週刊:日本近現代史の空の下で。

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小磯内閣への「本間報告書」には戦時下民衆のリアルの一端が

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特高月報ネタが好評みたいなので、あまり知られていない重要資料「本間報告書」について書きます。

本間報告書とは、小磯内閣の時に内閣の私的顧問だった本間雅晴陸軍中将が、内外のさまざまな動向を広く収集、報告していたものです。とりわけ、当時の国内の民衆のようすがリアルに記されている点が貴重です。

一部を抜粋します。

 昭和19年9月25日

一、決戦に相当の成功を収めたる後之れを機会に外交戦を以て戦争を終局に導くべきや或は戦争を更に継続して最後まで滅敵進軍すべきやに付いて両論衝突し国論遂ひに分裂することを予想し今から肚を決め置く要ありとして識者間に相当の準備を為すものあり。
二、日本の創造せる重要なる決戦兵器が10月中旬に完成するとなし、又物的戦力が今秋が山だとの見透しと更に米大統領選が11月と睨合せ大体11月から12月頃に決戦が行はれるものと国民が想像している。決戦に対しては大衆は大いに期待しあるも有識層は懐疑的なり。

昭和19年10月12日

三、近時重臣層の関心の重点は外交妥協にあり、政府は此の重臣群の意欲に押されて徹底抗戦意志力を弱化するの已むなきに至り、やがて対米英妥協の手段を取るに至らんとの見解が巷間に流布され、之れに対し陸軍中堅層は対政府不満を抱き又戦争発端当時の為政府を繞る一群は若し之れが表面化することあらば即ち現内閣運命の終点なりと伝え以て本問題は現内閣の試金石として有識者は其の賛否何れの陣を不問ず注視静観しあり。
四、内閣は外交妥協に乗出す時、爾余の機関、並団体は順応するも翼賛壮年団のみが強硬論一本調子で政府に楯を突く処あり。故に今の中に之れが去勢策を講ずべしと閣内の一部に主張するものありと巷間に噂されあり。
而して此の理論を繞りて翼壮こそ徹底抗戦派の本城たらしめんと感激するものあり。

昭和19年10月19日

三、現内閣今日までの「スローモー」は今次大戦果に依って国民から「帳消」にされたるを以て爾今政策の実行面に於て国民を指導引率するに足る政治追撃戦を敢行されたしと希望する者多し。

ここの「今次大戦果」とは、台湾沖航空戦とみられます。次も同様。

昭和19年10月20日

四、大戦果の為め小磯内閣の寿命は延長せりとの観を与へ、民間は現内閣に信頼するの空気濃厚となり、官界人は又腰を据へてやろうと云ふ態度を示し来たれり。

昭和19年10月23日

三、地方視察より帰来せるものの談は左の点に於て概ね一致す。
1 県庁の役人、特に課長以下属僚が権力を振り廻して威張り散らすこと目に余るものあり。又彼等の貪官汚吏的行為は反感を唆り、増産意欲を衰頽せしむること大なり。
2 各地方統制会幹部は旧来営利業者出身多く其頭を其儘として態度のみ役人気取りとなり其地位を利用して私利を営まんとする徒輩多し、大改革を必要とす。
3 民心の悪化顕著なり。其原因多々あるも転廃業者、徴用工、棒給生活者等に於て著しく赤化の温床たらんとしつつあり。
又一般農民の自己中心的傾向も漸く甚だしからんとする傾向あり。
四、米軍の比島上陸は台湾沖の大戦果の喜びに冷水を浴びせたる結果を生じ、国民は敵大輸送船団に対する我空軍の無力に失望し、月産2500と称する飛行機は机上の数字なりや、若くは多数の不合格機をも包含する数字なりやとの疑問を起しつつあり。
某陸軍将校の談によれば比島に在る飛行機は100機中真に飛び得るもの40機にして整備資材等能力甚不十分なり。

昭和19年10月30日

二、内閣顧問の発表を見たる一般国民は恰も同時発表なりし20代30代の勇士が必死爆撃に挺身する壮烈なる第一線部隊に思ひ較べ其の顔振れが余りにも戦時色の希薄さに失望したるのみならず、太平洋決戦の真只中に於て「政府は是れでよいのか」との感を深くせしもの少なからず。

昭和19年11月1日

一、右翼方面の意見
(イ)現内閣は戦勢有利に転換せざるまま米英側と妥協するに非ずやとの危惧の念を有し、之が戦意昂揚と両立せざるものあるやに感ぜられしが今次大阪に於ける総理の演説に於て此点に関する政府の態度を明示せられ安心を与へたり。
六、対米英決戦場に於て神風必死隊の登場し、国民は此の報道を聞いて感泣しある反面、政府の政治措置として現れたる人事の発表を見て彼等は極度の対政府失望感を露呈しあり。
右は翼壮、産報、農報等中堅指導者の総合的意見にして全国青壮年階級も同様なりと見られるべし。

昭和19年11月10日

一、比島沖海戦の戦果偉大なりしに拘はらず、米国の誇大虚構且執拗なる放送の為世界は米国の大勝利を信ずるに至り「ソ」連並中立国に与へし影響少からず。最近に於ける宣伝戦は明白なる敗北なり。其責任を宣伝機構上の欠陥に帰するもの多きも現機構を以て尚ほ為し得ること少からざるべし。

昭和19年11月21日

一、レイテ島戦況の見透しに対し海軍側は沈黙冷静を守りあるに対し陸軍側は極めて楽観的態度なり。
ガダルカナル撤収以来今日まで度々陸軍側観測が必ずしも当たらざりし結果世間では亦此の観測に疑を抱きあり。

昭和19年12月23日

一、比島戦況の我軍に楽観的にならざるに対し、陸軍省部内に於ては、比島は天王山に非ず、又、斯くなりたるは海軍の制海権喪失に起因す、との意見散出し恰も陸軍当局者は戦況に対する見透に就き確乎たる自信を失ひたるかの如き観あり。

昭和20年1月26日

一、地方民心は慚次戦局に対し絶望的に陥りつつあり「マニラ」陥落するに至らば相当の動揺を免かれず。

昭和20年1月31日

一、議会に於ける問答中新聞に現れたるもののみに就て見るに「非死必殺の新兵器生れつつあり(八木技術院総裁)」「飛行機生産は楽観して可なり(遠藤航空総局長官)」「油は十分の分量あり(吉田軍需相)」「食料は心配の要なし(島田農商相)」「国内の治安は良好なり(大達内相)」等々
何もかもうまく行って居ると云ふ形なり。
之等を「ラヂオ」にて聞き何と云ふ出鱈目ばかり言ふのかと憤慨して「ラヂオ」を叩き毀したるものあり。
そんなにうまく行って居るのに敗戦を重ねて行くのはどういう次第かと訊ねる農民あり。

ここから読みとれること。

政府や軍にとって、「戦果」とは、無条件降伏ではない、条件つきの講和、しかも、できるだけ有利な講和に必要だったものですが、それだけでなく、悪化する民心をつなぎとめるために欠かせないものでした。台湾沖航空戦の「大戦果」は、(すくなくともいっとき)国民に歓迎され、小磯内閣への不興を帳消しにする効果がありました。

国民は「米軍の比島上陸」に失望する一方、「20代30代の勇士が必死爆撃に挺身する壮烈なる」姿、「対米英決戦場に於て神風必死隊の登場」に感泣しました。

ガダルカナル撤収以来今日まで度々陸軍側観測が必ずしも当たらざりし結果世間では亦此の観測に疑を抱きあり」「何と云ふ出鱈目ばかり言ふのかと憤慨して「ラヂオ」を叩き毀したるものあり。そんなにうまく行って居るのに敗戦を重ねて行くのはどういう次第かと訊ねる農民あり」といった記述から、少なくともこの時点では、国民はいわゆる「大本営発表」をあまり信じていませんでした。

など。

※とりあえず初稿アップします。本間報告書は他にも興味深い記述があるので、後日追記するかもです。

情報求ム:ブルガリア首都ソフィアでソ連の対日参戦情報を得た「梅田」氏

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来年、ブルガリアの首都ソフィアに行く計画を立てています。観光ですが、戦時中のソフィアに、「梅田」を名乗る正体不明の人物がいたとの情報を知ってから、気になっていた地なのです。

戦時中、ブルガリア駐在陸軍武官秘書としてソフィアに赴任していたことがあり、戦後は広島県可部町で町会議員などをしていた、吉川光(きっかわ・あきら)という人物が、こんなことを書き残しています。

吉川氏は、1943年6月10日からソフィア赴任。ブルガリア三国同盟側についたもののソ連には中立を守った、とのことでしたが、1944年9月6日深夜、突如ソ連軍が武力進駐。その後、11月1日にイスタンブールに脱出するまでの間を、ソ連が包囲するもとで過ごしたといいます。

