか確認しながら進まなければ、どうなるかわかったものじゃありません。ですよね?

おばあちゃんは、孫の自主的思考を奪っていたのだと思います。

新聞に、こんな投書が載っていました。終戦当時に19歳だった男性からの投書です。「戦争末期、空襲の際に防空壕に逃げ込みながら「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と考えた」と書いてありました(無職・日野資純・静岡県・89歳、2015.3.15朝日新聞)。

自主的思考が不十分だったのは、戦時中に限らないと僕は考えています。戦後の高度経済成長期も、日本人は、ひたすらガムシャラに働いてきたからです。ほんとは、戦後の占領期から高度経済成長期の途中まではあまりガムシャラとは言えないのですが、そこはとりあえず、置いといて。

自主的思考が不十分だった期間は、たぶん、「非常時」と言われだした満洲事変(1931(昭和6)年)から、バブル崩壊(1990(平成2)年)あたりまで、約60年間です。あ、バブル崩壊wikiでは1991年からとなってましたが、僕の経験では1990年。当時、六本木交差点の本屋で読んだ雑誌に、「バブルがはじけた」とか書いてあった記憶があるので。

つまり、日本人はこの60年間もの長い間、自主的思考を放棄してきたのです。満洲事変以後の日本は、かたくなに、進むべき道は自明と考え、国際社会との間に摩擦を起こし、泥沼の戦争に突入して、国家存亡の淵に立たされたのが昭和20年。ここで「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と国中が反省すれば違ったのでしょうが、なにしろ悪いのはぜんぶ軍部のせいにして免責された日本人は戦後、豊かさ一直線に邁進します。どん底からの再出発ですから、これ以上悪くなりようがないし、給料は年々アップで毎年目に見えて暮らしは豊かになっていきます。

考える必要はありませんでした。

でも、いまに生きる僕たちは、考える必要に直面しています。どう考える、どう生きる、どう進む。頑張るにしたって、何をどう頑張る。誰かのためではなくて、自分のために。あるいは、自分が大事にする、何かのために。

時には立ち止まったり、振り返ったり、横道にそれたり、立ち戻ったり。効率が悪くても、ひとつひとつをクリアしていくしか、ないですよね。

おばあちゃん、かわいい孫を「善導」するのは、もうやめませんか。やり直しはきかないんですから。

過去に向きあう。未来を手に入れる。

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当ブログの説明は「過去に向きあう。未来を手に入れる。」です。当初は「史料で日本の近現代史の再構築を。」だったのを変更しました。僕にとっては、ほぼ同じことを言っているつもりなのですが、その意味を説明します。

先日、朝日新聞のオピニオン欄に「フェイクとどう闘うか」と題し、米エモリー大学教授の歴史学者、デボラ・E・リップシュタット氏のインタビューが掲載されました(20171128朝刊17面)。

「米国の作家フォークナーがこんな言葉を残しています。『歴史は死なない。過ぎ去りもしない』。歴史は古い事実だけではありません。起きたのは過去かもしれませんが、現代性のあるものです」
ヒトラーの風評を変えようとしたアービング氏ら否定者は歴史に関心を寄せたいのではなく、現在を変えたいのです。彼らがやろうとしているのは、歴史を改めて違う形にすることで、いまと未来を変えようとしているのです」

歴史は、ときに創られるものです。個人の歴史が、意識的あるいは無意識的に、しばしば誇張され、あるいは矮小され、忘れられ、書き換えられるのと同様、国の歴史にも創作があります。そのほうが、いまを生きる人にとって、少なくともそのうちの誰かにとって、都合がいいからです。過去を書き換えることは、現在と未来を書き換えることにつながります。

日本の近現代史にも、創作があります。創作に満ちあふれている、といったほうがいいかもしれません。だから、拙著『終戦史』 のプロローグを「「終戦」というフィクション」としました。

創作の核心部分のひとつは、昭和20年8月の「終戦」にいたる戦争を、すべて「狂気の軍部」の暴走によるものだとし、国民は軍部にだまされたのだ、としたことです。このストーリーが戦後成立し、日本の人びと(および占領軍)に受容され、浸透し、デフォルト化していく過程はなかなか複雑なので、ここでは詳しく触れませんが、当時から異論がありました。

映画監督の伊丹万作は、終戦直後の昭和21年、「戦争責任者の問題」と題した一文を雑誌に寄せています。伊丹は、「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという」と述べたうえで、町会、隣組、警防団、婦人会といった民間の組織が、熱心、かつ自発的に、だます側に協力していたとします。

「戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか」
青空文庫

すべてを「軍部」のせいにするのは、アメリカの占領政策上、都合のいいものでした。その「軍部」に、大日本帝国憲法下で大元帥だった昭和天皇が含まれないという点は、スルーされました。多くの国民にとっても、都合のいいものでした。戦後日本の再出発は、過去を書き換え、日本軍をばっさりを切り捨てるところから始まったのです。

ですが、ここで国民が免責されたことは、その後の日本にとって、果たして、本当に良いことだったのでしょうか。

もちろん、終戦までの長い期間、つまり、満洲事変以後の「非常時」に、あるいは、日中戦争以後の閉塞感が増すばかりの暮らしに、そして、激しい空襲による死の恐怖に、ずっと直面しつづけた日本人をおそった疲労と絶望、「虚脱」状態(ジョン・ダワー『増補版・敗北を抱きしめて(上)』p92)を考えれば、その措置は妥当なものだったといえるのかもしれません。

ですがその後、わずか数年で、国民の間に伝統回帰的な風潮がめばえ、子どもたちの自主性や個性を尊重する「新教育」に対する反発から、昔ながらの問答不要のしつけを学校に求める声が強まったことや、昭和39年の東京オリンピック後に、軍隊ばりの、あるいは軍隊顔負けの「根性」ブームが起き、その後、体罰、しごき、精神論が教育現場で猛威をふるったことは、多くの国民が「ちっとも懲りていない」ことを示しているように見えます。人々は、戦争はもう二度とごめんだと言いながら、そのいっぽうで、「軍国主義」下の精神論を、民主主義の平和国家に生まれ変わったはずの戦後日本で復活させたのです。

その後の日本は、高度経済成長によって「経済大国」となるわけですが、その自負が、戦前戦中となんら変わりない精神論とリンクした成功神話となり、「戦後の経済的復興は頑張りによって成し遂げられた」(2002年4月、新聞投書)という言説が、あたかも自明の事実であるかのように、人びとの間で語られていきます。

やはり高度経済成長期(もしくは、高度成長期半ば、東京オリンピック後の「四十年不況」を契機)に、「日本人は勤勉だ」という誤解(『自分の半径5mから日本の未来と働き方を考えてみよう会議』出口治明・島澤諭p63では「思い込み」)が定着し、そうした「理想の日本人像」(←いったい、誰にとって?)が、いつまでも僕たちにのしかかり、僕たちを規定し、僕たちを追い立て、戦後の新教育で浸透するはずだった自主性や個性の発揮が社会全体で阻まれているかに思える状況を鑑みれば、いまこの時代に、現在進行形で生きている僕たちは、そして、この先も生きていく僕たちは、未来を手に入れるために、過去に向きあう必要があります。

これまで自明の事実であるかのように語られてきた歴史(=どん底からの逆転劇)は、高度経済成長という、「実は努力しないでもそれなりに“右肩上がり”で来られた時代」(ひろさちや、2006.9)を謳歌した世代にとっては心地よいものだったのかもしれませんが、僕たちにとっては、迷惑な話です。

日本的な精神主義がもたらした結果は高度経済成長という成功ではなく、空襲で何もかもが破壊された焼け野原、昭和20年の終戦=敗戦という失敗なのです。

僕の主張をごく簡単にいえば、ブラック企業の精神風土を、実証的に叩き潰そう、ということです。

そしてそれは、ひとつのアプローチとしては、史料に基づいて、日本の近現代史の再構築をしていくことに他なりません。

たとえば、一ノ瀬俊也『飛行機の戦争1914-1945─総力戦体制への道』(講談社現代新書、2017年)は、太平洋戦争がじつは「国民の戦争」(p14)であったことを、「主として海軍の宣伝パンフレットや市販戦争解説書、そしていわゆる日米仮想戦記などの史料」(p7)を使って、詳細に解き明かしています。一ノ瀬氏によれば、戦時下の国民が対米戦争を航空戦主体のものと認識していたにもかかわらず、戦後の日本人は戦争を大鑑巨砲主義、戦艦の戦争と記憶しつづけてきた理由のひとつが、「戦後に盛んとなった、戦争指導の“真相”暴露的な報道が、航空戦に協力した民衆を免罪するため、戦争を戦艦主体として書き換えたこと」だとしています。

僕自身は、「終戦」に強いこだわりを持っています。「終戦の8月15日をもって、日本人はまさしく日本人となったのです。「終戦」とは、ある意味、「日本人」の始まりの日なのです」とも書きました(カズオ・イシグロ氏の日本論から:「どん底からの逆転」神話の嘘と罪)。終戦なんて、もう70年以上前のことで、いかにも古臭い、かび臭いと感じる人もいるでしょうが、書き換えられた過去を書き戻さない限り、僕らは、未来を手に入れることができないと思っています。

過去に向き合い、未来を手に入れましょう。