そのソ連占領下の出来事でした。

そのころ、ソフィアに「梅田」と名乗るただ一人の日本人がいた。日本の竜谷大学卒業の僧侶で、自費留学中戦争で送金が不能となり、朝日新聞の通信員であると自称していた正体不明の怪物で、日本公使館筋は反間諜者の疑いありと敬遠し、日本軍部からも要注意人物として接触せぬようにと注意があった。しかし私にはいか物食いの性癖も手伝い、また放浪の日本人として興味と同情もあって彼と内密に交際し、若干の物質的援助もおしまなかった。10月末のある夕方、彼からの電話呼び出しで公園の一隅で密接した時のことである。彼は突然私の耳許に口を寄せてささやいた。「ドイツ降伏後三ヶ月以内にソ連は対日参戦する」と。その情報入手経路は休暇で帰省した駐米フィンランド公使館二等書記官ラムステットから聞いたとのことである。ラムステット書記官の父は、初代の駐日フィンランド公使で日本語をよく話し日芬協会会長の親日家で私も面識があった。この情報は実は、そのころ日本参謀本部が目の色を変えて捜し求めていたテヘラン会議の内容であった。

吉川氏はその内容を武官の清水大佐に伝え、「確度丙で日本へ打電した」ものの、日本からは何の反応もなかった、としています。確度丙というのは、低確度、つまり、あまり確かではない、ガセネタかもしれない、という意味です。

この回想の真偽も不明ですが、当時の世界各地において、各国のスパイたちが、虚実さまざまな情報交換をしていたであろうこと、そして、その諜報戦に日本の陸海軍武官らも加わっていたこと、などは、拙著『終戦史』に、判明したその一端を書きました。軍が雇った民間スパイがいたという話も聞いたことがあります。

とりわけ、ブルガリアのような小国、立地上、大国にその運命を左右され翻弄されてきた国では、さまざまな奇奇怪怪な駆け引きが、歴史上繰り返されてきたのではないか、そんな歴史の雰囲気を、現地に行って、体感したいと思っています。

この「梅田」氏についての情報提供を、求めています。ご遺族の方など、おられましたら、是非ともお話をお聞かせいただけませんでしょうか。

フォームメールか、masato.yoshimi@gmail.com(@を半角にしてください)からご一報ください。ご連絡をお待ちしております。

参考資料:吉川光『「民族協和」の満州国─元関東軍将校の従軍記』(靖国偕行文庫392.9G国)

※吉川資料の存在については、数学史家・木村洋氏から教えていただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。

「頑張る」は日本人に固有の民族性ではなく戦時中の刷り込みです

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これまで「頑張る」というコトバがどのように使われてきたか、過去の文献からたどってみました。

■昭和6年:人生の競争に、遊戯ではない真剣な生活事業の競争に、誰が『頑張れ、頑張れ!』と声援してくれるか。

昭和6年4月の雑誌に掲載された一文から。書いたのは、早稲田大学教授で哲学者の、帆足理一郎。

観衆の乱打する拍手、『頑張れ頑張れ!』と我が名を呼ぶ声、競技者は夢中になって、まっしぐらに決勝点へ突進する。我が名を連呼して、勢いづけてくれるファンが多数であれば、あるほど、自分は彼等の期待に背いてはならぬ。我が脚は折れようとも、心臓は裂けようとも、観衆の助成に感激して、突進せざるをえない。かくて競技者は頑張り、危ない処で最後の勝利を収める。だが、人生の競争に、遊戯ではない真剣な生活事業の競争に、誰が『頑張れ、頑張れ!』と声援してくれるか。

この文章には「一般の観衆が野球その他のスポオトに興味を移して、以前の如く、角力に熱狂しない」などとありますから、ここに書かれた競技者の突進は、野球の走塁のことを指しているようです。

それはともかく、このときすでに、「頑張れ!」という応援が存在していたことと、同時に、「頑張れ!」という応援が、ふだんの生活では使われていなかったことがうかがえます。

「頑張る」が、受験界でも古くから使われていたこと、「ガンバリズム」という言葉も、昭和2年の受験雑誌にすでに使われていたことは、コチラにすでに書いています。

■昭和6年:日本はあくまで満洲に頑張らねばならぬ。

上記記事から約半年後の昭和6年9月18日、満州事変が発生。大日本育英会創立者の政治家・永井柳太郎は、新聞への寄稿文のなかで、

満洲における日本の存在が、ひとり日本の存立のためのみでなく、東亜全局の平和保持のための絶対条件であることを信ずる限り、日本はあくまで満洲に頑張らねばならぬ。今日は日本国民にとりて試練の秋である。政府よ、国民よ、正しかれ、強かれ、しかして明るかれ!

と訴えました(報知新聞、昭和6年11月、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(102-115))。

外交官の杉村陽太郎は、昭和8年、雑誌に「頑張る新日本」と題した一文を掲載します。そこで杉村は、「人間は無理を平気で押し通し、倒れても止まずといふ意気で頑張るところに向上があり発展がある」として、「国家が死か生かの大戦争になると結局国家的な精神力の旺盛な国が勝つ」のだから、「真の国民精神に培ひ、更生新日本の意気で世界の人類に呼びかけねばならぬ」と説きました。

このように、時局とともに、「頑張る日本、頑張る日本国民」といった言説があらわれるようになります。

■昭和14年:「蒋介石のガンバリは敵乍ら強靭、あっぱれ」「石に噛り付いても此のガンバリ競争には勝利せねばならぬ」

昭和12年から始まり、泥沼化していった日中戦争が、「頑張る」を日本国民に要求するようになります。

7月に勃発した事変は、同年12月の南京占領をもって日本軍の勝利に終わったかに思わました。日本国内はお祭り騒ぎになり、商店街に祝賀アーチが立てられ、昼は旗行列、夜は提灯行列が行われ、東京は提灯の“火の海”と化しました。

ですが、蒋介石は屈することなく、なおも抗戦を続けます。戦争は長期化、泥沼化の様相を呈し、「「戦争」は一体何時終るのかナー」といった嘆息(ちくま新書『理想だらけの戦時下日本』井上寿一)が、国民の間で囁かれることとなります。

昭和12年は、戦前の日本の経済力が最高潮だった年(『基本国力動態総覧』)でしたが、日中戦争によって次第に民需が圧迫され、国力は徐々に下降、人びとの暮らしには閉塞感がただよいはじめます。しかし、ここで戦争をやめるわけにはいきません。国内のあちこちから、「頑張れ」の大合唱が湧き起こりはじめます。

たとえば、昭和14年刊行の『体操の研究授業』。「此の前古未曾有の非常時に直面して」時局に即した小学校体育の実践を説いています。

蒋介石のガンバリは敵乍ら強靭、あっぱれ」としつつ、「蒋介石は敗れても、取られても最後の勝利を叫び続けている」「之に負けたら我等は滅亡である。石に噛り付いても此のガンバリ競争には勝利せねばならぬ」として、ガンバリ養成のための体育を強調、「何事も辛棒強く行はせることが肝要であらう。耐久走とか障害物競走とかいった種目は、今後益々重視したいと思ふ」「逆上のやり方などでも、握りがどうの、踏切りがどうの、姿勢がどうのと文句ばかり言っていないで、十回も二十回も続けて行ふやうにするのである」と説いています。

当時の小学生の回顧にも、昭和14年頃のこととして、「体育の課目に重点がおかれるようになった。その当時、教育方法に「練成」という新しい方法概念が導入され、子どもたちは日頃の鍛錬によって強い体に鍛えておくことが奨励されるようになっていたのである。〔略〕学校で、新たに三つの鉄棒を備えたのは、ちょうどそのころのことだった。これまでも鉄棒はあったが、今度のは、それとは比較にならない高さであった」(岡野薫子『太平洋戦争下の学校生活』1990年)とあるから、こうした考えが現場に導入されていったのでしょう。

この時期刊行された人生訓を説く本には、やたらと「頑張り」が登場するようになります。たとえば、新潮社創立者・佐藤義亮は「前進、前進──、この頑張りで、何処々々までも押し進んで行くのみであります」(『向上の道:生きる力 第二編』昭和13年)と訴えています。貴族院議員の永田秀次郎は、雑誌寄稿の「頑張れ日本」(昭和14年)と題した一文に、「今は何といっても胸突八丁、頂は近いのである、汗が出る、呼吸も苦しくなるが、国民はヘコたれないで頑張るのである。〔略〕この時を逸しては頑張る機会はない」と、国民を鼓舞しています。

■昭和17年の東條首相:戦争は意志と意志との戦ひであります。頑張り合ひの闘ひであります。

昭和16年12月8日、太平洋戦争がはじまりました。

大政翼賛会は、「大東亜戦争に処する国民の心構へを指導する標語」として、「国運を賭しての戦ひだ 沈著平静最後まで頑張れ」を掲げます。その下部組織、中央協力会議が開催した昭和17年9月26日の会議。

冒頭の東條首相は、「戦争は意志と意志との戦ひであります。頑張り合ひの闘ひであります。〔略〕最後の五分間迄頑張り通したものに、勝利の栄光は輝くのであります。〔略〕一億国民が奮起し、而も飽くまで頑張りを必要とする、洵に今日より大なるはなしと申すべきであります。而して米英の頑張りは絶望の淵に臨むあがきであり、日本の頑張りは光明に満てる建設の喜びであります」と、頑張りという言葉を五回も繰返し、大いに「頑張主義」を力説した「頑張り演説」を行いました。

「頑張る」は、もはや国是となったのです。

新聞紙上にも、「頑張る」の単語は頻出します。朝日新聞の見出しにおける「頑張る」系単語の件数は、各年の頁数の差を補正したデータでみると、この時期、著しく突出しています。もっとも多かったのは昭和18(1943)年の、43件。

「ソロモンの前線・航空基地を征く 頑張る「ガ島の仇敵」敵の猛爆下に設定」(3月3日)
「いいか!空襲下の構え/怠るな警報下の緊張 防水第一・水の用意 各人、持ち場に頑張れ」(4月18日)
「“芋飯”で頑張ろう」(7月7日)
「増産に気負う学徒の“頑張り”を善導せよ 勤労職員の真価発揚へ」(8月22日)
「24時間ぶっ通し 防訓日割変る 戦果に応え頑張ろう」(11月6日)
「来年こそ「決勝」の年 持場職場で頑張ろう」(12月31日)

といったように、戦争一色となった世相が反映されたラインナップになっています。
また、これらの言説は、軍部や政府のスローガンばかりではありませんでした。当時、さまざまな人々が、口々に「頑張れ」と言い、国民自らが、戦争遂行という国家目標に向かい、徹底抗戦へと人々を煽り立てていたことがわかります。

■昭和18年:頑張り通し得る伝統的尊き精神力を持てる国民

太平洋戦争後、「頑張る」の言説は歪みはじめます。もともとは「頑張らない」国民性だったはずなのに、「世界一頑張る国民」、との主張までもがあらわれます。

日本初の経済評論家・高橋亀吉が発行する「高橋財界月報」昭和18年7月号では、「経済総力に於て仮りに米国が日本に数倍するとも、経済戦力に於ては日本が米国に優る結果を生ずる」としています。なぜなら、「国民の頑張力の如何は、その国経済戦力の強弱大小を決定する最も重大要素」で、日本人にとってこの戦争は「如何に苦しくとも最後まで頑張り通さねばならぬ戦争」で、かつ、「頑張り通し得る伝統的尊き精神力を持てる国民」だからだといいます。

そして、「戦争に対する銃後国民の頑張力(生産増強と云ふ積極的努力に対する国民の頑張力及び戦争の要求する経済的重大犠牲、生活上の重大苦痛等に対する消極的頑張力)に於ては、日本は世界に於て最も優れ」ているというのです。

■敗戦後:われわれはみな、何をするにものろのろとやり、茫然としている。

敗戦とともに、「頑張る」はいったん下火となりました。

ジョン・ダワーは、『敗北を抱きしめて』で、「頑張る」について、戦時スローガンのなかでも最も使い古された言葉であり、「戦後の再建、平和、民主主義、新日本のために働こうという宣伝にもよく使われた」と書いていますし、プランゲ文庫をみても、「頑張る」「頑張れ」「頑張ろう」「頑張りませう」「頑張るぞ」「頑張って」「頑張らうぜ」等々をタイトルに含んだ記事は多数存在します。

ですが、朝日新聞の見出しにおける「頑張る」系ワードの出現件数は著しく減少。昭和24年までの紙面が一日わずか2ページと少ないこともありますが、敗戦後、昭和24年まではたったの計4件。その後ページ数が回復しても、十数年間は年間ヒトケタ台と、戦前戦中、とりわけ、太平洋戦争中の突出頻度に比較して、隔世の感があります。

占領下の日本人は、自らの進路を自らの手で決めることすらできませんでした。「まともに働いていても食えない、というよりは、まともに働いていては食えない」時代でしたし、政府にしても「まず生きるための仕事をもらいたい、国民にもそういうものを植え付けたいというだけのことで、行き当たりばったりですよ」(産業政策史回想録・吉田悌二郎氏)と、何をどう頑張ったらいいか、途方に暮れていたというのが実態でした。『菊と刀』では、東京でのある日本人男性のこんな言葉を伝えています。

もう爆弾が落ちてくる心配がなくなって、ほんとにほっとした。ところが戦争がすむと、まるで目的がなくなってしまった。みんなぼうっとしていて、物事をうわのそらでやっている。私がその通り、私の家内がその通り、国民全体が入院患者のようだ。われわれはみな、何をするにものろのろとやり、茫然としている。

朝日新聞「声」の欄をみても、「頑張る」よりもむしろ、「元気一ぱい働こう」など、さまざまな励ましの言葉が使われています。当時の多くの日本人は、かつての官制スローガン、軍国主義と結託した「頑張る」ではなく、新しく明るい、「再建日本」にふさわしい言葉をさがしもとめていたのではないでしょうか。

「頑張り主義」は、敗戦によって、大失敗に終わったのです。日本の、日本人の「頑張り」がもたらしたもの、それは、空襲で徹底的に破壊された、焼け野原の町でした。

■日本人≠頑張る民族

天沼香・東海学院大学教授(歴史人類学、日本近現代史)は、「頑張る」をテーマに、2冊の著作(1987年、2004年)を刊行し、「頑張り」の精神を、日本人に固有の民族性、行動原理の核の一つだと結論づけています。

ですが、これまでの文献を読むかぎり、「頑張り」の精神とは、昭和に入ってから、とりわけ満洲事変以後の時局にともなって喧伝されたものです。泥沼化した日中戦争を続けるための、いわば「方便」として使われ、さらに太平洋戦争では「頑張り通し得る伝統的尊き精神力を持てる国民」にまで昇華してしまいました。

要は「火事場の馬鹿力」で難局打開を夢見た、きわめて都合のいい精神主義であったといわざるをえません。

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ

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前回を書いたあとに、ひとつの疑問が生じました。

「頑張り圧」は、いつ日本社会に定着したのだろうか。

多田道太郎が「頑張る」の考察をはじめて書いたのは、1970年11月23日に日経新聞に掲載されたエッセーです。

このことばを多用している。多用──いやむしろ乱用といってもよい。とりわけ若い人たちの手紙や会話には、一つや二つ、このことばが肝心のところで使われていないことはないといってよい。女の子は「頑張ってね」と言い、男の子は「おたがいに……を目ざして頑張ろう」などという。

1970年、すでに当時の若者の間で「頑張る」が乱用されていたことがわかります。

前回に書きましたが、1963年の段階では、元来の「我意を張り通す」の用例が見られます。また、大宅文庫で雑誌記事をみていくと、70年代に入っても、美徳とは思えない用例がしばしば見られます。

例1)1971年の「週刊新潮」→「まだ頑張っている阪大医学部不正入学者二人」

例2)1971年の「財界」→「なぜ“繊維”は頑張るのか/ニクソン大統領の政府間協定という強硬な申し入れにもかかわらず、繊維業界は頑強な抵抗を見せている」

この後は「がんばれサラリーマン」(アサヒ芸能、1972~1973年連載タイトル)といった感じで、いまの意味合いが主流になっていきます。美徳としての「頑張る」が日本社会にあふれ、つまり「頑張る」が日本社会でデフォルト化した、「頑張り圧」の定着時期は、70年代の初頭あたりと考えていいでしょう。いまから50年ほど前、ということです。

元の意味、美徳ではない「頑張る」が、1970年代に入ってからも使われていたことは、世代間の違いによるものではないかと思われます。1924年生まれの多田道太郎はこの頃、50歳前後。彼らが戦時中の「頑張れ」の怒号にも洗脳されず、戦後も元の意味、「いささか「悪い意味」」(多田)で使いつづけたのでしょう。

いまの「頑張る」を広めたのは、当時の若者世代、1947年から1949年に生まれた「団塊の世代」を含む、戦後生まれの世代なのです。

井上陽水が「東へ西へ」で「ガンバレみんなガンバレ」と歌ったのは1972年。まさにこの頃から、「みんな頑張る」時代が到来したのです。

時代背景についてざっくり述べておきます。

1968年、日本はGNPで世界第二位になったことが、翌1969年6月10日に経済企画庁が発表した国民所得統計(速報)で明らかになりました。ここから、日本人が「経済大国」の自負を持つようになります。すでに高度経済成長がはじまって15年。右肩上がりに豊かになる暮らしを、人々は実感していました。

この年、「モーレツ!」ということばが流行します。
石油会社のガソリンのテレビCMで、モデルの小川ローザが発した「オー・モーレツ!」です。子どもたちの間では、このことばをかけ声にしたスカートめくりなどが流行したそうですが、僕は当時4歳だったので、スカートめくりはやってません。ここから、組織の目的に迷わず突進していく「モーレツ人間」や「モーレツサラリーマン」などのことばも生まれました。

あ、高度経済成長中ずっと日本人がモーレツに頑張って働いてきたというのは勘違いです。「三丁目の夕日」や「スーダラ節」の時代の日本人は、当時、サラリーマンのあいだで「遅れず・休まず・働かず」といった合言葉が流行っていたように、さほど頑張ってはいませんでした。状況が一変するのは、1964年の東京オリンピックのあと。「根性」が流行し、「四十年不況」を境にして産業界に少数精鋭主義がうまれ、「猛烈社員」への称賛が生まれて以後のことです。

みんなでいっしょに頑張って、経済大国の座、豊かな暮らしを手に入れたという「成功神話」が、「みんなガンバレ」という思考停止社会を生み、その後、日本社会は、日本人は、「頑張る」といえば聞こえはいいけど実際は頑張るふりさえしときゃいいだろ的な実質他律依存的甘ったれなぬるま湯に浸かったままでバブル崩壊やら失われた何十年やらをずるずると過ごし70歳前後の団塊の世代はいまだに「みんなガンバレ」に埋没するかもしくは「気まぐれ」な日々を満喫するかで僕ら下の世代は次世代の価値観を確立できないでいる、ということではないかと思うのです。

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まずは前回のおさらいから。

■「頑張り圧」とは

「頑張る」が美徳となってから、このコトバに刷りこまれたプレッシャーのこと。頑張らなければ、正しい姿であらねば、こうしなければ、という圧力のことを、ここでは「頑張り圧」と呼びます。

「頑張る」とは、自発的に「やる気」を出して何かに取り組むことです。ですが、所属する社会や組織が「頑張る」をデフォルト化、つまり、頑張ることがアタリマエとなってしまうと、もはや自発的な取り組みというより、義務的な行為となってしまいます。いっけん自律をよそおってはいるけれども内実は「頑張らざるをえない」、プレッシャーにおされた他律的行為となってしまいます。

同調圧力で強要された自己犠牲的な努力。自分らしさよりも、社会や組織が求める役割を果たすこと、期待に応えること。誰かのために(特定の誰かのため、ではなく、世間体とか、体裁とかのタテマエをとりつくろうため、という場合も含めて)献身的に努力する行為が「頑張る」の本質です。

頑張りには、「正しさ」が求められます。正しい目標に、正しく頑張る。それは、既存社会が設定した正解、あるべきモデル像を受け容れることが前提です。既存社会の価値観に基づき、そこで正解とされる規範を守り、求められた役割を忠実に遂行する=期待に沿うこと、それが、「頑張る」の、いま多くの場合に使われている意味です。

「頑張り圧」のある社会とは、ひとりひとりが自分で考え、判断し、自分らしく生きることよりも、あらかじめ定められた規範に忠実に生きることが求められる社会です。

■「頑張り圧」の歴史

もともと、「頑張る」は、自分のために頑張ることでした。我意を固執してゆずらないこと、共同体のなかで風変わりな自己主張をすることであり、共同体のまとまりのためには具合の悪いことでした(多田道太郎「頑張る」)。

桜の花の散り際のようにいさぎよく、清廉潔白、恬淡寡欲。ものごとに執着しないことを良しとした日本社会では、「頑張る」は、みっともない態度だと思われていました。ときにはその滑稽さを嘲笑するニュアンスもこめられていました。

「頑張る」が今のような意味で、美徳とされだしたのは、昭和にはいってからです。日本が欧米列強に肩をならべるために待望された、「舶来モノ」のメンタリティでした。そのお手本には、もっぱら、ナポレオンやエジソンといった欧米人が挙げられ、功利主義で、執拗で、手段を選ばない「頑張り」が提唱されました。当時は、結果を出すための頑張りだったのです。しかし、このコトバが流行語となり、庶民の間に深く浸透していく過程で、「タテ社会の人間関係」(中根千枝)と化学変化を起こして、変容していったようです。

昭和11年のベルリンオリンピックでアナウンサーが絶叫した「前畑ガンバレ」は、自分のため、ではなく、お国のためにガンバレ、でした。「お国の役に立つ、あるべき日本人像」が、当時の「頑張る」には込められていたのです。

日中戦争が泥沼して以後、太平洋戦争までの期間は、「頑張れ」の怒号が日本中を席巻。その過程で、当初の語義とは真逆の「自己犠牲」ファクターが「頑張れ」に刷り込まれていったと思われます。

「頑張る」は、戦後、貧しさから豊かさへと向かう人びとの合言葉、心温かい励ましのフレーズとして復活しました。戦後の焼け跡からの復興、そして高度経済成長。頑張れば、誰もが豊かになれる、日本は一等国になれる、そう信じられた時代。「頑張る」は、1970年代に黄金期を迎えます。人びとは、右肩上がりの時代の価値観を絶対視して、次の時代に継がせます。

1980年代からは、「頑張れば夢がかなう」などのフレーズが、さかんに使われるようになりました。2000年代に入り、多くの芸能人やスポーツ選手、経営者らがそのテの発言をしきりにするようになります。

いっぽう、1990年代初頭のバブル崩壊後、「頑張っても報われるとは限らない」職場が広がるとともに、鎌田實医師の『がんばらない』(2000年)を筆頭にした「頑張る」批判が、日本社会の一部に起こります。

そして現在、「頑張る」をめぐっては、支持派と批判派で、意見が対立している状況のようです。

以上、おさらいでした。ここから本論です。

■「頑張り圧」は変化を好まない

俳優の阿部サダヲさんはインタビューのなかで、

松尾さんには、『頑張るな』とよく言われていました。頑張りすぎていると、見ている松尾さんのほうが恥ずかしくなるらしくて。だから『心のどこかに、恥ずかしいことをしているという意識を持て』と。
週刊現代、2016.5.21

と語っています。松尾は、松尾スズキさんのことです。勝手に推測すると、役者さんがしなやかな演技をするうえで、「頑張り」は邪魔になるのでしょう。また、作家の椎名誠さんは、こう言っています。

「頑張れ」っていう言葉が大嫌いです。「かたくなに突っ張らかれ」ということですよね。全身に力をこめて、鬼のような形相で」
東京新聞2000.1.4朝刊

こんな形相で芝居をされたんじゃ、見る側も疲れてしまいますよね。

すでに書きましたが、元来、ものごとに執着しないことを良しとした日本社会において、美徳としての「頑張る」はそれとは真逆に、執着することを良しとするものです。それには、続けること、いまある状態に固執することに対する過剰な賞賛が込められています。

東京オリンピックの前年、1963年に放送されたTBSラジオ「飛び出すスタジオ」の、ある日のテーマは「がんばっているあなた」でした。「モーレツ」に頑張ってる受験生やサラリーマンが出てくるのかと思いきや、その内容とは、銭湯やタクシーなどの「値上げムードにさからって値上げしないでがんばる業者」に、その言い分を聞いて歩くものでした。

新聞、雑誌などの文献をあさってみると、この頃までの「頑張る」は、いま多く使われる「どこまでも忍耐して努力する」だけでなく、元来の意味の「我意を張り通す」や「ある場所を占めて動かない」の用例がしばしば見られます。これもそのひとつです。一心不乱に努力する、といったハードな行為ではなくて、何か一つのことを、あきらめずに続けることへの賞賛に、「頑張る」はしばしば用いられました。

前に書いた、

母が子に、おばあちゃんが孫に、「勉強でも何でも頑張りなさい。頑張ったら必ずいいことがあるから」と激励し、「頑張る」こと、続けることの大切さが、民間伝承のように語り継がれていきます。

というのも、地道にコツコツとやり続けることを良しとするものでしょう。

右肩上がりの時代ならそれでよかったのでしょうが、今のご時世ではそうもいっていられません。新聞には、「老親の商売 どうたたむか」と題した、こんな声が投書されています。

私たちの親は高度成長期に働き盛りで「真面目に働いていれば必ず報われる」と信じてきた世代だ。その精神は尊びたいが、〔略〕真面目な親たちは、もう行き詰っている商売でも、「今やめると他人に迷惑がかかる」と頑張り続ける。〔略〕最後の血の一滴まで振り絞って頑張ろうとする老親たちに、子はどんな言葉をかけたらいいのだろうか。
朝日新聞2017.8.28朝刊p10、吉田正太、47歳

「是が非でも会社を守ろうという経営者の頑張りが、逆に悲劇を招いている」と指摘される一例ですね(日経ベンチャー2001年11月号特集「廃業の限界点 頑張りすぎて人生を棒に振らないために」)。このような事例は、いま、全国そこらじゅうにあるはずです。

「頑張る」が推奨されはじめた頃。昭和6年の満洲事変以降の日本は、ひたすら頑張りました。国際連盟脱退、日独防共協定、日中戦争、日独伊三国同盟、そして太平洋戦争へといたる道は、日本が頑張りつづけた過程です。結果、昭和20年の敗戦を迎えました。

その歴史から学べる教訓は、「あまり頑張ってばかりいると、ヤバいかもよ」というものだったでしょうが、いっぽう、戦後の高度経済成長は、「頑張る」がやけにフィットしていましたので、庶民の間で定着していったのでしょう。

■「頑張り圧」が僕らの邪魔をする

「頑張る」を良しとする、昭和以来の伝統的な価値観は、いまを生きる僕らにとって、足かせとなっている場合があるように思います。その膠着性は、社会や組織のしなやかさ、柔軟性を阻み、思考停止や無責任体質を助長する風土を助長する大きなファクターとなり、日本社会の健全な成長を阻害する要因になっているのではないでしょうか。

さらにいえば、僕らは何かというと
「頑張ってるか」
「はい、頑張ってます」
といったやりとりを日常的に交わしていますが、「頑張ってます」と言っておけば許される、そんな甘さがありませんか?

肝心なのは、どう頑張ったか、です。やみくもに毎日15時間机に向かって勉強すれば志望大学に受かるというものでもありません。効率的に、戦略的に勉強しなければ、ライバルたちを出し抜くことはできないのではないでしょうか。

受験生を応援するイベントに招かれた「熱血」松岡修造さんも、「ガンバレの使い方が間違っている人は嫌い」とコメント。「根性論でガンバレ!というのではなく、具体的に方法論を教えることが大切」と語っています。

新渡戸稲造の教え「臨機応変に」

五千円券の肖像として知られ、日本最初の国際人ともいわれる新渡戸稲造は、「如何なる時に頑張るべきか」と題した文のなかで、こう記しています(昭和6年)。

一旦思った事ならば、目的も手段も決して変更しないと云ふことが、果して意志の強き謂であるか、若しさうなら融通も変通もきかない頑物ともいふべくして、頑張りの思はしはらざる方向である頑固なる性質のみに重きを置くことであって斯の如き人は「世の中は思ふ通りゆかぬものです」との嘆声を最も屡々放たねばならない哀れな愚物である。

痛烈な「頑張る」批判、とも受け取れます。

新渡戸はむしろ、「柔和極まる人にして、一旦決した事はジリジリと守り続けて、その目的に達するまでは如何なる障害があっても、失望せず、怒りもせず、泣きもせず、初志を貫かんとしてそれこそ百難千困の障害物にも耐えて進む」ことを良しとします。

「目的は高き理想に置くべくして、之に達する道筋は臨機応変に執るべき」であり、いかに度々方法を変えようとも、最初の目的を最後まで追求することこそが、ほんとうの頑張りではないか、というのが、その主張です。

「梃でも動かない頑強さ」や「是が非でも言ひ出したとなったら退かぬ」といった頑なな態度では、国際社会のなかで日本が伍していくことはできない、と考えていたのかもしれません。

目的に向かって、しなやかに努力する。自分の頭で考え、戦略をもち、臨機応変に困難を乗り越えていく。

いまや、頑張らないという戦略を、僕らは身につける必要があるのではないでしょうか、というのが、ぼくの主張です。

■まとめと提言:楽勝のススメ

二回にわたってお送りしてきた「頑張り圧」についての論考の最後に、とりあえずの提言などをならべておきます。皆さんの心に、何がしかひっかかるモノがあれば。

僕たち日本人はもともと、執着心がうすいので、頑張ることは苦手です。
無理して頑張っています。もしくは、頑張っているフリをしています。

頑張ったら必ずいいことがあるから、は、迷信です。
何事も達成するには頑張らなくてはならない、も、思い込みです。
頑張れば夢がかなう、は、頑張っても報われるとは限らない時代に出現したファンタジーです。

いつ頑張るか、何をどう頑張るかは、よく見極めましょう。
どうせ頑張るなら、勝つため、成果をあげるために、適切に頑張りましょう
どうせ頑張るなら、自分のため、大切な家族や友人、同僚や部下のために頑張りましょう。

かつて日本は、一心不乱に頑張った挙句にボロ負けした過去を持っていることを、思い出しましょう。
頑張って世界第二位の経済大国にまでのぼりつめたという自画像は、誤りです。最新の歴史経済学は否定しています。

一心不乱に頑張っているとき、思考は停止しています。もっと戦略をもって戦いましょう。
一心不乱に頑張っているだけの組織は、無責任体質です。頑張りを煽る上司は、無能です。
自発を強要する会社はブラック企業、自発を強要する社会はブラック社会です。

頑張るはときに、自主的思考、個人の自由な発想や行動を阻害します。
既存の価値観を疑いましょう。頑張れの連呼を疑いましょう。
ただ頑張っているうちは、ダメでしょう、日本社会は。

頑張りはときに、しなやかさと対立します。柔軟な発想、臨機応変に目標にたどりつく現実的な方策を、新渡戸稲造は推奨しています。世の中、そんなに思うとおりにはいきません。

続けることに過剰な望みは禁物です。決してあきらめない姿は、成功してこそ英雄で、失敗したら悲劇です。天国に向かっているのかそれとも地獄か、先をよく見極めましょう。

嫌なものは、嫌だといいましょう。
あるべき姿を、疑いましょう。正解主義を、疑いましょう。押しつけられる役割や期待を、疑いましょう。
「頑張り圧」はとりわけ高所から低所に向かいます。若者や女性、社会的弱者はとくに、気をつけましょう。
規定の価値観を強要する、無意味な頑張りは整理して、もっと楽しく生きましょう。

…と書いていったら、気がつきました。頑張り圧からの逃走で得られるもの。ひとつは、自分らしく生きられることで得られる楽しさ。もうひとつは、勝つための柔軟な戦略性。つまり、「楽勝のススメ」だということになりました。

■参考)「頑張る」に関する最新研究

同志社大学教授で組織論を専門とする太田肇氏は、『がんばると迷惑な人』(新調新書、2014年)のなかで「努力の質を犠牲にする“がんばり”に意味がないばかりか、有害になってきた」と指摘。

帝京大学准教授で社会学者の大川清丈氏は、『がんばること/がんばらないことの社会学』(ハーベスト社、2016年)のなかで、「「おたがいに頑張」っているわれわれ、いわば「頑張りの共同体(コミュニティ)」こそ、われわれを規制する共同体であったのではないか」と指摘。

これらの言説も参考にさせていただきました。

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頑張るという美徳:自己犠牲を期待する圧力が時に僕らを縛りつける

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ

頑張るという美徳:自己犠牲を期待する圧力が時に僕らを縛りつける

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「頑張る」がもつ含意、表面にはあらわれない、もうひとつの意味についての歴史的な考察です。

きょうもがんばろう!そう言って日々頑張っているあなたは、いったい誰のために頑張っていますか?

頑張らなければ、正しい姿であらねば、こうしなければ、…という圧力に日々さらされている現代日本人、とりわけ、社会や組織のなかでその圧をいちばん強く受けている、若者と女性に向けて書きました。

「頑張りすぎないママが好き」と題した、月刊誌ヴェリィ(VERY)編集長、今尾朝子さんのコラムを読みました(朝日新聞2018年1月6日p21)。

今尾さんは、

昨年を振り返ってみると、ママたちに「頑張ろう」というより、「頑張らないで」というメッセージを伝える機会が増えた一年だったなと思います。

と書いています。何故か。ママたちが頑張りすぎているから、だそうです。いまどきのママたちは、

自分がやらなければ、家庭が回らないことが多すぎる。育児休業から復帰したからには仕事だって頑張りたい。自分自身に完璧を求めるつもりはなくても、周りができているであろうことができない自分に罪悪感を覚えてしまう。

という心境なのだそうです。

では、「頑張る」とは、一体全体どういうことなのか。これが、今回の主題です。

広辞苑(第6版・2008年)では、

①我意を張り通す。「まちがいないと─・る」
②どこまでも忍耐して努力する。「成功するまで─・る」
③ある場所を占めて動かない。「入口で─・る」

となっています。

現在、多くの人たちはおそらく、②の「どこまでも忍耐して努力する」の意味で、この「頑張る」という言葉を使っている、と思っているはずです。

数年前から僕は、この「頑張る」というコトバの、歴史的変遷や時代との連関、日本社会における意味などについて、明治以降の文献を手がかりに調べていますが、そこから見えてきたことです。じつは、いま一般的に使われている「頑張る」の本当の意味は、「忍耐して努力する」では、ありません。

「頑張る」に、もっとも必要なのは、一種の「自己犠牲」の要素です。自分を犠牲にして、「誰か」(←これも問題、後述)のために献身的に努力する行為(もしくは、そのフリ)こそが、現代日本で日常語と化した「頑張る」の本質なのだと、僕は考えています。

別のいいかたをすると、役割を果たす(もしくは、そのフリ)、ということです。母親として、妻として、働く女性として、求められた役割をきちんと果たす、期待に応えることが、頑張る、ということです。頑張る行為には、「正しさ」が求められます。だから、できない自分に罪悪感を覚えてしまうのです。

今尾さんは、こうも書いています。

自分のために頑張りたいときは必死になればいいけど、ママだけが頑張りすぎて疲れてしまうのはちょっと違う。

たしかに、ちょっと違います。自分のために頑張るのは、本当の「頑張る」では、ありません。いや、それも違います。

元来の「頑張る」は、まさしく、自分のために頑張ること、だったのですが、いま使われている「頑張る」は、多くの場合、自分以外のために頑張ることです。

もちろん、人のために頑張ることは素晴らしいことですし、誰かに尽くすことで自身の喜びも得られます。現在、頑張る人といえば一般に、

職場でも家庭でも、頑張る人は尊敬され、重宝されます。
~矢作直樹『自分を休ませる練習』p16

という存在です。それはほんらい、自分がやりたくてしていることです。自発的に「やる気」を出し、積極的に取り組む姿が尊敬され、重宝されます。ですが、社会や組織でそれがデフォルト化されると、自律のふりをした他律的な行為となり、自発的な貢献を強要されることになります。自分らしくないのに自分らしく、という、奇妙なことになってしまいます。「頑張る」が重たいのは、努力する行為そのものが重たいということ以上に、自己犠牲を強要されるのが、とても重たいのです。自分らしさからどんどん乖離していくのが、辛いのです。だから、頑張りすぎて疲れてしまうのです。

「誰」のための頑張りなのか、というのも、重要な点です。僕らが「頑張る」とき、しばしば、自分のためでも、特定の誰かのためでもなく、世間体とか、体裁とか、そんなものをとりつくろうために、「頑張る」を口にしていませんか。「頑張る」が美徳になって以降、頑張っている人を嘲笑するようなことは、なくなりました。かつて、「あいつ、頑張ってるな」は、「あいつ、まだ強情を張ってるのか」といった、呆れや、嘲笑のニュアンスがありましたが、いまは、とにかく頑張ってさえいれば、つまり、頑張る姿を示したり、「頑張ってます」と言ったりしていれば、人から悪口を言われることはありません。…という、いわば社会生活を営む上でのタテマエ的な挨拶言葉として、「頑張る」が使われているケースが、ふだんの生活ではよくあるように思います。

ところで、頑張っている人のことを、「頑張り屋さん」と言ったりします。現在、この「頑張り屋さん」は、好意的に使われていて、「あの子はほんとうに頑張り屋さんで」などと褒めたりします。ですが、かつての「頑張り屋さん」は違います。

鉄道王」とも呼ばれた実業家、初代根津嘉一郎氏は、財界きっての頑張り屋さんとして有名でした。戦後、昭和27年の雑誌に、「頑張り屋、根津嘉一郎」という記事が載っています。ここでは、根津について、

根津さんは頑張り屋として聞こえていた。生まれたままの大きな赤ん坊で、何事にも、また何人にも、対手{相手、の意}かまわずガムシャラに突っかかっていた。
・・・
その生地がむきだしのところが、当時の財界では全く特異な存在であった。

と書いています。いま読むと、なんだか違和感があります。

戦前の雑誌記事では、根津氏のことを、「一旦言ひ出したら断じて後へは引かぬガン張り屋」(昭和5年)と形容しています。つまりは、頑固一徹、頑固ジジイ。上記の広辞苑では、①の意味になります。自己犠牲の要素など、みじんもありません。むしろ自己主張。あくまでも我を通し、わがままで、ある意味、迷惑な存在です。

娯楽映画の世界では、主人公が奮闘するドタバタ喜劇もののタイトルに、「頑張る」をつけることがよくありました。管見の限りで最古のものは、昭和3年の映画「娘頑張れ」。当時の雑誌記事では、その内容を、「奇術を勉強して松旭斎豚勝の名を得た上村太吉は錦をかざって故郷の恋人お春のもとへ急ぐ……それからはギヤツグを用ひて独得の喜劇です」と記しています。この流れは戦後も続き、昭和38年には有楽町の日劇で、中尾ミエ、園まり、伊藤ゆかりによる、「頑張れ!ハッスル3人娘」と題した舞台が行われています。

かつての「頑張る」には、このように、ときに滑稽なニュアンスが含まれていました。年月の経過とともに、「頑張る」は180度の変化を遂げ、いまでは推奨される美徳となりました。

今尾さんが書く「頑張りすぎている」状況は、今に始まったことではありませんし、ママたちに限ったことでもありません。

横浜市の高校生、ペンネーム・横浜太郎氏の「ガンバレ」と題する詩(1989年)。

毎日ふつうに生きていたいのに
「ガンバッテ」がついてくる
「時間よ。ガンバッテ起きなさい」
「ほら、ガンバッテ食べなさい」
「行ってらっしゃい。ガンバッテネ」
〔略〕
「ガンバッテ ガンバッテ」と言われてるうちに
一息いれるまもなくて
からだの中を流れる血がだんだん濃くなって
鉛のように重たくなって
ガンバレナイ人はいつのまにか消えて
ガンバッタ強い人はもっとガンバッテ
〔略〕
毎日ふつうに生きていたいので
「ガンバレ」は嫌いです

この詩が発表された1980年代は、「頑張れば夢がかなう」とか、「あきらめなければ夢はかなう」といった、いまよく耳にする「成果にコミット」した励ましのフレーズが、さかんに使われるようになりはじめた時期です。その傾向が顕著になり、多くの芸能人やスポーツ選手、経営者らがインタビューなどでそのテの発言を多くするようになったのは、2000年代に入ってからです。

成功した人たちは、だいたいが頑張って成果を出してきた人たちですから、それはそれは頑張ってきたのでしょう。でも、成果をあげることが素晴らしい、ではなく、頑張るプロセスが素晴らしい、とするのは、読者がそうした夢物語、ファンタジーを求めたからでしょう。

いっぽう、1990年代初頭のバブル崩壊後、「頑張っても報われるとは限らない」職場の広がりとともに、鎌田實医師の『がんばらない』(2000年)を筆頭にした「頑張る」批判が、日本社会の一部に起こります。

一例を挙げると、
・教師は生徒に、「やれば、できる!」「頑張ってやりなさい」と励ますが、それを繰り返し聞かされていると、「できないのは自分の頑張りが足りないからだ」「自分がダメだからだ」と思い込む生徒がいる。(1995年、関根正明・武蔵野音楽大学講師)
・頑張る人を美しく表現することは、頑張れない人に×をつけ、頑張らなければならない構造を温存させる。なんとも残酷な言葉だ。(2000年、辛淑玉
・頑張れば何でもできると思うのは幻想。一握りの成功者が「頑張れば夢はかなう」と言うのは傲慢。(2008年、山田太一
などなど。

なぜ、こんなことになってしまったのでしょう。

ドイツと日本を比較した研究が、一つのヒントを与えてくれます。ヨーロッパ文学の小林康彦氏の論文「独訳が難しい日本語─頑張れ!」(2005年)によれば、言語的にユニークなのは「頑張る」ではなく、励ましの言葉「頑張れ」です。

和独辞典に出ている「頑張る」としてのドイツ語訳(〔略〕の8語)は、今現在頑張っている様子や過去に頑張ったことを説明・表現する場合、つまり「~は頑張っている」や「~は頑張った」というような場合には頻繁に、そしてごく自然に使われる。しかし、「頑張れ!」と激励・応援する場合にこれらの語が使われることはほとんどない。

小林氏によれば、ドイツ人は口を揃えて「ドイツ人は日本人のように何でもかんでも、頑張れとは言わない」と言い、そのうちの一人はユーモアまじりに、「それでも日本人に負けないくらい頑張っていると思うよ!」と返してきたといいます。

ドイツ人といえば、いわずと知れた「ゲルマン魂」。サッカーのワールドカップで見せる、ドイツチームの気迫と執念に満ちたプレーは、日本チームの比ではありませんから、「日本人に負けないくらい頑張っている」というのは、相当に謙虚な表現です。

そもそも、日本社会の日常生活のなかで「頑張る」や「頑張れ」が今のような意味で使われはじめたのは、僕の調べによれば、昭和にはいってからで、当時はその見本として、もっぱら欧米人が挙げられていました。

戦の勝利は最後の5分間にある」の有名な名言で、最後まで頑張りぬく大切さを説いたナポレオンを筆頭に、「蓄電池一つに十五年」の発明王エジソン、「全英国を敵手に頑張り通して八年、つひに大英帝国最初の労働宰相たる栄冠を戴いた」ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド、などなど。

「頑張る」は当初、欧米列強に日本が肩をならべるために待望された、「舶来モノ」のメンタリティでした。同時期にしきりといわれた「日本精神」と同様、「お国の役に立つ、あるべき日本人像」が、当時の「頑張る」「頑張れ」には込められていました。

『しぐさの日本文化』で「頑張る」の考察に一章を費やした多田道太郎は、「頑張る」が好感をもって迎えられ、日常生活で多用されるようになったきっかけを、昭和11年のベルリンオリンピックでアナウンサーが絶叫した「前畑ガンバレ」だったとしています。それにちなんで、8月11日が「ガンバレの日」になっているようなのですが、これより前から「頑張る」が流行語だったことを、僕は当時の文献で確認しています。おそらく、多田少年(このとき11歳)にとって、「前畑ガンバレ」がよほど印象的だったことから、こうした見当になったのでしょう。ちなみに、このときの前畑ら日本代表選手のオリンピックでの活躍は、「わが日本の威力を全地球の上に輝かした世界的選手諸君」(当時の新聞投書)と国民に受け取られました。

自分のため、ではなく、お国のために、ガンバレ。同調圧力でデフォルト化された自己犠牲的な努力。「前畑ガンバレ」の翌年には日中戦争がおこります。とりわけ、日中戦争が泥沼して以後、太平洋戦争までの期間は、「頑張れ」の怒号が日本中を席巻しました。ここで、当初の語義とは真逆の「自己犠牲」ファクターが「頑張れ」に刷り込まれていったと思われます。

「頑張る」「頑張れ」が、心温かい言葉だった時もありました。戦後の高度経済成長期です。戦後の焼け野原からの復興を遂げた日本は、やがて、国をあげて豊かさに猛進する時代に突入します。その恩恵をもっとも受けたのは、貧しい人たち、恵まれない人たちでした。彼らが豊かさを手に入れていく合言葉として、「頑張る」「頑張れ」がさかんに使われました。

頑張れば、誰もが豊かになれる。幸せになれる。なんとかなる。そう思えた時代は、1970年代に黄金期を迎えます。「頑張る」「頑張れ」には、いまでも、その頃の優しさの名残があります。だからこそ、いっそう、残酷なコトバでもある、僕はそう思います。

戦時下の日本人は、頑張っても夢はかないませんでしたが、戦後再出発した日本人は、今度は、頑張って夢をかなえました。少なくとも、人々は、そう信じました。豊かになる、一等国になる、大国になる。その夢をかなえた人々は、自分たちが一丸となって頑張ったと信じた、社会のあり方や価値観を絶対視して、次の時代に継がせます。戦後高度経済成長以後に生まれ育った僕ら(僕は1965年=昭和40年生)は、それを受け継いだ世代です。

母が子に、おばあちゃんが孫に、「勉強でも何でも頑張りなさい。頑張ったら必ずいいことがあるから」と激励し、「頑張る」こと、続けることの大切さが、民間伝承のように語り継がれていきます。「何事も達成するためには頑張らなくてはならない」(『自分を変える習慣力、三浦将、2015年』)との思いが、僕らの心に定着します。

「頑張る」が提唱されだした昭和初期の段階では、推奨された「頑張る」は、それとはちょっと違うものでした。当時の大衆娯楽雑誌『キング』に、著名な建築家、伊東忠太の「最後の瞬間まで頑張れ」と題した一文が載っています。

欧米人の特性は我国民の夫れに比して著しい相違がある。彼等は恬淡寡欲に非ずして何処までも功利主義であり、従って随分執拗であり、往々悪辣陰険なる手段もやり兼ねぬ。外交上の問題に於ても、吾人がいつ迄も古武士流の徳義を固守しているが為彼等の翻弄する所となり失敗を蒙ること少なくない。
〔略〕若し我が国民がこの欠点を自覚し、百難に耐ふるの執念と、千辛萬苦を忍ぶ根気を養成し、小心大膽の精神を以て最後の瞬間まで努力をつゞけることが出来たならば、何事に於ても欧米諸国に一歩も譲る処は無いのである。

桜の花の散り際のように淡白で、ものごとに執着しない日本人にくらべ、欧米人は功利主義で執拗で手段を選ばない。…サッカーで言われる「マリーシア」(ずる賢さを意味するポルトガル語)を思わせます。勝つための頑張り、成果をあげるための頑張りが、当初は求められていたのですが、「タテ社会の人間関係」(中根千枝)の日本社会で庶民の間に深く浸透していくうちに、その意味が変容していったようです。

「頑張れ」という励ましは、言外に、価値観の共有を前提としています(=何を頑張るかなんて、いわずもがな!)。価値観を共有していた高度成長期(=みんなで豊かになるぞ!)なら、それでよかったのです。受験やスポーツ競技など、目指す方向が自明であるとき、「頑張れ」は強力な応援のフレーズになりえますし、実際、受験界では古くから「頑張る」「頑張れ」が使われていました。「ガンバリズム」という言葉も、管見の限り、昭和2年の受験雑誌が最も古い使用例です。

しかしそれは、自分で考え、行動する、自律的な個人のあり方とは、相容れないものです。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』は「僕たち人間は、自分で自分を決定する力を持っている」(漫画版p301)と説きますが、この本が出版された昭和12年には日中戦争が始まり、以後、多くの日本人が、「自分で自分を決定する力」を行使することなく、自主的思考が不十分で権威に追従したことで、結果、多くの戦争犠牲者を生むことになりました。

以前に僕は、

この国は、ひとりひとりが自分で考えて判断することよりも、既存の社会のあり方や価値観を疑いもなく受容し、規範を忠実に守り、求められた役割を忠実に遂行することを、推奨しつづけてきたのではないでしょうか。

と書きました。これは、教育心理学者の藤原喜悦氏の主張(1991年)を援用したものですが、この「既存の社会のあり方や価値観を疑いもなく受容し、規範を忠実に守り、求められた役割を忠実に遂行すること」こそが、まさしく、いま、ママたちばかりか、日本中の人々を疲弊させている「頑張る」の本質です。

頑張るとは、現在、多くの場合、求められた役割を忠実に遂行する=期待に沿う、なのであり、頑張れとは、求められた役割を忠実に遂行しろ=期待に沿え、なのです。

多田道太郎は、「頑張る」の考察のなかで、

結婚式を終えたカップルを駅頭におくる若人たちが、つい無意識に「頑張ってきてね」などという。結婚という事業も頑張らなければできないという、これは集団的無意識の表現なのであろうか。
~『しぐさの日本文化』講談社学術文庫、2014年、p33

と疑問をなげかけていますが、「頑張ってきてね」を「求められた役割を忠実に遂行してきてね」と言い換えれば、なるほど、皆ニヤニヤしながら激励をするわけだと、納得もいきます。

自発的な努力を期待する「頑張れ」圧力には、観客がスポーツ選手に叫ぶ「頑張れ」もあれば、互いに励ましあう「おまえも頑張れ」もありますが、日本社会を支配する「頑張れ」圧力は、基本的に、高いところから低いところに、目上から目下へと向けられます。年配から若者へ、強者から弱者へと向かいます。女性や若者が、もっともその圧力にさらされているはずです。だから、ママたちは頑張りすぎて疲れてしまうのです。

さらにいえば、高齢化社会とは、「頑張れ」圧力がそれまでよりも強力に作用する社会であり、放置しておけば、今後さらに強化される恐れがあります。

…という現状への危機感ともいえる言説が、いま、各所からあがりはじめているように、僕には思えます。

嫌なものは嫌だと言おうと。

僕の知人が先日、欅坂46の「不協和音」に出てくる歌詞「僕は嫌だ」に、

時代の同調圧に抵抗する若者の心を悔しいことに秋元康が見事に詞にしている。

と書いていました。

先日の新聞記事「(逃走/闘争 2018:5)働き方、「正解」に縛られない」(朝日新聞2018年1月8日p29)の見出しには、「「日本のため」より自分の声に正直に」
と書かれ、記事中には、元SMAP稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾がサイトに公開した動画にある、

「逃げよう」「自分を縛りつけるものから」

という言葉を紹介しています。

「やりたくないこと やらない」(朝日新聞2017年3月13日p11)で、東大東洋文化研究所教授の安冨歩氏は、

システムに支配されないためには、システムの中にいる私たちが立場に縛られず、自分自身となることです。そして、一人ひとりがその場でシステムの要求に従わないようにするしかありません。「しないといけない」とプレッシャーを感じることは、しない。そして、「したい」と思うけど足がすくむようなことは、やるのです。たとえば、「専業主婦だから掃除しなきゃいけないのに、自分はできていない」と思って胸が苦しくなるなら、掃除なんてそこまでしなければいいんです。〔略〕システムを変えるには、ものすごいエネルギーがいります。でも、小さなボイコットが多発すれば、システムは作動不良を起こし、違う方向に動き出すんです。

と語っていますが、戦時下の国民は、じつは案外、システムを変えるほどではないにしても、この「小さなボイコット」をしていました(→「昭和18年7月の特高月報:かなり物騒だった戦時下の民衆」を参照)。

戦時中、旧制高校で「反骨バンカラ学生」だったという小川再治氏(元東京学芸大学教授)は、当時のこんなエピソードを書き残しています。

某高級軍人が当時一高を訪ねた時、「ゾル帰れ」の落書きがあったという話を聞いた。「ゾル」とは当時の高校生が軍人を指す蔑称だった。また、私は偶然浦和高校生が応召学生を送る集会を上野駅前で見たが、軍人が見たら立腹しそうな「大いなる自由を愛せ」の大のぼりが立っていた。
~『孤高異端』2008年、p93

戦時中に「大いなる自由を愛せ」とは、たいした度胸です。彼ら浦高生が掲げたように、僕たちも、自分を縛りつけるもの、既存社会が強要する規範、システムの支配をボイコットして、大いなる自由を愛しませんか。嫌なものは嫌だと、言いませんか。

小田嶋隆氏は、

我々は自分自身であることより、自分たちが帰属する組織の規範を強く意識している。
朝日新聞20171212p37

と指摘していますが、その伝統は、そんなに古くからのものでも、日本民族に固有のものでもないし、ぶっちゃけてしまえば、僕らは、「自分たちが帰属する組織の規範」というタテマエに、日々忠実に生きているわけでもありません。

「頑張る」とは、ある意味、「頑張ってるフリ」、つまり、頑張るという「お約束」もしくは、「頑張っているプレイ」の面もあります。正しき美徳、タテマエとしての「頑張る」さえ口にしておけば万事オーライ、誰かのために献身的に努力するフリや、役割を果たすフリ。

もともと頑張るのが苦手で、「奮闘努力の精神に乏しく、遊惰安逸に流れ、飽きやすく諦めやすく、一念を通す粘り強さに欠けた国民性」の僕たちが「要領よくやってきた」という側面もあります(ですよね?)。頑張りすぎて疲れてしまう人は、おそらく、とても優しい人です。生真面目に、既存社会が設定した正解、あるべきモデル像で自分を縛りつけてしまっているのだと思います。

先日の新聞に掲載された、作家・朝井リョウ氏の寄稿から(朝日新聞2018年1月7日p7)。

嫌だと思ったことを嫌だと言っていいんじゃないかって。
・・・
俺が嫌だと思った言葉を受け流すってことは、次の世代にその嫌な言葉が流れ着くってことかなあって。
・・・
新しい方法で元号が変わるってなったとき、自分ももっと、自分なりのやり方で、嫌だと思うことにNOを突き付けていいのかもって思ったんだよね。
・・・
あらゆる変化は、分厚いように見えて実はとても柔らかい思い込みで編まれていた縄から私たちを抜け出させ、新たな選択肢に手を伸ばすきっかけをくれる。これまでそうだったのだから、それが世間の常識だからという呪いの言葉から解放され、自分だけの人生の形を追い求める号砲となりうる。

僕たちはきっと、もっと楽しく、生きられるはずです。

※続きを書きましたので、あわせてどうぞ。→「「頑張り圧」という悪弊、頑張らないという戦略

※こちらもどうぞ。→「「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ

※2018年1月11日22:00初稿公開、2018年1月14日15:20第二稿公開、2018年1月16日10:30タイトル変更、その他、随時微修正。

平和≒戦争:「戦争は絶対にダメ」は、逆に戦争へのエンジンとなりうる

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「戦争は絶対にダメ」という言説が「無条件」で受容される社会は、戦争が「無条件」で肯定された、かつての日本と本質的に同じで、自主的思考より、求められた役割を忠実に遂行することが賞賛される社会は、戦争へ進む危険を常にはらんでいると思います。

昨夏に感じたことを、今になって書きます。

毎年、8月の終戦記念日のあたりになると、戦争を体験したお年寄りたちが、新聞やテレビなどのメディアに登場して、「戦争は絶対にダメだ」と語ります。いつからか、それはこの国の恒例行事となっています。

平和を尊ぶ精神は素晴らしいもので、文句のつけようがありません。それに、彼らの実体験を知れば、その悲惨な体験をくぐりぬけてきた彼らが「戦争は絶対にダメだ」と訴えるのは、しごく当然にも思います。

ですが、それを聞かされる僕らの側(彼らを取材し、そのことばを伝えるメディア、ジャーナリズムをふくめて)が、その言説を無批判に受け入れることは、危険だと思います。

なぜなら、「戦争はダメ」という高い理念をかかげ、しかもそれを「絶対に」とするのは、ひとつの主張に対し一切の異論反論を許さないという考え方であり、それはかつて、満洲事変以降、国際社会に対して独自外交という高い理念を掲げて邁進、衝突し、とうとうアメリカとの戦争にまで踏みこんでしまった当時の日本を主導した考えと、共通しているからです。

いま、平和を「無条件に」肯定し、戦争を「無条件に」否定する勢力とは、事態がいったん変われば、戦争を無条件に肯定し、「鬼畜米英」を叫んだかつての勢力のような存在へと、すんなりと移行してしまうのではないか、僕は、それを危惧しています。

もちろん、戦争はダメです。通常の外交努力を放棄して、一国の主張を力づくでもって、相手国や国際社会に認めさせようとするなど、言語道断。どの時代であっても、許されるものではありません。

ですが実際には、この世界の歴史のなかで、人類は戦争を起こし続けてきました。日本だってそうです。戦国時代なんて合戦につぐ合戦です。「戦争は絶対にダメだ」というのなら、織田信長豊臣秀吉徳川家康も、その他おおぜいの戦国武将たちも、厳しく批判しなければなりませんし、大河ドラマでヒーロー扱いするなど、もってのほか(ですよね?)。

理由のない戦争などはありません。戦争をなくそうとするのなら、理由にまで踏み込んでいかなければなりません。「絶対にダメ」と主張するだけなら、それはキレイゴトです。キレイゴトが、毎年8月15日になると、この国を覆いつくすこと自体、僕らが戦時中から本質的にまったく変わっていないことを示しているのではないでしょうか。

「鉄板」化の果てにあるものは、自主的思考の放棄です。

進むべき道が自明だった時代。自主的思考を放棄できた時代。」では、「戦争末期、空襲の際に防空壕に逃げ込みながら「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と考えた」と書いた、当時19歳だった男性の新聞投書を紹介しました。ここでは、その掲載全文を紹介します。

戦争末期、空襲の際に防空壕に逃げ込みながら「自主的思考が不十分で権威に追従していたから、死の一歩手前まで追いつめられた」と考えた。ある日の空襲は特に激しく、母屋は全焼。隠れていた防空壕も、熱と煙で息苦しくなった。蒸し焼きになると思い、近くの池に飛び込んで九死に一生を得た。
戦後70年の今、戦前・戦中の価値観を評価する風潮がある。「命を投げ出しても守るべき価値がある」という主張を聞くが、私の若いころもそうだった。特攻隊員が心ならずも納得させられたのは、こうした論理だったのではないか。
戦後の平和憲法には、私が必死に求めていた個人の生命を最優先する主張が明確に入っていた。「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)。
しかし、自民党の改正草案では「全て国民は、人として尊重される」となっている。「個人」は国家などの組織に対抗する概念で、地位や職業と切り離した「一人の人」だ。だが「人」は生物学的な概念に過ぎず、人間性を軽視している。このことの危険性を、私たちは自覚すべきではないか。
(無職・日野資純・静岡県・89歳、2015.3.15朝日新聞)。

自主的思考を放棄することは、思考のアウトソーシング、他律依存です。思考停止を強いる言説は、戦争へのエンジンです。

戦後の日本社会は、自主的な思考、人それぞれの個性や自主性を尊重することを尊重してきたのでしょうか。終戦後、

わずか数年で、国民の間に伝統回帰的な風潮がめばえ、子どもたちの自主性や個性を尊重する「新教育」に対する反発から、昔ながらの問答不要のしつけを学校に求める声が強まったことや、昭和39年の東京オリンピック後に、軍隊ばりの、あるいは軍隊顔負けの「根性」ブームが起き、その後、体罰、しごき、精神論が教育現場で猛威をふるったこと(過去に向きあう。未来を手に入れる。

を思えば、残念ながら、僕にはそうは思えません。

この国は、ひとりひとりが自分で考えて判断することよりも、既存の社会のあり方や価値観を疑いもなく受容し、規範を忠実に守り、求められた役割を忠実に遂行することを、推奨しつづけてきたのではないでしょうか。

先日手にとった本に、僕の考えと同じことが書いてありました。

「戦争」という言葉を聞いただけで思考停止に陥り、反射的に「反対」という言葉を頭に浮かび上がらせるのは、非常に危険な思考停止である。戦争に無条件に「反対」することは、状況が変われば、無条件に「賛成」することにつながりかねないのである。
~倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書、2017年)p292

「戦争は絶対にダメ」という言説が無批判であふれる社会は、その傾向が強まれば強まるほど、逆に戦争への道を進んでいく、僕にはそう思えてなりません。